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○「みその日
30日は、「みそか(三十)」にかけて、全国味噌工業協同組合連合会が1982(昭和57)年9月に、毎月30日を「みその日」として制定しました。食生活の洋風化と外食による味噌の消費減少にストップをかけることをねらいにしています。その味噌にちなみ、大岡越前の「味噌のお話し」です。

昔、あるところに、おばあさんがいました。おばあさんは、貯めたお金を泥棒に取られては大変と、味噌がめの底にお金を隠しておきました。ところがある日、おばあさんがちょっと家を空けたすきに、味噌がめの底のお金を、全部ぬすまれてしまったのです。「どうか、どろぼうをつかまえてください」おばあさんは、町奉行(まちぶぎょう)の大岡越前守(おおおかえちぜんのかみ)にうったえました。「よしよし、任せておきなさい」越前守(えちぜんのかみ)は、おばあさんの家の近くに住んでいる人たちを集めて、「この中に、どろぼうがおる。犯人は味噌がめのお金を取るとき、味噌をかき回したはずじゃ。味噌に手をつっこむと、半年は、においがなくならん。もし隠しても、調べればすぐに分るぞ」と、いいました。
すると、後ろのほうにすわっていた男が、そっと手を出して、においをかいでいます。越前守の話しを聞いて、味噌のにおいがついているかどうか、心配になったのでしょう。「その男をひっとらえよ」越前守は、こうして犯人をつかまえ、盗まれたお金をおばあさんに返してあげたのです。「うむ、これにて、一件落着!

おしまい
(20100630)

○「紫陽花
本堂の裏手では、紫陽花(あじさい)がキレイな花を咲かせています。
紫陽花は、別名「雨に咲く花」と言われています。梅雨時に、気温20度以上で開花する様です。雨が降らないと咲いている紫陽花は元気なくみえます。雨が似合う花、紫陽花。その紫陽花は、日本原産で、来日したシーボルトが帰国した際、海外に広めたそうです。学名は「オタクサ」と言い、シーボルトが愛した、「お滝さん」の名前を取ったと言われています。紫陽花は、は古くは「あづさい」といい、「あづ」は集まるさまを意味し、特に小さいものが集まることを表わすことば。「さい」は「真藍(さあい)」の約、または接頭語の「さ」と「藍(あい)」の約で、藍色の花の集まって咲くことから、この名がつけられたようです。さらに調べてみたら、「紫陽花」の漢字を使用したのは源順で、源順が中国の白居易の「白氏文集」の中の紫陽花を勘違いしてアジサイにあてたのが始まりと言われています。
夕方、紫陽花を見に出掛ける際には、蚊にさされないよう注意して下さい。
(2010/06/22)

○「夏至
今日は夏至です。昼が最も長く、夜が最も短い日ですが、夏至は田植えの時季であることから、タコの八本の足のように稲が八方に深く根を張ることを祈って、関西地方ではタコを食べるとされます。大阪近郊では夏至から半夏(ハンゲ、夏至から11日目)までにタコを食す習慣があるようです。愛知県では、無花果(イチジク)の田楽を食べるようです。また、関東地方では、新小麦で焼き餅を作って神に供える風習があります。最近気になる活動として、夏至の夜にロウソクを灯す、「100万人のキャンドルナイト」というイベントがあります。2003年6月22日(夏至)に始まった環境に対する取り組みのひとつで、文化人類学者であり、環境活動家の辻真一さんの呼びかけに賛同した多くの人々によって勧められ、年を重ねるごとに日本全国に広く大きく成長してきています。夏至の6月21日の夜20:00〜22:00の2時間、電気を消し、キャンドルの明かりだけで過ごします。誰でも参加でき、家族で環境を考える契機になるでしょう。

(20100621)

○「父の日
「父の日」は、「父に感謝をささげる日」。6月の第3日曜日で、今年は6月20日。この「父の日」は、1909年に、アメリカ・ワシントン州のJ.B.ドット夫人が、彼女を男手1つで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月6月に「父親の日礼拝」をしてもらったことがきっかけと言われています。当時すでに「母の日」が始まっていたため、彼女は「父の日」もあるべきだと考え、「母の日同様に父に感謝する日を」と牧師協会へ嘆願して始まりました。ドット夫人が幼い頃に、アメリカでは南北戦争が勃発し、父、スマートが召集されてから、ドット夫人を含む子供6人は母親が育てることになるが、母親は過労が元でスマートの復員後まもなく亡くなりました。以来男手1つで育てられたが、スマートも子供達が皆成人した後、亡くなってしまいます。やがて、1916年アメリカ合衆国第28代大統領ウッドロー・ウィスソンの時に「父の日」が認知されるようになり、1972年(昭和47年)、アメリカでは国民の祝日に制定されました。母の日の花はカーネーションですが、父の日の花はバラ。これは、ドット夫人が、父の墓に白いバラの花をささげたことが由来です。

(20100620)

○「水無月(みなづき)
6月のことを「水無月(みなづき)」と称します。6月は梅雨に入り雨の多い月です。「水無月」は、「水の無い月」と書きますが、水が無いわけでなく、水無月の「無」は、神無月の「な」と同じく「の」にあたる連体助詞「な」で、「水の月」という意味です。陰暦6月は田に多く水を引く月なので、「多くの水を必要とする月」の意から「水無月」と言われるようになったようです。旧暦の6月は梅雨が明けた時期(7月)になるため、新暦に当てはめて水無月を「梅雨も終わって水も涸れつきる月」「水の無い月」と解釈するのは間違いのようです。
同様に、神無月の語源は、「神を祭る月」であることから、「神の月」とする説が有力とされ、神無月の「無」は、「水無月」と同じく、「の」を意味する格助詞「な」です。中世の俗説には、10月に全国の神々が出雲大社に集まり、諸国に神がいなくなることから「神無月」になったとする説があり、出雲国(島根県)では、反対に「神有月・神在月(かみありづき)」と呼ばれます。
また、6月には他に名称が沢山あります。「建末月:けんびげつ」「水月:すいげつ」「未月:びげつ」「旦月:たんげつ」「季月:きげつ」「伏月:ふくげつ」「遯月:とんげつ」「焦月:しょうげつ」「涼暮月:すずくれづき」「松風月:まつかぜづき」「風待月:かぜまちづき」「鳴雷月:らいめいづき」「弥涼暮月:いすずくれづき」など・・・

(20100614)

○「総持寺参拝
6月20日(日)に、全超寺檀信徒研修会を開催します。
研修先は、横浜市鶴見「大本山総持寺」です。
総持寺は、福井県の永平寺と並び曹洞宗の両大本山ですが、来年は、総持寺が横浜に移転して100年を迎えます。總持寺(そうじじ)は、かつて、石川県輪島市門前町にありましたが、明治31年(1898年)4月13日の大火で開山廟所である伝燈院経蔵といくつかの小施設を除いた全山を焼失しました。明治38年(1905年)再建されたものの、これを機により大本山に相応しい場所への移転を求める声が高まり、明治44年(1911年)11月、横浜し鶴見への移転遷祖の儀式が行われて、以降能登の総持寺は「総持寺祖院」と呼ばれるようになったのです。
山号は諸岳山。元は諸岳寺(もろおかじ)と呼ばれた行基創建と伝えられる密教系寺院でいたが、元亨元年(1321年)に当時の住持である定賢が霊夢を見て越中国永光寺にいた瑩山紹瑾に寺を譲り、瑩山紹瑾はこれを禅林として改め、総持寺と命名して開山となりました。翌年、瑩山紹瑾は後醍醐天皇よりの勅問10問に答えた褒賞として、同寺に「日本曹洞賜紫出世之道場」の寺額が授けられます。
正中元年(1324年)、瑩山紹瑾は「諸岳山十条之亀鏡」を定めて寺制を整えた。その後、寺を継承した峨山韶磧によって整備され、五哲と呼ばれた門人によって5ヶ所の子院が設けられた。曹洞宗の多くの寺院が同寺の系統をひき、本山の地位や諸権利を巡って越前国永平寺と論争を行うこともあったものの、「能登国の大本山」すなわち能山として親しまれました。詳しくは大本山総持寺www.sojiji.jpを参照下さい。

(20100611)

○「茅の輪
「茅の輪」とは、チガヤを束ねてつくった大きな輪で、6月30日の晦日(みそか)、「夏越(なごし)の祓い」の日にこの輪をくぐって健康長寿を祈ります。「茅の輪」をくぐると災難・災厄を避けることができ、健康で幸せが訪れるといわれています。
茅の輪の材料のチガヤは最近少なくなりましたが、寺の近くの箒川沿いにはチガヤが豊かに茂っています。これを刈取り直径3メートルの大きな茅の輪を作ります。茅の輪くぐりには作法があって、
1)正面からくぐり、
2)右側に回ってもう一度正面からくぐり、
3)最後に左側に回ってもう一度くぐり、
3度くぐって効果があるとされます。どなたでも「茅の輪くぐり」を行えます。
どうぞ6月30日の夏越に「茅の輪」をくぐり、家内安全、身体健全、無病息災を祈りましょう。
期日平成22年6月30日(水)午後6時より
場所全超寺境内(大田原市上石上7)
参加費は無料です。

(20100607)

○「早苗
松尾芭蕉の俳句に「手ばなせば夕風やどる早苗かな」という句があります。昔は田植えはすべて手作業でした。最近は手植えする様子はあまり見かけませんが、近所の田んぼで手植えしている姿を見ました。「手を離れて水田に植え付けられた苗が、夕暮れ時の風に吹かれて静かに揺れている」。早苗(さなえ)とは、「苗代から田へ移し植えるころの、稲の若い苗。田植え用の稲の苗」、「わさなえ」のことですが、若くまだナヨナヨしい青い早苗が、夕暮の風に吹かれ揺れている様子は、のんびりとして心癒される風景です。夕方、子どもとのんびりと田んぼのあぜ道を散歩してみるのもいいものでしょう。安らぎます。
20100518

○「タイ暴動
タイでは、今年3月中旬から親タクシン派UDD(反独裁民主同盟)による「現国会の解散」を求めるデモが始まり、現在もバンコク市内中心部のビジネス街を占拠して抗議行動が続いています。これに対してアピシット政権は、妥協案としてUDD側に提起した11月14日の総選挙実施を柱とするロードマップが期限内に充分受け入れられなかったことから、UDDに「テロリスト」が紛れ込んでいるということを理由に、5月13日から治安部隊による武力行使をはじめ、デモの強制排除を続けています。
しかし、それが原因でデモ隊が一部暴徒化し、5月17日現在で37人の死者、250人以上の負傷者が出ています。それまでの被害者を合わせると、死者は邦人記者の村本博之さんを含めて65人を超え、負傷者は外国人を含めて1000人以上に及ぶ大惨事となっています。
ご承知の通り、タイでは4万人を超える邦人が滞在し、数千の企業やNGOも活動しています。また、年間100万人を超える旅行者が現地を訪れ、日本とタイとは深い友好関係にあります。
私たちは、現在バンコクで起こっている状況を深く憂慮し、今回タイ政府が取っている武力によるUDDデモの強制排除に強く反対します。タイ政府による武力行使が開始されて以降、UDDによる抗議行動はそれまで以上に先鋭化し、バンコク市内をはじめ東北・北部の県外各地で広がりつつあることから、武力による鎮圧は、むしろ事態をさらに悪化させ、被害が益々拡大することが予測されます。
これ以上の混乱を避け、一人の犠牲者もださないために、タイ政府が、武力によるデモの強制排除を即時停止し、人権に配慮して再度UDDとの和平交渉を試みることを強く求めます。また、UDD側も抗戦を即時停止し、再度タイ政府側との対話を試み、平和的手段で政府との交渉を再開することを希求します。私たちは、タイが、こうした状態から一刻も早く抜け出すことを願います。(SVA)
20100517 SVA=社団法人シャンティ国際ボランティア会

○「霞草(かすみそう)
昨年、幼稚園の花壇に花組さん(年少児)が種を蒔いた「かすみ草」が咲きました。
「かすみ草」は、ナデシコ科の観賞用植物で、園芸品種が多く、白・紅などの小花の咲くさまが霞がかかったように見える為、「霞草」と呼ばれています。
欧米では「ベイビー・ブレス」と呼ばれています。直訳すると「赤ちゃんの息」という意味ですが、小さくて愛らしい姿は、まさにその名の通り赤ちゃんを感じさせて、とても愛らしい花です。ちなみに、花言葉も「無邪気、無意識」だそうです。

20100516

○「ケーナ
5月9日(日)に、大田原市仏教会主催の「花まつりコンサート」が開催され、南米アンデスの楽器「ケーナ」の調べを味わいました。昨年、初めて生のケーナの演奏を聴いて、是非ケーナの演奏会を行いたいと願い、会の皆さんに相談して、そのご理解とご協力を頂き今回のコンサートに至りました。ケーナの調べは、癒しの音楽と言われ、その乾いていて澄んだ音色には、心が洗われる思いがします。演奏下さったRENさんの技術によるところが大きいのでしょうが、ケーナ独特の澄んだ音色に心いやされた人も多かったと思います。
20100510

○「BirdWeek(バードウィーク)
初夏となり、鳥たちの活動も盛んになりました。今日から一週間は、「愛鳥週間」(野生鳥類の保護を国民全体に訴えるために設けられた運動期間5月10日〜5月16日)です。幸いにもこの辺りには、まだまだ豊かな自然があり、たくさんの野鳥がいて、多種多様な野鳥を観察することが出来ます。カルガモが親子で散歩していたり、ウズラが走り、キジが鳴いたり、身近に野鳥に触れ親しむことは、自然と共に生きていくことを実感し、他への慈しみや思いやりの心が育つ基となるのでしょう。
鳥が飛ぶ景色を人は空という

20100508

○「菖蒲湯(しょうぶゆ)
5月5日の子どもの日を「端午の節句」といいますが、「菖蒲(しょうぶ)の節句」とも呼ばれるのをご存じですか?
この時期に花を咲かせる菖蒲の長い葉は、強い香気があるので、この香りの強さが不浄を払い、邪気を遠ざけてくれるといわれています。また「菖蒲(ショウブ)」は、「勝負」や「尚武」に通じることから、江戸時代から男の子の出生を祝って、端午の節句に菖蒲湯に入ることが習慣になったといわれています。「子どもの日」には親子で菖蒲湯の風呂を楽しむのもいいかもしれませんね。

20100503

○「端午(たんご)
もうじき5月。そして5月5日は『端午の節句』「子どもの日」ですが、旧暦では五月は「午の月」にあたります。「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、元々「端午」は5月の始めの牛の日のことでした。「端午」は、この午の月(5月)の最初の午の日を節句として祝っていたものが、のちに5が重なるこの月の5日が端午の節句の日になったといわれます。やがて、「午」は「五」に通じることから毎月5日となり、その中でも数字が重なる5月5日を「端午の節句」と呼ぶようになったともいわれます。同様に、奇数の月番号と日番号が重なる3月3日、7月7日、9月9日も節句になっています。
20100502

○「馬の糞(ふん)
むかしむかし、吉四六さんと言う、とてもゆかいな人がいました。この頃吉四六さんは、妙な事を始めました。
毎朝、ざるにウマのふんを入れて、川にさらして洗っているのです。そして洗い流すと、ざるの中にいくらかのお金が入っているのです。
「今朝も、もうかったわい」
吉四六さんは、ざるにお金を入れたまま、見せびらかす様に帰って行きました。
それを見ていた近所の人が、吉四六さんに尋ねました。
「吉四六さん。そのお金、まさかウマのふんから出たのではないだろうな」
「はい、確かにふんから出た物じゃ」
「するとお前さんのウマは、お金のふんをするのかね?」
「そうだが、それが何か?」

さあ、それを聞いた村の人たちは、みんな吉四六さんのウマが欲しくなりました。
「吉四六さん。そのウマを売ってはくれんか?」
「いや、売らんぞ。このまま持っていれば、金持ちになれるもんな」
売らないと言えば、よけいに欲しくなるものです。
「五十両出すから、売ってくれ」
「いや、おれは七十両だ」
「わしなら、百両出すぞ」
でも、吉四六さんは、「そんな金、毎日ふんを洗っておれば、すぐに貯まるわい」
と、ウマを売ろうとはしないのです。
そしてとうとう、噂を聞いた町一番のウマ買いがやって来ました。
すると吉四六さんは、「仕方ねえな。村の人ならともかく、わざわざ町から来たんじゃ断れねえ。ただし、毎日上等なえさをやってくれよ」
と、とうとうウマを手放したのです。
ウマ買いは大金を置いて、喜んでウマを引いて行きました。
ところがウマ買いは毎日特別上等なえさをやって、大事大事にしているのですが、ウマはお金のふんを出さないのです。
最初の二、三日は、数枚のお金が出て来たのですが、それからはまるで出てきません。
「吉四六め!だましやがったな!」
怒ったウマ買いは村にやって来ると、
「やい、吉四六。あのウマは金を出さんぞ!」と、怒鳴り込みました。
すると吉四六さんは、
「はて?そんなはずは。・・・えさが悪いんじゃないのか?」
「何を言うか。ムギやらニンジンやら、毎日上等なえさをやって、大事にしているんだ!」
「ムギやニンジンねえ。まあ、確かにそれも上等なえさだが。・・・で、そのえさには、お金は入っているかい?」
「金?」
「そうさ、どんなにいいえさでも、お金入りのえさほど上等じゃねえ。この世で一番上等なえさは、お金入りのえさだ。それさえやれば、ウマはお金の入ったふんをするよ」

おしまい

20100501

○「大仏さま
 752(天平勝宝4)年の4月9日、奈良・東大寺の大仏開眼供養が行われました。743(天平15)年に聖武天皇の詔により造営開始、約10年の歳月を要して完成しました。

  「大仏の目玉
 「あれ?どこだ?どこにいったんだ?」
ここは、むかしむかしの、奈良の大仏がある東大寺です。
ある日、大仏さまの目玉がぬけおちて、どこヘいったかわかりません。さっそく、京都や大阪から、大仏づくりの親方たちをよんできて、「大仏さまの目玉を入れかえるには、どれほどのお金がかかる?」と、値を見つもらせました。
 すると、親方たちは、「千五百両(1億円ほど)はかかる」と、いうのです。
親方たちの考えでは、まず下で、大きな目玉をこしらえ、目玉ができたら、足場をくんで、大仏さまの目にはめようというものです。
寺の人たちは、「高すぎる、千両にまけろ」と、いいますが、親方たちは、「それでは赤字です。こちらも商売ですから」と、いいます。
「まけろ」「まけられぬ」「まけろ」「まけられぬ」
 そこへ、江戸からきた見物のひとりが顔を出しました。「わしなら、二百両(千四百万円ほど)で、直しましょう」それをきいた親方たちは、「ばかにもほどがある。なんでこれが、二百両で直せるものか」と、笑いました。
ところが、江戸の男はこう考えたのです。(目玉がぬけおちて、見つからんとすりゃあ、大仏さまのからだの中ヘおちたにちがいない。それをはめ直せばいいだけだ)
寺の人たちはお金がないので、江戸の男にたのむことにしました。男が目玉の穴から中に入ってさがすと、やっぱり目玉がありました。さっそく、かついで上にあげ、大仏さまの目に、ピタッとはめました。
坊さんや親方たちは、それを見ていましたが、「あいつ、目玉をはめたはいいが、じぶんはどこから出てくるつもりだ。出口はないはずだが」と、なおも見ていると、あれ、あれ、あれっ。
なんと、大仏さまの鼻の穴から出てきたのです。みんなは感心して、「ほほう、目から鼻へぬけおったわい」
それからです。かしこい人のことを「目から鼻へぬける」と、言うようになったのは。
20100420

○「花まつり
 4月8日は、お釈迦様の誕生をお祝いする「花まつり」の日です。
 お釈迦様は、今からおよそ2500年前、現在のインド国境に近いネパールの地、ルンビニ園で、シャカ族の王子としてお生まれになりました。幼名は「ゴータマ・シッダールタ」と名付けられました。一般的に「お釈迦様」や「釈尊」と呼ばれますが、これは「シャカ族の尊い方」という意味を表す尊称です。
 伝説では、お生まれになってすぐに七歩進み、右手で天を、左手で地を指差し「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と宣言されたといわれています。この言葉は「人は誰もが、かけがえのない命を生きている」という、仏教のもつ人間尊重の精神を端的にあらわしています。またこの時に、お釈迦様の誕生を祝った竜王が甘露の雨を降らせたとも伝えられています。
 「花まつり」は、曹洞宗寺院だけでなく、多くの仏教寺院や仏教系の幼稚園、学校などで、広く行われています。
 ルンビニ園の誕生の様子を表した「花御堂(はなみどう)」を飾り、その中央には天地を指差した誕生のお姿をした仏像を安置し、甘露の雨を摸した甘茶をかけ、華やかにお祝いされます。
 私達は皆、お釈迦様と同じように、誰にもかわることの出来ない、かけがえのない命を生きています。4月8日は、お釈迦様の誕生をお祝いすると同時に、それぞれの「かけがえのない命の尊さ」に眼を向け、正しく生きることをお誓いする日にしたいものです。
20100408

○「初桜
初桜折しも今日はよき日なり」(松尾芭蕉)
夕桜家ある人はとくかえる」(小林一茶)
桜は身近であり、個人の心情や環境に寄り添った存在でもあります。桜を歌った俳句は多く、この時期自分の心持ちにシックリくる俳句があることでしょう。
高砂の尾上の桜さきにけり外山の霞立たずもあらなむ」(前中納言許[・小倉百人一首73番)
《現代語訳》遠くの山の峰の桜が咲いたよ。人里近い山の霞よ、どうか立たないでおくれよ。(桜が見えなくなってしまうから)
もろともにあはれと思へ山桜花よりほかに知る人もなし」(前大僧正行尊・小倉百人一首66番)
《現代語訳》わたしがあなたをしみじみいとおしいと思うように、あなたもわたしを、しみじみいとおしいと思っておくれ、山桜よ。花より他にわたしの心を知る人もいないのだから・・・・。

以下に「桜」関連の歌を示します。
古今和歌集・「桜」関連の歌………ミロール倶楽部古今和歌集⇒
山家集・西行による「桜」関連の和歌……山歌集の研究⇒ヤフー書籍案内⇒
万葉集:桜を詠んだ歌……

○「春分
3月21日は、「春分の日」で、「自然を称え、将来のために努力する日」と法律で定められた祝日です。陽気も暖かくなり、桜の木々も蕾を膨らませ、今にも咲きだしそうです。さて、「春分」は昼と夜が同じ長さになる日ですが、昔の人は、自然に感謝し春を祝福する日だと感じていたようです。それは、長い間冬眠をしていた動物たちが動き始め、人々もやる気に満ち溢れている時期です。また、この日の前後にご先祖様への感謝の気持ちを伝えるためにお墓参りに行く習慣(彼岸)もあります。古来、人々はこの日を春の訪れを祝う日とし、同時に祖先に感謝をするお祭りを行い、この風習は農村部で長く続いてきました。明治時代、春分の中日を「春季皇霊祭」と定め、宮中において祖先を祭る日となったのをきっかけとして、一般市民の間でも「祭日」とされました。その後1948年に、古来から伝わる自然に感謝する日「自然を称え将来のために努力する日」と法律で定められましたが、現在でも、「春分の日」というとやはり「お彼岸」のイメージが強いでしょう。

○「春分の日
「春分の日」は、昼夜の長さがほぼ等しい日です。この日から一番長い夏至に向けて、毎日1分5秒づつ日が長くなり、そしてまた毎日1分5秒ずつ日が短くなって、昼夜の長さがほぼ等しい「秋分」になります。一年間は、正確には「365.2421904日」であるために、「春分の日」はその年によって変化します。今後の春分の日の予定は、2011年3/21(月)2012年3/20(火)2013年3/20(水)2014年3/21(金)2015年3/21(土)2016年3/20(日)2017年3/20(月)となります。

○「菜の花や
桜の開花が北上していますが、菜の花も北上し、この辺でも黄色く咲いた菜の花が見られるようになりました。与謝蕪村の俳句に「菜の花や月は東に日は西に」という句があります。安永5年(1776)に発行された「続明烏」に載っていて、安永3年の作とされます。俳句の意味は、「春の夕暮れ時、菜の花が盛りに咲いて、ふと目を上げると、出たばかりの月が東の空に、西にはまだ沈まない太陽がある」ということでしょう、春の静かな夕暮れに、見渡す限りに広がる黄金色の菜の花畑を挟み、月と太陽が相対する中い立つ自分をイメージすると、なんともほのぼのとなります。年度末、あわただしい日々の中で、のんびりのどかにそんな時間と空間を味わいたいものです。

○「ミツバチの日
3月8日は、想像通り「ミツ(3)バチ(8)」の語呂合わせから「ミツバチの日」でした。
ハチミツには、ビタミンB1、B2、葉酸などのビタミン類、カルシウム、鉄をはじめ、27種類のミネラル、22種類のアミノ酸、80種類の酵素、ポリフェノールや若返り効果があるといわれているパロチンなど、150を超える成分が含まれているそうです。
またビタミンには「活性型」と「不活性型」があり、活性型は少量で効くけれども、不活性型は大量に用いなければ効かないそうです。人工的に作ったビタミン剤は、大量に用いても天然のビタミンよりも効き目がないこと判明しました。ハチミツに含まれるビタミンは非常に良質なもので92%が活性型で、毎朝の食卓をはじめ、運動後や疲れた時、お子様や妊娠時・授乳時の栄養補給にもオススメです。

(20100308)

○「啓蟄(けいちつ)
3月6日は、「雨水」後15日目で、暦の二十四節気のひとつ「啓蟄(けいちつ)」です。“啓”は『ひらく』、“蟄”は『土中で冬ごもりしている虫』の意で、暦便覧には「陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出ればなり」と記されています。文字通り地中で冬ごもりしていた虫が春の到来を感じ、草木が芽吹くと同時に地上へ這い出してくるという意味です。この時期、北国でも福寿草が咲き、東京では紋白蝶が見られ、春の訪れを実感できます。『啓蟄や蚯蚓の紅の透きとほる』(山口青邨)

○「菱餅(ひしもち)
ひな祭りに「菱餅(ひしもち)」を飾りますが、この白・緑・紅の三色には、「雪が溶け、草が芽生え、花が咲く」春の訪れの意味が託されているとか。また、他の説では、白は「清浄」、緑は「邪気をはらう薬草の色」、紅は「魔除け」の意味があるそうです。祭礼行事の中に、幸せや平和を願う思いがたくさん託されているようです。そんな願いを学びながら、これからも平和に安定した中で健やかに生活出来ることを願います。

○「ひな祭り
3月3日は、「ひな祭り」です。ひな祭りには、「桃の花」を飾りますが、中国では桃は悪魔をはらう木で、3月3日に摘んだ桃の花びらを酒に漬けた「桃花酒」を飲むと、若さと健康を保てるという言い伝えがあります。そして桃は「平和の象徴」ともされていました。また、日本ではよく「白酒(しろざけ)」を飲んでひな祭りのお祝いをしますが、日本では「桃花酒」があまり一般的ではなかったので、代わりに「白酒」が使われるようになったそうです。そして、桃の花を太陽に、白酒を月になぞらえ、「日と月をまつる」という意味もあるようです。ひな祭りは女の子だけのお祭りではなく、誰もが健康で若々しくありたいと願う行事です。子どもたちと一緒に、それぞれの健康を祈りましょう。

○「きさらぎ
2月も半ばとなりました。さて、「如月(きさらぎ)」は陰暦2月の異称ですが、「きさらぎ」とは、「着るさらに着る」ので、「着さら着」が語源と聞いたことがあります。
少し気になって調べてみました。すると、「如月」は「きさらぎ」と打って変換できますが、「じょげつ」が正しい読み方であることを知りました。
「如月(じょげつ)」は中国暦での2月の古い異称だそうで、それが昔、中国から伝来してきて、「この『じょげつ』と読む漢字が、日本(「倭の国」)で『きららぎ』と読んでいる2月のことで、以来『如月』と書いて『きさらぎ』と読んだ方が分かり易い」とのことで、「如月(きさらぎ)」という結びつきができたようです。
@「如月」という漢字は、中国最古の辞書『爾雅(じが)』の「二月を如となす」という記述に由来しますが、中国では「きさらぎ」とは読みません。⇒(暮らしの歳時記)
A二月を如月というのも中国名で『爾雅』釈典に「二月を如となす」とあります。如は序で次第や過程で万物相隨って現出することです。⇒(日蓮宗新聞)
春には「啓蟄(けいちつ)」といって、日本式の言葉でいうと「虫、穴を出」という日があり、春の始まり「立春」も2月なので、「序」の漢字は合います。
2月の表記は「如月」ではなく、『序月』でも意味合いからはシックリします。

○「如月の望月
西行法師の読んだ句「願わくば花の下にて春死なんその如月の望月のころ」の「如月の望月のころ」というと、旧暦の2月の満月で、これは2月15日頃、釈迦の亡くなった日(涅槃の日)といわれています。
太陽暦の2月15日は、震えるような寒さの中ですが、今年の旧暦2月15日は3月30日です。
旧暦の2月15日の頃は、桜の咲く春の陽光の中でしょう。

○「涅槃会
2月15日は、お釈迦さまが亡くなられた「涅槃会」です。
全超寺では、梅花講の皆さんと、お釈迦様に敬意と感謝のお勤めをしたいと思います。
さて、お釈迦さまは、今からおよそ2500年前に、インドのクシナガラで80歳の生涯を閉じられました。「亡くなられた」といわないで、「滅度(めつど)された」(入滅度)、「涅槃に入られた」(入涅槃)といいますが、これは「煩悩の火がすべて消された世界」を示します。お釈迦さまは涅槃に入られる前、弟子の阿難(アナン)にこう言います。
「阿難よ。向こうの林の片隅にサーラの樹が立っているのを見るであろう。そこへ行って、私のために床をつくり、枕を北に向けて休ませてもらいたい。私はひどく疲れた。今夜半、私はそこで滅度に入るであろう」
阿難は涙を流しながら、サーラの樹の下に行き、清らかに地を掃いて床をこしらえ、その上にお釈迦さまを休ませてあげます。ここに到着される前、お釈迦さまはパーバというところで説法されていました。パーバとクシナガラの間は、わずかの距離でしたが、移動の間25回も休まれたといいいます。どれほど疲れていたのでしょう。頭を北に、面を西に向かい、右脇を床につけて、足を重ねられます。すると、不思議なことが起こるのです。美しい楽の音がながれ、歌声が聞こえ、天の神々が近づいてきます。サーラの樹は突如、白い鶴にも似た花が咲き、花びらが雨のようにお釈迦さまの上に降りそそぎます。
その時、お釈迦さまは阿難に言われます。
「阿難よ。天の神々が私を供養しに来たのが見えただろうか」
「はい、世尊。はっきり見えます」
「このようにするのは、心から私を敬い、私に報いる道ではない」
「では世尊。真に仏を敬い、仏に報いる道はいかなるものでありましょうか」
「阿難よ。そして、愛する弟子たちよ。私に報いたいと思うならば、老若男女を問わず、私の説いた教えを大切にし、教えを実践してほしい。ただひとすじに教えを守りぬく者こそ、私につかえ、私を敬うものである。香や、華や、伎楽をもってするのは本当の道ではない。ひたすらに法を守り、法に生き、法のために精進するがよい。これこそ、こよなき供養というものである。」
「法に生きる」ことこそ真の供養だととかれています。
「こよなき供養」「真の供養」とは、お香や華や伎楽をもってするのではなく、「教えを実践する」こと、ただそのことに尽きます。

○「立春
今日は、節分の翌日で、二十四節気の一つ「立春(りっしゅん)」です。「暦の上では、春がはじまる日」とされます。
さて、1年の始まりをどの時期に持ってくるかでスタートが変わります。暑いときがスタートの国も、寒いときがスタートの国もあり、それは各国々の慣習や歴史によるのかも知れません。日本には「元旦」の正月を1年の始まりとする考え方と、同時に「立春」を季節の1年の始まりとする考え方も存在します。
干支では、春の「節分(立春の前日)」までは前年生まれの干支としますし、俳句の季語なども、四季を立春からの季節感で分けたりします。暦月(月切り)では、春は正月(1月)・2月・3月で、節月(節切り)での春は、立春から立夏の前日。この場合の1月は立春〜啓蟄の前日となります。そして、月切りでは大晦日(12月31日)と元旦(1月1日)の境目が節目です。節切りでは立春(2月4日)を迎えた時間や日が1年のスタートとなります。
中国でも日本でも旧暦の日付は月切りによって書かれ、季節感を知るための節切りは日付では何日になるかというような形で補足されます。今日は「立春」で、節切りの新しいスタートです。それぞれが輝かしいスタートきれますように祈念いたします。

○「春遠からじ
「Ifwintercomes,canspringfarbehind」イギリスのロマン派の詩人シェリーの詩の一節です。英文学者であり、翻訳家・評論家としても活躍した上田敏(http://www.tabiken.com/history/doc/B/B293R100.HTM)が「冬来たりなば、春遠からじ」と翻訳しました。「冬が来たならば、春も遠くはない……つまり、つらい時期(冬)を耐え抜けば、幸せな時(春)がやがて来る」ということのたとえですが、漢文では、「冬来春不遠」です。中国ではこの前に秋をつけて「秋去冬来春不遠」(秋去り、冬来たりなば春遠からじ)という形で使われることが多いようです。厳しい寒さが続きますが、もうじき立春(2月4日)を迎えます。皆さま方にとって、輝かしい春が来ることを祈ります。

○「早春賦
2月4日は「立春」で暦の上では春になります。さて、「早春賦」という曲があります。「賦」は漢詩や歌のことで心に感じるままを歌ったものですから、「春になったことを喜ぶ歌」とでもいうのでしょうか。その「早春賦」(http://www.youtube.com/watch?v=T9JrmC8Tsy0)を久しぶりに聞いたら、「知床旅情」(http://www.youtube.com/watch?v=DRE6LD6v8zo)と出だし部分がそっくりに聞こえました。中盤から先は違いますが、よく似た曲に感じました。「早春賦」がいつ発表された曲かはわかりませんが、作詞をした吉丸一昌が亡くなったのが1916年ですから、1900年前後の曲でしょう。「知床旅情」は1962年に、先日亡くなった森繁久弥さんが作詞作曲して発表した曲です。何れの曲も素晴らしのですが、「早春賦」の歌詞で、特にこの最終の節は意味深いです。「春と聞かねば知らでありしを聞けば急かるる胸の思いをいかにせよとのこの頃かいかにせよとのこの頃か」と、「既に春が来ているということを聞かなかったら、気が付かなかったのに、もう春が来たのだということを聞いたら、後ろから追い立てられるような気持ちになってきました。私はこれからどうすればよいと言うのでしょうか。」感じいる言葉です。

○「節分
明日2月3日は「節分(せつぶん)」です。「節分」は、現在では「立春の前日(太陽暦の2月4日)」をさしますが、もとはそれぞれの季節がおわる日、つまり立春、立夏、立秋、立冬の前日をいいました。節分につきものの「鬼はらい(やらい)」の行事は、中国の「大儺(たいな)」が源流(げんりゅう)で、おそろしい形相(ぎょうそう)の面をつけた呪師が疫鬼をおいはらう行事です。日本では706年(慶雲3)に、たくさんの人民が疫病で死んだので、土の牛をつくって、はじめての鬼払い儀式が行われたことが、「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記されています。その儀式は「追儺(ついな)」といい、朝廷では鎌倉時代まで大晦日の夜に行ったそうです。また、節分といえば豆まきですが、節分に豆で邪鬼をはらう行事が初めて行われたのは、室町時代の京都で、「看聞(かんもん)日記」の1425年(応永32)の記録に記されています。定番のかけ声の「鬼は外、福は内」は、「臥雲日件録」1447年(文安4)に、立春前夜に家ごとに豆をまき、「鬼は外、福は内」ととなえたと記されています。やがて江戸時代になると、春をむかえる厄払いの行事として、諸国の神社や家庭にひろまり、体を豆でなでて厄をうつしたり、年齢の数だけ豆を食べたりするようになりました。また、ヒイラギの葉がとがっていることから、「鬼の目突き」とよばれ、その先にイワシの頭をさして戸口にかかげると、邪気の侵入をふせぐとされています。

○「恵方巻
最近では、「恵方巻(えほうまき)」といって、「節分」に食べる太巻きがブームになっています。節分の夜に、その年の恵方(えほう→歳徳神の住む方角で、その年に吉となる方角)に向かって、目を閉じて願い事を思い浮かべながら、無言で太巻きをまるかじりします。「恵方巻」の具材は何でも良いそうですが、七福神に因んで、かんぴょう、キュウリ、シイタケ、伊達巻、うなぎ、でんぶ、その等の七種類の具を入れるのが良いとされているようせす。さて、現在の恵方巻の起源は、豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が、節分の前日に巻きずしの様な物を食べて出陣し、戦いに大勝利を収めたという故事を元にしていると言われています。ちなみに恵方は、5年ごとに同じパターンをたどり、今年2010年(平成22年)西南西(西微南)で、2011年(平成23年)南南東(南微東)、2012年(平成24年)北北西(北微西)、2013年(平成25年)南南東(南微東)、2014年(平成26年)東北東(東微北)、2015年(平成27年)西南西(西微南)、2016年(平成28年)南南東(南微東)、2017年(平成29年)北北西(北微西)、2018年(平成30年)南南東(南微東)と繰り返されます。

○「大寒たまご
1月20日、「大寒の朝に卵を食べました」と報告され少し戸惑っています。
大寒の日に卵を食べるというよりは、大寒の日に産んだ卵を食べるということが大切です。大寒の朝、卵を食べてもその卵が大寒の日に産まれたかどうかが心配です。大寒に産まれた卵のことを「大寒たまご」と言い、大寒の卵は滋養に富んでいるからこれを食べると1年健康で暮らせる…という話です。
ニワトリは、この時期から卵を抱き始めるからその頃の卵は生気に満ち溢れているとされているからだそうです。また、風水によると、寒中に産まれた卵を食べると金運が上がると言われ、特に大寒の日のに鶏が産んだ卵を食べると、その1年間はお小遣いに困らないと言われる縁起物です。まだ間に合いますので、1月20日に産み落とされた卵を探して、健康に過ごせるようにいただきましょう。卵は、完全栄養食品ですから、身体に必要な栄養が詰まっていますが、それにご利益が加われば、「鬼に金棒」です・・・
ただ、通販サイトなど見ていると、既にこの風習を使って売り込みが始まっていて、商魂のたくましさを感じます。

○「大寒
1月20日は「大寒」、二十四節気の一つ。このころ、寒さが1年のうちで最も厳しいと言われますが、昔から「大寒の卵は滋養に富んでいるので、食べると健康に暮らせる」と言われています。「大寒」中には、「鶏始乳」という鳥が卵を抱き始める時候が有り、その頃の卵は「生気に満ち溢れている」と考えられ人気が有ります。最近人気の風水でも、「大寒の日の卵を食べると、金運が上昇する」と言われており、大寒生まれの卵は人気急上昇です。卵を食べて、健康で、運気も上がって、寒さの中でも元気に過ごしたいものです。

○「今年はミミズ年・・?
今年は「寅年」ですが、「寅」という漢字は「イン」とも読み、(虫偏に寅)?と書き、(いん:「動く」の意味)で、「春が来て草木が発生する状態」を表しているとか。また、「寅」は、勇猛果敢で頑固たる信念を持つと言う意味もあり、寅年は行動力が抜群で適応力に優れていとも言われていますが、元来、動物の「虎(タイガー)」とは全く関係のない言葉でした。
「寅」について、『史記』では次のように説明しています。「寅(いん)とは、萬物(ばんぶつ)始(はじ)めて生(しやう)じて?然(いんぜん)たるを言(い)ふなり。故(ゆゑ)に寅(いん)と曰(い)ふ。」(『史記』(律書))。つまり、「万物が始めて生じるときは、まず、形がミミズ(?)のようになる。そのように、物事が誕生することを、「?」の音を借りて、「寅(いん)」という。」と、言っています。後から、「寅」(いん)に、動物の「虎」が割り振られましたので、もとをただせば「ミミズ年」と言えるのかもしれませんね。

○「どんど焼き
あちらこちらで「どんど焼き」が行われています。門松などの正月飾りを持って出かけられた方も多いことでしょう。小正月(1月15日)には、火を焚くことも、広く行われていました。これは、宮中の儀式、左義長が民間にも広まったもので、「どんど焼き」、「さいと焼き」などとも呼ばれ、松の内が過ぎて、不要になった門松や注連飾りなどを、氏神の境内へ持っていき、焚き上げるのが一般的です。「どんど」は、火がどんどん燃える様を表したもの、あるいは、本来は「とんと」で、「尊と」なのだと言われています。また、「さいと」は、道祖神を祀ってある所を表す言葉で、この行事が道祖神信仰と結びついていた地域が多いことを物語っています。「どんど焼き」が終わると、正月が終わった気がします。

○「小正月
昨日、1月15日は、「小正月」でした。元日の「大正月」に対して言うもので、「女正月」、「十五日正月」などとも言います。「女正月」の呼称は、正月中、女性はなんだかんだと却って忙しく、ようやくほっと一息ついたり、年始回りを始めたりできるようになるのが、この頃だという事なのだそうです。古来民間では、この小正月が本来の年越しであったということで、郷土色豊かな行事や、しきたりが、一年の中でもっとも多い日になっています。餅花、繭玉といって、柳や水木の枝に餅を花のように付けたものを、米や繭の豊作を祈って座敷に飾ったり、また、削り花、削り掛けといって、竹柳の枝先をササラ状にして、稲の穂垂れの様子をかたどった物を、門前や家の中に吊るしたりしますが、最近はあまり見かけなくなりました。

○「上元
1月15日(陰暦正月15日の称)は三元の一つ、「上元」です。この日に小豆粥を食べるとその一年中の疫病が避けられると言われています。また、7月15日を中元、10月15日を下元といいます。上元(1/15)、中元(7/15)、下元(10/15)、この三つを合わせて三元と言い、中国伝来の暦法では年の折り目の日とされた日で、道教の祭日でした。これら季節の節目には贈り物をするという習慣がありましたが、現在ではお中元という夏の贈り物だけが残っています。もともとはお上元やお下元というのもあったそうです。
中国では1月15日(旧暦)の夜に、家々の門に燈籠を掲げる習慣があり、人々は連れだってそれを見物して歩く。これは三元下降の日といって一年に三度、天帝が天下って人間の善業悪業を記す日にあたります。正月15日は上元で、この夜を「元宵」または「元夕」と呼んています。日本の風習には道教にルーツのあるものが少なくありませんが、この三元(さんげん)のうち上元(じょうげん)は日本の小正月にあたります。

○「タロ、ジロの日
犬の登場する映画が沢山あります、昨年は「HACHI」を、その前には「マリと子犬の物語」を観ましたが、その昔「南極物語」という映画があって、映画館で涙したことを覚えています。動物ものの映画には、いつも泣かされます。さて、その「南極物語」の主人公(?!犬)ですが・・・1958(昭和33)年、南極観測の第2次越冬隊は厚い氷に行く手を阻まれ観測を断念します。1次越冬隊員は救助されたものの、15頭の樺太犬が南極に取り残されました。その一年後、再び南極に行くとの1959年1月14日、タロとジロ、2頭の生存が確認されました。自分の生まれる以前の話ですが、1月14日は「タロとジロの日」です。

○「鏡開き
1月11日は「鏡開き」の日です。お正月に年神様にそなえた鏡餅を、一家円満を願いながらお雑煮やお汁粉にして食べる日です。お供えしていた鏡餅を木槌で叩き割る「鏡開き」はもともと武士の風習でした。男性は具足(鎧や兜のこと)にお供えした「具足餅」を女性は鏡台に供えた「鏡餅」をそれぞれ雑煮にして食べたことがこの行事のはじまりです。しかし、武家社会では「切る」という言葉を嫌い(切腹を連想されるために敬遠され)このとき刃物は使いませんでした。それで、叩いて割るのですが、おめでたいときに「割る」というのも縁起が悪いため「運を開く」にかけて「鏡開き」と呼ぶようになりました。お正月の間供えられていた鏡餅は、かびが生えたりひびが入ったりして持て余しがちですが、それを有効に利用する合理的な行事が「鏡開き」です。割ったお餅はお汁粉や揚げ餅にして、皆で美味しく頂きましょう。

○「始業
1月8日、冬休みが明け、幼稚園の子供たちが登園してきます。長いようで短かった冬休み、子どもたちの元気な声が聞こえて嬉しく思います。さて、今日は「一(イチ)か八(バチ)か」を「1と8」にかけて、「勝負の記念日」とされています。「一」と「八」はそれぞれ「丁」と「半」の上部をとったもので、「丁か半か」と同じ意味です。(丁はサイコロの合わせ目が偶数、半は同じく奇数の場合に使われる言葉です)それぞれ新年にかける思いがあるでしょう、「一か八か」ではなく、しっかりと足元を見つめて、一日一日をしっかり堅実に歩んでいきたいものです。

○「七草がゆ
1月7日は一年の無病息災を願って春の七草を使って作る「七草がゆ」。お粥に春の七草を入れて、厄払いと健康を祈りつつ、今年も元気で過ごせますように食べます。ところで春の七草を全部思い出せますか?「セリ、ナズナ、ゴギョウ(母子草)、ハコベラ、仏ノ座(田平子)、スズナ(かぶ)、スズシロ(大根)」、と言われていますが、農家では白い米に「大根、人参、小松菜、ねぎ、ホーレン草、ミツバ、セリ」などを入れごった煮にして食べたりもします。セリは六日に水が湧く掘や田んぼに摘みに行きます。他は家で作った野菜を入れることもあります。「七草がゆ」は正月の餅腹を休ませるため、青い物を食べる日と言われますが、春の七草は越冬の強い植物だから冬枯れの季節に青い物を補食する意味もあるでしょう。また、七草の日は、「初めて爪を切る日」と言われ、セリなどを浸した水に指を入れてから爪を切れば、一年の間爪の病からのがれると言われています。「秋の七草」は、どれも見て楽しむ植物ですが、「春の七草」はすべてが食用とされているのは面白いですね。「七草の効能」「せり」(消化を助け黄疸をなくす)、「なずな」(視力、五臓に効果)、「ごきょう」(吐き気、痰、解熱に効果)、「はこべら」(歯ぐき、排尿に良い)、「ほとめのざ」(歯痛に効く)、「すずな」(消化促進、しもやけ、そばかす)。「すずしろ」(胃健、咳き止め、神経痛)

○「小寒
今日は、二十四節気の一つ「小寒(しょうかん)」です。この日から寒さが本格化すると言われていますので、風邪を引いたりしないように暖かくして過ごして欲しい思います。今日から仕事始めの会社も多い様です。正月休みも終わり、仕事モードに切り替え、健康に留意して元気に歩んでいきたいものです。「小寒やふるさとよりの餅一荷」(月草)

○「初夢
1月2日の夜から3日の朝にかけて見るのが「初夢」です。宝船や七福神を描いた紙を枕の下に入れると良いといわれています。良い夢とされている「一富士二鷹三なすび」は、徳川家康の故郷、駿河の3つの名物だという説があります。皆さんはどんな夢をみるのでしょか・・・

○「ネコがネズミをおいかけるわけ(十二支の話)
むかしむかし、人間も生まれていないおおむかしの、ある年の暮れのことです。神さまが動物たちに言いました。
「もうすぐ正月だ。元旦には、みんな私のところに来なさい。そして、先に来たものから12番目までを、その年の大将としよう」
ところが、うっかりもののネコは、集まる日を忘れたので、友だちのネズミに聞きました。
するとネズミは、「ああ、新年の二日だよ」と、わざとうそを教えました。
さて、元旦になりました。牛は足が遅いので、朝早くに家を出ました。
ちゃっかりもののネズミは、こっそり牛の背中に乗って、神さまの前に来ると、ピョンと飛び降りて、一番最初に神さまの前に行きました。
それでネズミが最初の年の大将になり、牛が二番目になりました。
その後、トラ・ウサギ・たつ・ヘビ・うま・ヒツジ・サル・ニワトリ・イヌ・イノシシの順になりました。
ところがネコは、ネズミに教えられたとおり、二日に神さまのところへ行きました。
すると神さまは、「おそかったね。ざんねんだけど、きのう決まったよ」と、言うではありませんか。くやしいのなんの。
「ネズミめ、よくもだましたな!」おこったネコは、それからずっと、ネズミを見ると追いかけるようにになりました。
おしまい


○「初春
「新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事(よごと)(大伴家持『万葉集』)
「新年の雪が降り積もる様に、いいこと(吉事)が重なりますように」。「いやしけ」は、「重なれ」の命令形です。佳い事がたくさん重なれと命令形で嘔いい、初春の今年に願う力強さを感じます。貴家各家に吉事の多からんことを祈念申し上げます。

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