第四 八つの詩句の章
【1,欲望】
766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、彼は実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。
767 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、彼は、矢に射られたかのように悩み苦しむ。
768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気を付けて諸々の欲望を回避する人は、この世で執著をのり超える。
769 ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親類、その他いろいろの欲望を貪り求めると、
770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)が彼にうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみが彼につき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように。
771 それ故に、人は常によく気を付けていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。
【2、洞窟についての八つの詩句】
772 窟(自体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄のうちに沈没している人、──このような人は、実に〔遠ざかり離れること〕(厭離)から遠く隔たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである
773 欲求に基づいて生存の快楽に囚われている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。彼等は未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。
774 彼等は欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、──「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。
775 だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、そのために不正を行なってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。
776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、私は見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。
777 (何ものかを)我が物であると執著して動揺している人々を見よ。(彼等のありさまは)ひからびた流れの水の少ない所にいる魚のようなものである。これを見て、「わかもの」という思いを離れて行うべきである。──諸々の生存に対して執著することなしに。
778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。
779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。
【3、悪意についての八つの詩句】
780 実に悪意をもって(他人を)誹る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹る言葉が起こっても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとにも心の荒むことがない。
781 欲にひかれて、好みに囚われている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。彼は、自ら完全であると思いなしている。彼は知るにまかせて語るであろう。
782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、彼は「下劣な人」である。と真理に達した人々は語る。
783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「私はこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、彼は〔高貴な人〕である、と真理に達した人々は語る。
784 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。
785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居のうちにあって、ものごとを斥け、またこれを執る。
786 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいても、さまざまな生存に対してあらかじめ抱いた偏見が存在しない。邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか?彼はもはやたより近づくものがないのである。
787 諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの議論(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執著に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろえか? 彼は執することもなく、捨てることもない。彼はこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。
【4、清浄についての八つの詩句】
788 「最上で無病の、清らかに人を私は見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧である。
789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、或いはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩に囚われている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。
790 (真の)バラモンは、(正しい道の)他には、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。彼は禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。
791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執著をのり超えることがない。彼等は、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。
792 自ら誓戒をたもつ人は、思いに耽って、種々多様なことをしようとする。しかし智慧豊かな人は、ヴェーダ(実践的認識)によって知り、真理を理解して、種々多様なことをしようとしない。
793 彼は一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。
794 彼は計らいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。
795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えていてる。彼が何ものかを知り或いは見ても、執著することがない。彼は欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。彼は(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。
【5、最上についての八つの詩句】
796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、それよりも他の見解は全て「つまらないものである」と説く。それ故に彼は諸々の論争を超えることがない。
797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものを全てつまらぬものであると見なす。
798 ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と〔真実に達した人々〕は語る。それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
800 彼は、既に得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、彼は実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。
801 彼はここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、彼には何も存在しない。
802 彼はこの世において、見たこと、学んだこと、或いは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
803 彼等は、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。彼等は、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。
【6、老 い】
804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳にたっせずせして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。
805 人々は「我が物である」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。
806 人が「これは我が物である」と考える物、──それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理を知って、わかものという観念に屈してはならない。
807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛したひとでも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることはできない。
808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。
809 我が物として執著したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(モノオシ)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(アンノン)をみたのである。
810 遠ざかり退いて行する修行者は、独り離れて座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、彼にふさわしいことであるといわれる。
811 聖者は何ものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(モノオシ)みもかれを汚すことがない。譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。
812 たとえば蓮の上の水滴、或いは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。
813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執著して考えることがない。彼は他のものによって清らかになろうとは望まない。彼は貪らず、また嫌うこともない。
【7、ティッサ・メッテイヤ】
814 ティッサ・メッテイヤさんがいった、──「君よ。婬欲の交わりに耽る者の破滅を説いて下さい。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」
815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。婬欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪まな行いをする。これは彼のうちにある卑しいことがらである。
816 かって独りで暮していたのに、のちに婬欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。
817 かって彼のもっていた名誉も名声も、全て失われる。このことわりを見たならば、婬欲の交わりを断つことを学べ。
818 彼は諸々の(欲の)想いに囚われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどく非難の声を聞いて恥いってしまう。
819 そうして他人に詰られたときには虚言に陥る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。これが彼の大きな難所である。
820 独りでいる修行をまもっていたときは一般に賢者と認められていた人でも、もしも婬欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。
821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅くまもれ。婬欲の交わりに耽ってはならない。
822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。──彼は安らぎに近づいているのだが。
823 聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛されている人々はかれを羨むのである。」──
【8、パスーラ】
824 彼等は「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えが清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみを善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。
825 彼等は論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を〔愚者である〕と烙印し、他人(師など)をかさに着て、論争を交わす。──自ら真理に達したものであると称しながら、自分が称賛されるようにと望んでいる。
826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。
827 諸々の審判者が彼の所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「彼は私を打ち負かした」といっい悲泣する。
828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。
829 或いはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、彼はそのために喜んで、心が高ぶる。
830 心の高ぶりというものは、彼の害われる場所である。しかるに彼は慢心・増上慢心の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。
831 たとえぱ王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声を挙げて進んでゆくようなものである。勇士よ。かの(汝にふさわしい、真理に達した人の)いる処に到れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。
832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真実である」と言う人々がいるならば、汝は彼に言え、──「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。
833 また彼等は対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、彼等に対して、あなたは何を得ようとするのか? パスーラよ。彼等の間で、「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。
834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いをめぐらし、心中に諸々の偏見を考えて、邪悪を掃い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。
【9、マーガンディヤ】
835 (師((ブッダ))は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、彼等と婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたみの(女が)そもそも何ものなのだろう。私はそれに足でさえも触れたくないのだ。」
836 (マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」
837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『私はこのことを説く』、ということが私にはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎを私は見た。」
838 マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〔内心の安らぎ〕ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」
839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになのことがではない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、と私は考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」
841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義に基づいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえも抱いていない。だから、あなたは(私の説を)『ばかばかしい』とみなすのです。
842 『等しい』とか『すぐれている』とか、或いは『劣っている』とか考える人、──彼等はその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、──彼には『等しい』とか、『すぐれている』とか、(或いは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。
843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。また彼等は『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。
844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしててはならない。
845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。
846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。彼等の本性はそのようなものではないからである。彼等は宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。
847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」
【10、死ぬよりも前に】
848 「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか? ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことを私に説いて下さい。」
849 師は答えた「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、彼は(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。
850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、言葉を慎しむ。
851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。
852 (貪欲などから)遠ざかり、偽ることなく、貪り求めることなく、慳みせず、傲慢にならず、嫌われず、両舌を事としない。
853 快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。
854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことなく、美味に耽溺することもない。
855 平静であって、常によく気を付けていて、世間において(他人を自分と)等しいとも思わない。また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。彼は煩悩の燃え盛ることがない。
856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。彼には、生存の断滅のための妄執も存在しない。
857 諸々の欲望を顧慮することのない人、──かれこそ〔平安なる者〕である、と私は説く。彼には締めの結び目は存在しない。彼は既に執著を渡り了えた。
858 彼には、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。既に得たものも、捨て去ったものも、彼のうちには認められない。
859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過)があるというであろうが、彼はその(非難)を特にきにかけることはない。それ故に、彼は論議されても、動揺することがない。
860 聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。彼は分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。
861 彼は世間において〔我が物〕という所有がない。また無所有を嘆くこともない。彼は[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。彼は実に〔平安なる者〕と呼ばれる。」
【11、争 闘】
862 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心と傲慢と悪口しは、どこから現われ出たのですか? これはどこから起ったのですか? どうか、それを教えて下さい。」
863 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(モノオシ)みと慢心し傲慢と悪口とは愛し好むものに基づいて起る。争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。」
864 「世間において、愛し好むものは何に基づいて起るのですか。また世間にははびこる貪りは何に基づいて起るのですか? また人が来世に関していだく希望とその成就とは、何に基づいて起るのですか?」
865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望に基づいて起る。また人が来世に関していだく希望と成就とは、それに基づいて起る。」
866 「さて世の中で欲望は何に基づいて起るのですか? また(形而上学的な)断定は何から起るのですか? 怒りと虚言と疑惑と及び〔道の人〕(沙門)の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」
867 「世の中で〔快〕〔不快〕と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には正起と消滅とのあることを見て、世の中には〔外的な事物にとらわれた〕断定を下す。
868 怒りと虚言と疑惑、──これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現れる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〔道の人〕は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」
869 「快と不快とは何に基づいて起るのですか? また何がないときにこれらのものが現れないのですか? また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語って下さい。」
870 「快と不快とは、感官による接触に基づいて起る。感官の接触が存在しないときには、これらのものも起こらない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」
871 「世の中で感覚による接触は何に基づいて起るのですか? また所有欲は何から起るのですか? 何ものが存在しないときに、〔我が物〕という我執が存在しないのですか?
872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、〔わかもの〕という我執も存在しない。形態が消滅したときには〔感官による接触〕ははたらかない。」
873 「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか? 楽と苦とはいかにして消滅するのですか? どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、私に説いて下さい。私はそれを知りたいものです。──私はこのように考えました。」
874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。──このように理解した者の形態は消滅する。
875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かして下さいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いて下さい。
──この世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(タマシイ)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしようか?」
876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらに彼等のうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうち(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。
877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
【12、並ぶ応答─小篇】
878 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見を抱いて争い、(自ら真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。──「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。
879 彼等はこのように異なった執見を抱いて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人でない」と言う。これらの人々は皆「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真理なのであろうか?
880 もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であって、智慧の劣った者であるならば、これらの人々は全て(各自の)偏見を固執しているのであるから、彼等は全て愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
881 またもし自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるのならば、彼等のうちには知性のない者は誰もいないことになる。彼等の見解は(その点で)等しく完全であるから。
882 諸々の愚者が相互に他人に対していう言葉を聞いて、私は「これは真実である」とは説かない。彼等は各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故に彼等は他人を「愚者」であると決めつけるのである。
883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。このように彼等は異なった執見を抱いて論争する。何故に諸々の〔道の人〕は同一の事をを語らないのであろうか?
884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。彼等はめいめい異なった真理を褒め称えあっている。それ故に諸々の〔道の人〕は同一の事を語らないのである。
885 自ら真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか? 彼は多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか? 或いはまた彼等は自分の思索に従っているのであろうか?
886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。彼等は、諸々の偏見に基づいて思索考研を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
888 反対者を(愚者)であると見なすとともに、自己を〔真理に達した人〕であるという。彼は自ら自分を〔真理に達した人〕であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
889 彼は過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、自らの心のうちでは自分を賢者だと自認している。彼のその見解は、(彼によれば)そのように完全なものだからである。
890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)共に愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称しているのであれば、諸々の、〔道の人〕のうちには愚者は一人も存在しないことになる。
891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、〔不完全な人〕である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。彼は自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。
892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。
893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、彼は自ら確執をもたらすであろう。
894 一方的に決定した立場に立って自ら考え量りつつ、さらに彼は世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。
【13、並ぶ応答─長篇】
895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、──彼等は全て他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。
896 (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、と私は説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。
897 全て凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。彼は、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。彼はそもそもどんなこだわりに赴くのであろうか?
898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、誓戒を受けている。「われわれはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〔真理に達した者〕と称する人々は、流転する迷いの生存に誘きこまれる。
899 もしも彼が戒律や誓戒を破ったならば、彼は(戒律や誓戒の)つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず)彼は「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商を求め)、家から旅立った(旅人が家を求める)ようなものである。
900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なき(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄であると」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。──安らぎを固執することもなく。
901 或いは、ぞっとする苦行にもとづき、或いは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。
902 ねがい求める者は欲念がある。また、計らいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──彼は何を怖れよう、何を欲しよう。
903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか? ──彼は全て自分らこそ真理に達した者である称しているのであるが。
904 彼等は自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。彼等はこのように互いに異った執見を抱いて論争し、めいめい自分の仮説を「真実である」と説く。
905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人は皆自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。
906 彼等は自分の道を称賛するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。彼等はそれぞれ清浄となれるからである。
907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。
908 「われは知る。われは見る。これはそのとうりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たとい彼が見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。彼等は、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。
909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認めるであろう。見たい人は、多かれ少かれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。
910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執著とて論ずる人は、自ら構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。
911 バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。彼は凡俗のたてる諸々の見解を知って、心にとどめない。──他の人々はそれに執著しているのだが。──
912 聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときにも、党派にくみすることがない。彼は不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。──他の人々はそれに執著しているのだが。──
913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執著して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく。自分を責めることもない。
914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。彼は負担をはなれて解放されている。彼は計らいをなすことなく、快楽に耽ることなく、求めることもない。
【14、迅 速】
915 [問うていわく──]「・・・・修行者はどのように観じて、世の中のものを執することなく、安らいに入るのですか?」
916 師(ブッダ)は答えた、「〔われは考えて、有る〕という〔迷わせる不当な思惟〕の根本を全て制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。
918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。
919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内面的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。
920 海洋の奥深い処では波が起こらないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上げてはならない。」
921[質問者はいわく]、「眼を開いた人は、自ら体験したことがら、危難の克服、を説いて下さいました。ねがわくは正しい道を説いて下さい。戒律規定や、精神安定の法をも説いて下さい。」
922 [師いわく]、「眼で見ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならない。世間における何ものをも、わかものであるとみなして固執してはならない。
923 苦痛を感じるときがあっても、修行者は決して悲嘆してはならない。生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、慄(フル)えてはならない。
924 食物や飲料や堅い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない。またそれらがえられないからとて心配してはならない。
925 こころを安定させよう。うろついてはならないるあとで後悔するようなことをやめよ。怠けてはならなぬ。そうして修行者は閑静な座所・臥所に住むべきである。
926 多く眠ってはならぬ。熱心に努め、目ざめているべきである。ものぐさと偽りと談笑と遊戯と婬欲の交わりと装飾とを捨てよ。
927 わが徒は、アタルヴァーダの呪法と夢占いと相の占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならない。
928 修行者は、非難されても、くよくよしてはならない。称讃されても、高ぶってはならない。貪欲と慳みと怒りと悪口を除き去れ。
929 修行者は、売買に従事してはならない。決して誹謗をしてはならない。また村の人々と親しく交わってはならない。利益を求めて人々に話しかけてはならない。
930 また修行者は高慢であってはならない。また(自分の利益を得るために)遠廻しに策した言葉を語ってはならない。傲慢であってはならない。不和をもたらす言葉を語ってはならない。
931 虚言をなすことなかれ、知りながら詐りをしないようにせよ。また生活に関しても、知識に関しても、戒律や道徳に関しても、自分が他人よりもすぐれていると思ってはならない。
932 諸々の出家修行者やいろいろ言い立てる世俗人に辱しめられ、その(不快な)言葉を多く聞いても、あらあらしい言葉を以て答えてはならない。立派な人々は敵対的な返答をしないからである。
し 933 修行者はこの道理を知って、よく弁えて、つねに気を付けて学べ。諸々の煩悩の消滅した状態が「安らぎ」であると知って、ゴータマ(ブッタ)の教えにおいて怠ってはならない。
934 彼は、自ら勝ち、他にうち勝たれることがない。他人から伝え聞いたのではなくて、自ら証する理法を見た。それ故に、かの師(ブッタ)の教えに従って、怠ることなく、つねに礼拝して、従い学べ。」
──このように師(ブッダ) はいわれた。
【15、武器を執ること】
935 殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。私がぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を宣べよう。
936 水の少ない処にいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、私に恐怖が起った。
937 世界はどこでも堅実ではない。どの方角でも全て動揺している。私は自分のよるべき住所を求めたのであるが、既に(死や苦しみなどに)取りつかれていない処を見つけなかった。
938 (生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て、私は不快になった。また私はその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。
939 この(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢を抜いたならば、(あちこちを)駆けめぐることもなく、沈むこともない。
940 そこで次に実践の仕方が順次に述べられる。──世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎを学べ。
941 聖者は誠実であれ。傲慢でなく、詐りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪まな貪りと慳みとを超えよ。
942 安らぎを心がける人は、眠りとものぐさとふさぎこむ心とにうち勝て。怠惰を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな。
943 虚言をつくように誘き込まれるな。美しいすがたに愛著を起すな。また慢心を知りつくしてなくすようにせよ。粗暴になることなく、ふるまえ。
944 古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引する者(妄執)に囚われてはならない。
945 私は、(牽引する者のことを)貪欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、計らい、捕捉と呼びね超えがたい欲望の汚泥であるともいう。
946 バラモンである聖者は、真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。彼は一切を捨て去って、「安らぎになった人」と呼ばれる。
947 彼は智者であり、ヴェーダの達人である。彼は理法を知りおわって、依りかかることがない。彼は世間において正しくふるまい、世の中で何びとをも羨むことがない。
948 世間における諸々の欲望を超え、また克服しがたい執著を超えた人は、流されず、束縛さけず、悲しむことなく、思いこがれることもない。
949 過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。
950 名称と形態について、〔我が物という思い〕の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、──彼は実に世の中にあっても老いることがない。
951 「これは我が物である」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、──彼は(このような)〔我が物という観念〕が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。
952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である。──動じない人について問う人があれば、その美点を私は説くであろう。
953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。彼はあくせくした営みから離れて、至る処に安穏を見る。
954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。彼は安らいに帰し、取ることもなく、捨てることもない。
──と師は説かれた。
【16、サーリプッタ】
955 サーリプッタさんが言った、──
「私は未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。──このように言葉美わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来りたもうたことを。
956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独りで(法)楽をうけられた。
957 こだわりなく、偽りなく、このような範たる人として来りたもうた師・目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに、これらの束縛ある多くの者どものために問おうとして、ここに参りました。
958 修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、
959 または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。──修行者は音のしない処に坐臥していても、それらを恐れて震えてはならないのだが。
960 未到の地に赴く人にとっては、この世にどれだけの危難があることだろう。──修行者は辺鄙な処に坐臥していても、それらの危難にうち克たなければならないのだが。
961 熱心につとめる修行者には、いかなる言葉を発すべきか? ここで彼のふるまう範囲はいかにあるべきか? 彼のまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?
962 心を安定させ気を落ち着けている賢者は、どのような学脩を身に受けて、自分の汚れを吹き去るのですか? ──譬えば鍛冶工が銀の垢を吹き去るように。」
963 師(ブッダ)は答えた、
「サーリプッタよ。世を厭い、人なき所に坐臥し、さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、私の知り究めた処によって、そなたに説き示そう。
964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻と蚊と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れることである。
965 異った他の教えを奉ずる輩を恐れてはならない。──たとい彼等が多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。──また善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。
966 病いにかかり、餓えに襲われても、また寒冷や酷暑をも耐え忍ぶべきである。かの〔家なま人〕は、たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をたもって、堅固に努力をなすべきである。
967 盗みを行なってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ。心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。
968 怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりと、うち克つべきである。
969 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。奥まった土地に伏す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。
970 すなわち『私は何を食べようか』『私はどこで食べようか』『(昨夜は)私は眠りづらかった』『今夜は私はどこで寝ようか』──家を捨て道を学ぶ人は、これら(四つの)憂いに導く思慮を抑制せよ。
971 適当な時に食物と衣服とを得て、ここで(少量に)満足するために、(衣食の)量を知れ。彼は衣食に関して恣ままならず、慎しんで村を歩み、罵られてもあらあらしい言葉を発してはならない。
972 眼を下に向けて、うろつき廻ることなく、瞑想に専念して、大いにめざめておれ。心を平静にして、精神の安定をたもち、思いわずらいと欲のねがいと悔恨とを断ち切れ。
973 他人から言葉で警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。共に修行する人々に対する荒んだ心を断て。善い言葉を発せよ。その時にふさわしくない言葉を発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。
974 またさらに、世間には五つの塵垢がある。よく気を付けて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触れられるものに対する貪欲を抑制せよ。
975 修行僧は、よく気を付けて、心もすっかり解脱して、これらのものに対する欲望を抑制せよ。彼は適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。」
──と師(ブッダ)はいわれた。
〔八つの詩句の章〕第四おわる
まとめの句
欲望と、洞窟と、悪意と清浄と、最上と、老いと、メッテイヤとバスーラと、マーガンディヤと、死ぬよりも前にと、争闘と、二つの〔並ぶ応答〕と、迅速と、武器を執ることと、サーリプッタの質問とで、十六になる。
これらの経は全て〔八つの詩句の章〕である。