utra01第一 蛇の章
【1、蛇】
1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
3 奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
4 激流が弱々しい葦のの橋を壊すように、すっかり驕慢を減し尽くした修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
5 無花果の樹の林の中に花を探し求めて得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なものを見いださない修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
6 内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
7 想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
8 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、全てこの妄想をのり越えた修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
9 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
10 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って貪りを離れた修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
11 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って愛欲を離れた修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
12 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って憎悪を離れた修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
13 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って迷妄を離れた修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
14 悪い習性がいささかも存することなく、悪の根を抜き取った修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
15 この世に還り来る縁となる〔煩悩から生ずるもの〕をいささかももたない修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
16 ひとを生存に縛りつける原因となる〔妄執から生ずるもの〕をいささかももたない修行者はこの世とかの世とを共に捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
17 五つの蓋いを捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とを共に捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
【2,ダニヤ】
18 牛飼いダニヤが言った、
「私はもう飯を炊き、乳を搾ってしまった。マヒー河の岸の畔に、私は(妻子と)共に住んでいます。わが小舎の屋根は葺かれ、火は点されている。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
19 師は答えた、
「私は怒ることなく、心の頑迷さを離れている。マヒー河の岸の畔に一夜の宿りをなす。わが小舎(すなわち自身)は暴かれ、(欲情の)火は消えた。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
20 牛飼いダニヤが言った、
「蚊も虻もいないし、牛どもは沼地に茂った草を食んで歩み、雨が降ってきても、彼等は堪え忍ぶであろう。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
21 師は答えた、
「わが筏は既に組まれて、よく作られていたが、激流を克服して、既に渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
22 牛飼いダニヤが言った、
「わが牧婦(=妻)は従順であり、貪ることがない。久しく共に住んできたが、わが意に適っている。かの女にいかなる悪のあるのをも聞いたことがない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
23 師は答えた、
「わが心は従順であり、解脱している。永いあいだ修養したので、よく整えられている。私にはいかなる悪も存在しない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
24 牛飼いダニヤが言った、
「私は自活し自ら養うものである。わが子らは皆共に住んで健やかである。彼等にいかなる悪のあるのをも聞いたことがない。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
25 師は答えた、
「私は何人の傭い人でもない。自ら得たものによって全世界を歩む。他人に傭われる必要はない。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
26 牛飼いダニヤが言った、
「未だ馴らされていない牛もいるし、乳を飲む仔牛もいる。孕んだ牝牛もいるし、交尾を欲する牝牛もいる。牝牛どもの主である牡牛もいる。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
27 師は答えた、
「未だ馴らされていない牛もいないし、乳を飲む仔牛もいない。孕んだ牝牛もいないし、交尾を欲する牝牛もいない。牝牛どもの主である牡牛もここにはいない。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
28 牛飼いダニヤが言った、
「牛を繋ぐ杭は、しっかり打ち込まれていて揺るがない。ムンジャ草でつくった新しい縄はよくなわれている。仔牛もこれを断つことができないであろう。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
29 師は答えた、
「牡牛のように結縛を断ち、臭い匂いのする蔓草を象のように踏みにじり、私はもはや母胎に入ることはないであろう。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」
30 忽ちに大雲が現われて、雨を降らし、低地と丘とをみたした。神が雨を降らすのを聞いて、ダニヤは次のことを語った。
31 「われらは尊き師にお目にかかりました、吾等の得た処は実に大きいのです。眼ある方よ。われらはあなたに帰依します。あなたはわれわれの師となって下さい。大いなる聖者よ。
32 妻も私も共に従順であります。幸せな人(ブッタ)のもとで清らかな修行を行いましょう。生死の彼岸に達して、苦しみを滅しましょう。」
33 悪魔パービマンが言った、
「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執著(しゅうじゃく)する元のものは喜びである。執著する元のない人は、実に喜ぶことがない。」
34 師は答えた、
子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著する元のもののない人は、憂うることがない。」
【3、犀(さい)の角】
35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
36 交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
38 子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。
39 林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲する処に赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
40 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
41 仲間の中におけば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。
42 四方のどこでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦痛に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
43 出家者でありながらなお不満の念を抱いている人々がいる。また家に住まう在家者でも同様である。だから他人の子女にかかわること少し、犀の角のようにただ独り歩め。
44 葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを捨て去って、在家の束縛を断ち切って、健き人はただ独り歩め。
45 もしも汝が、〔賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〕を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、彼と共に歩め。
46 しかしもし汝が、〔賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〕を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。
47 われわれは実に朋友を得る幸を讃め称える。自分より勝れ或いは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。
48 金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪を、一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
49 このように二人でいるならば、われに饒舌といさかいとが起るであろう。未来にこの恐れのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。
50 実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々の形で、心を攪乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
51 これは私にとって災害であり、腫物であり、禍であり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
52 寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、虻と蛇と、──これら全てのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。
53 肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。
54 集会を楽しむ人には、暫時の解脱に至るべきことわりもない。太陽の末裔〔ブッダ〕の言葉をこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。
55 相争う哲学的見解を越え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。
56 貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、(見せかけで)覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。
57 義ならざるものを見て邪曲に囚われている悪い朋友を避けよ。貪りに耽って怠っている人に、自ら親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。
58 学識豊かで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を去って、犀の角のようにただ独り歩め。
59 世の中の遊戯や娯楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。
60 妻子も、父母も、財産も穀物も、親類やその他あらゆる欲望までも、全て捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。
61 「これは執著である。ここは楽しみは少し、快い味わいも少くて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。
62 水の中の魚が網を破るように、また火が既に焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。
63 俯して視、とめどなくうつろうことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護り(慎しみ)、(煩悩の)流れ出ることなく、(煩悩の火に)焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。
64 葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、在家者の諸々のしるしを除き去って、出家して袈裟の衣をまとい、犀の角のようにただ独り歩め。
65 諸々の味を貪ることなく、えり好みすることなく、他人を養うことなく、戸ごとに食を乞い、家々に心をつなぐことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
66 こころの五つの覆いを断ち切って、全てに付随して起こる悪しき悩み(随煩悩)を除き去り、何者かにかたよることなく、愛念の過ちを断ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。
67 以前に経験した楽しみと苦しみを擲ち、また快さと憂いとを擲って、清らかな平静と安らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。
68 最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。
69 独座と禅定を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には患いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め。
70 妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。
71 音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。
72 歯牙強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。
73 慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間全てに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
74 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命の失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
75 今の人々は自分の利益のために、交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。
【4、田を耕すバーラドブァージャ】
私が聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はマガダ国の南山にある「一つの茅」というバラモン村におられた。その時田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、種子を捲く時に五百挺の鋤を牛に結びつけた。
その時師(ブッダ)は朝早く内衣を着け、鉢と上衣とをたずさえて、田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャが仕事をしている処へ赴かれた。ところでその時田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは食物を配給していた。
そこで師は食物を配給している処に近づいて、傍らに立たれた。田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、師が食を受けるために立っているのを見た。そこで師に告げて言った、
「道の人よ。私は耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え。」と
(師は答えた)、「バラモンよ。私もまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う」と。
(バラモンが言った)、「しかしわれらは、ゴータマさん(ブッダ)の軛も鋤も鋤先も突棒も牛も見ない。それなのにゴータマさんは『バラモンよ。私もまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う。』という」と。
そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは詩を以て師に呼びかけた。
76 「あなたは農夫であると自ら称しておられますが、われらはあなたが耕作するのを見たことがない。おたずねします。──あなたが耕作するということを、われわれが了解し得るように話して下さい。」
77 (師は答えた)「私にとっては、信仰が種である。苦行が雨である。知慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)きである。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることが鋤先と突棒とである。
78 身をつつしみ、言葉をつつしみ、食物を節して過食しない。私は真実をまもることを草刈りとしている。柔和が私にとって(牛の)軛を離すことである。
79 努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。
80 この耕作はこのようになされ、甘露の果実もたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」
その時田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、大きな青銅の鉢に乳粥を盛って、師(ブッダ)にささげた。──「ゴータマさまは乳粥をめしあがれ。あなたは耕作者です。ゴータマさまは甘露の果実をもたらす耕作をなさるのですかから。」
81 詩を唱えて[報酬として]得たものを、私は食うてはならない。バラモンよ、このことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわしではない。詩を唱えて得たものを、目ざめた人々(諸のブッダ)は斥ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが(目ざめた人々の)生活法なのである。
82 全き人である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪い行いを消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者のための(福)田であるからである。
「では、ゴータマ(ブッダ)さま、この乳粥を私は誰にあげましょうか?」
「バラモンよ。実に神々・悪魔・梵天とともなる世界において、神々・人間・道の人・バラモンを含む生きものの中で、全き人(如来)と彼の弟子とを除いては、この乳粥を食べてすっかり消化し得る人を見ない。だから、バラモンよ、その乳粥を青草の少い処に棄てよ、或いは生物のいない水の中に沈めよ。」
そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャはその乳粥を生物のいない水の中にうずめた。
さてその乳粥は、水の中に投げ棄てられると、チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙りを立てた。譬えば終日日に曝されて熱せられた鋤先を水の中に入れると、チッチタ、チッチタと音を立て、大いに湯煙りを出すように、その乳粥は、水の中に投げ棄てられると、チッチタ、チッチタと音を立て、大いに湯煙りを出した。
その時田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは恐れおののいて、身の毛がよだち、師(ブッダ)のもとに近づいた。そうして師の両足に頭を伏せて、礼拝してから、師に言った、
──「すばらしいことです、ゴータマさま。すばらしいことです、ゴータマさま。譬えば倒れた者を起こすように、覆われたものを聞くように、方向に迷った者に道を示すように、或いは『眼ある人々は色や形を見るであろう』といって暗闇の中で灯火を掲げるように、ゴータマさまは種々の仕方で真理を明らかにされました。故に私はここにゴータマさまに帰依します。また真理と修行僧のつどいに帰依します。私はゴータマさまのもとで出家し、完全な戒律(具足戒)をうけましょう。」
そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、師(ブッダ)のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、このバラモン・バーラドヴァーシャさんは独りで他の人々から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、無上の清らかな行いの究極──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──を現世において自らさとり、証、具現して、日を送った。「生まれることは尽きた。清らかな行いは既に完成した。なすべきことをなしおえたた。もはや再びこのような生存を受けることはない。」
とさとった。そうしてバーラドヴァーシャさんは聖者の一人となった。
【5、チュンダ】
83 鍛冶工のチュンダが言った、「偉大な智慧ある聖者・目ざめた人・真理の主・妄執を離れた人・人類の最上者・優れた御者に、私はおたずねします。──世間にはどれだけの修行者がいますか? どうぞお説き下さい。」
84 師(ブッダ)は答えた、「チュンダよ。四種の修行者があり、第五の者はありません。面と向かって問われたのだから、それらをあなたに明かしましょう。──〔道による勝者〕と〔道を説く者〕と〔道において生活する者〕と及び〔道を汚す者〕とです。」
85 鍛冶工チュンダは言った、「目ざめた人々は誰を〔道による勝者〕と呼ばれるのですか? また〔道を習い覚える人〕はどうして無比なのですか? またおたずねしますが、〔道によって生きる〕ということを説いて下さい。また〔道を汚す者〕を私に説き明かして下さい。」
86 「疑いを越え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、貪る執念をもたず、神々と世間とを導く人、──そのような人を〔道による勝者〕であると目ざめた人々は説く。
87 この世で最高のものを最高のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを絶ち欲念に動かされない聖者を修行者たちのうちで第二の〔道を説く者〕と呼ぶ
88 みごとに説かれた〔理法にかなった言葉〕である〔道〕に生き、自ら制し、落ち着いて気を付けていて、とがのない言葉を奉じている人を、修行者たちのうちで第三の〔道によって生きる者〕と呼ぶ。
89 善く誓戒を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心なく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者、──彼は〔道を汚す者〕である。
90 (彼等の特長を)聞いて、明らかに見抜いて知った在家の立派な信徒は、『彼等(四種の修行者)は全てこのとおりである』と知って、彼等を洞察し、このように見ても、その信徒の信仰はなくならない。彼はどうして、汚れた者と汚れていない者と、清らかな者と清らかでない者とを同一視してよいであろうか。」
【6、破 滅】
私が聞いたところによると、──あるとき師(ブッダ)は、サーヴァッティーのジェータ林、〔孤独なる人々に食を給する長者〕の園におられた。その時一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころ、ジェータ林を隈なく照らして、師(ブッダ)のもとに近づいた。近づいてから師に敬礼して傍らに立った。そうしてその神は師に詩を以て呼びかけた。
91 「われらは、〔破滅する人〕のことをゴータマ(ブッダ)におたずねします。破滅への門は何ですか? 師にそれを聞こうとしてわれわれはここに来たのですが、──。」
92 (師は答えた)、「栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる。」
93 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第一の破滅です。先生! 第二のものを説いて下さい。破滅への門はなんですか?」
94 「悪い人々を愛し、善き人々を愛することなく、悪人のならいを楽しむ。これは破壊への門である。」
95 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第二の破滅です。先生! 第三のものを説いて下さい。破滅への門は何ですか?」
96 睡眠の癖あり、集会の癖あり、奮励することなく、怠りなまけ、怒りっぽいので名だたる人がいる、──これは破滅への門である。」
97 「よく分かりました。おっしゃるとおりです。これが第三の破滅です。先生! 第四のものを説いて下さい。破滅への門は何ですか?」
98 「自らは豊かで楽に暮らしているのに、年老いて衰えた母や父を養わない人がいる、──これは破滅への門である。」
99 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第四の破滅です。先生! 第五のものを説いて下さい。破滅の門は何ですか?」
100 「バラモンまたは〔道の人〕または他の〔もの乞う人〕を、嘘をついてだますならば、これは破滅の門である。」
101 「よくわかりました。おっしゃるとうりです。これが第五の破滅です。先生! 第六のものを説いて下さい。破滅の門は何ですか?」
102 「おびただしい富あり、黄金あり、食物ある人が、ひとりおいしいみのを食べるならば、これは破滅への門である。」
103 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第六の破滅です。先生! 第七のものを説いて下さい。破滅の門は何ですか?」
104 「血統を誇り、財産を誇り、また氏姓を誇っていて、しかも已が親戚を軽蔑する人がいる、──これは破滅への門である。」
105 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第七の破滅です。先生! 第八のものを説いて下さい。破滅の門は何ですか?」
106 「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって得たものをその度ごとに失う人がいる、──これは破滅への門である。」
107 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第八の破滅です。先生! 第九のものを説いて下さい。破滅の門は何ですか?」
108 「おのが妻に満足せず、遊女に交わり、他人の妻に交わる、──これは破滅への門である。」
109 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第九の破滅です。先生! 第十のものを説いて下さい。破滅の門は何ですか?」
110 「青春を過ぎた男が、ティンバル果のように盛り上がった乳房のある若い女を誘き入れて、かの女について嫉妬から夜も眠れない、──これは破滅への門である。」
111 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第十の破滅です。先生! 第十一のものを説いて下さい。破滅の門は何ですか?」
112 「酒肉に荒み、財を浪費する女、またはこのような男に、実権を託すならば、これは破滅への門である。」
113 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第十一の破滅です。先生! 第十二のものを説いて下さい。破滅の門は何ですか?」
114 「クシャトリヤ(王族)の家に生まれた人が、財力が少いのに欲望が大きくて、この世で王位を獲ようと欲するならば、
これは破滅への門である。
115 世の中にはこのような破滅のあることを考察して
賢者・すぐれた人は真理を見て、
幸せな世界を体験する。」
【7、賤しい人】
私が聞いたところによると、──あるとき師(ブッダ)は、サーヴァッティーのジェータ林、〔孤独な人々に食を給する長者〕の園におられた。その時師は朝のうちに内衣を着け、鉢と上衣とをたずさえて、托鉢のためにサーヴァッティーに入った。
その時火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャの住居には、聖火がともされ、供物がそなえられていた。さて師はサーヴァッティー市の中を托鉢して、彼の住居に近づいた。火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャは師が遠くから来るのを見たる
そこで、師に言った、「髪を剃った奴よ、そこにおれ。にせの〔道の人〕よ、そこにおれ。賤しい奴よ、そこにおれ」と。
そう言われたので、師は、火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャに言った、「バラモンよ。あなたはいったい賤しい人とはなにかを知っているのですか? また賤しい人たらしめる条件を知っているのですか?」
「ゴータマさん(ブッタ)。私は人を賤しい人とする条件をも知っていないのです。どうか、私が賤しい人を賤しい人とさせる条件を知り得るように、ゴータマさんは私にその定めを説いて下さい。」
「バラモンよ、ではお聞きなさい。よく注意なさい。私は説きましょう。」
「どうぞ、お説き下さい」、と火に仕えるバラモン・バーラドヴァーシャは師に答えた。
師は説いていった、
116 「怒りやすく恨みをいだき、邪悪にして、見せかけであざむき、誤った見解を奉じ、たくらみのある人、──彼を賤しい人であると知れ。
117 一度生まれたものを(胎生)でも、二度生まれるもの(卵生)でも、この世で生きものを害し、生きものに対するあわれみのない人、──彼を賤しい人であると知れ。
118 村や町を破壊し、包囲し、圧制者として一般に知られる人、──彼を賤しい人であると知れ。
119 村にあっても、林にあっても、他人の所有物をば、与えられないのに盗み心をもって取る人、──彼を賤しい人であると知れ。
120 実際に負債ががあるのに、返済するように督促されると、『あなたからの負債はない』といって言い逃れる人、──彼を賤しい人であると知れ。
121 実に僅かの物を欲しくて路行く人を殺害して、僅かの物を奪い取る人。──彼を賤しい人であると知れ。
122 証人として尋ねられたとき、自分のために、他人のため、また財のために、偽りを語る人、──彼を賤しい人であると知れ。
123 或いは暴力を用い、或いは相愛して、親族または友人の妻と交わる人、──彼を賤しい人であると知れ。
124 己れは財豊かであるのに、年老いて衰えた母や父を養わない人、──彼を賤しい人であると知れ。
125 母・父・兄弟・姉妹或いは義母を打ち、または言葉で罵る人、──彼を賤しい人であると知れ。
126 相手の利益となることを問われたのに不利益を教え、隠し事をして語る人、──彼を賤しい人であると知れ。
127 悪事を行なっておきながら、『誰も私のしたことを知らないように』と望み、隠し事をする人、──彼を賤しい人であると知れ。
128 他人の家に行っては美食をもてなされながら、客として来た時には、返礼としてもてなさない人、──彼を賤しい人であると知れ。
129 バラモンまたは〔道の人〕、または他の〔もの乞う人〕を嘘をついてだます人、──彼を賤しい人であると知れ。
130 食事のときが来たのに、バラモンまたは〔道の人〕を言葉て罵り食を与えない人、──彼を賤しい人であると知れ。
131 この世に迷妄に覆われ、わずかの物が欲しくて、事実でないことを語る人──彼を賤しい人と知れ。
132 自分を褒め称え、他人を軽蔑し、自らの慢心のために卑しくなった人、──彼を賤しい人であると知れ。
133 人を悩まし、欲深く、悪いことを欲し、ものおしみをし、あざむいて(徳がないのに敬われようと欲し)、恥じ入る心のない人、──彼を賤しい人であると知れ。
134 目ざめた人(ブッダ)をそしり、或いは出家・在家のその弟子(仏弟子)をそしる人、──彼を賤しい人であると知れ。
135 実際は尊敬さるべき人ではないのに尊敬さるべき人(聖者)であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である人、──彼こそ実に最下の賤しい人である。
私がそなたたちに説き示したこれらの人々は、実に〔賤しい人〕と呼ばれる。
136 生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。
137 私は次にこの実例を示すが、これによってわが説示を知れ。チャンダーラ族の子で犬殺しのマータンガという人は、世に知られた令名の高い人であった。
138 彼マータンガはまことに得がたい最上の名誉を得た。多くの王族やバラモンたちは彼の処に来て奉仕した。
139 彼は神々の道、塵汚れを離れた大道を登って、情欲を離れて、ブラフマン(梵天)の世界に赴いた。(賤しい)生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行なっているのが見られる。
140 ヴェーダ読誦者の家に生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行っているのが見られる。
141 そうすれば、現世においては非難せられ、来世においては悪い処に生まれる。(身分の高い)生れも、彼等が悪い処に生まれまた非難されるのを防ぐことはできない。
142 生まれによって賤しい人となるのではない、生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人となり、行為によってバラモンともなる。
このように説かれたときに、火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャは、師にいった、
「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです、ゴータマさま。あたかも倒れた者をおこすように、覆われたものを開くように方角に迷った者に道を示すように、或いは『眼ある人々は色を見るであろう』といって暗夜に灯火を掲げるように、ゴータマさまは種々の仕方で法を明らかにされました。ですから、私は、ゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまは、私を在俗信者として受けいれて下さい。今日以降命の続く限り帰依します。」
【8、慈しみ】
143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、言葉やさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。
145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも既に生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いを抱いて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。
150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
152 諸々の邪まな見解にとらわけず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。
【9、雪山に住む者】
153 七岳という神霊(夜叉)がいった、「今日は十五日のウポーサタである。みごとな夜が近づいた。さあ、われわれは世にもすぐれた名高い師ゴータマ(ブッダ)にお目にかかろう。」
154 雪山に住む者という神霊(夜叉)がいった、「このように立派な人のこころは一切の生きとし生けるものに対してよく安立しているのだろうか。望ましいものに対しても、望ましくないものに対しても、彼の意欲はよく制されているのであろうか?」
155 七岳という神霊は答えた、「このように立派な彼(ブッダ)のこころは、一切の生きとし生けるものに対してよく安立している。また望ましいものに対しても、望ましくないものに対しても、彼の意欲はよく制されている。」
156 雪山に住む者という神霊がいった、「彼は与えられないものを取らないであろうか? 彼は生きものを殺さないように心がけているであろうか? 彼は怠惰から遠ざかっているであろうか? 彼は精神の統一をやめないであろうか?」
157 七岳という神霊は答えた、「彼は与えられないものを取らない。彼は生きものを殺さないように心がけている。彼は怠惰から遠ざかっている。目ざめた人(ブッダ)は精神の統一をやめることができない。」
158 雪山に住む者という神霊がいった、「彼は嘘をつかないであろうか? 粗暴な言葉を発しないであろうか? 中傷の悪口を言わないだろうか? くだらぬおしゃべりを言わないだろうか?」
159 七岳という神霊は答えた、「彼は嘘をつかない。粗暴な言葉を発しな。また中傷の悪口を言わない。 くだらぬおしゃべりを言わない。」
160 雪山に住む者という神霊がいった、「彼は欲望の享楽に耽らないだろうか? その心は濁っていないだろうか? 迷妄を越えているであろうか? 諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっているだろうか?」
161 七岳という神霊は答えた、「彼は欲望の享楽に耽らない。その心は濁っていない。迷妄を越えている。目ざめた人として諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっている。」
162 雪山に住む者という神霊がいった、「彼は明知を具えているだろうか? 彼の行いは全く清らかであろうか? 彼の煩悩の汚れは消滅しているであろうか? 彼はもはや再び世に生まれるということがないであろうか?」
163 七岳という神霊は答えた、「彼は明知を具えている。また彼の行いは清らかである。彼の全ての煩悩の汚れは消滅している。彼はもはや再び世に生まれるということがない。」
163a (雪山に住む者という神霊がいった)、「聖者の心は行動と言葉とをよく具現している。明知と行いとを完全に具えている彼を汝が讃嘆するのは、当然である。」
163b 「聖者の心は行動と言葉とをよく具現している。明知と行いとを完全に具えている彼に、そなたが随喜するのは、当然である。」
164 (七岳という神霊がいった)、「聖者の心は行動と言葉とをよく具現している。さあ、われらは明知と行いとを完全に具えているゴータマに見えよう。」
165 (雪山に住む者という神霊がいった)、「かの聖者は羚羊のような脛があり、痩せ細って、聡明であり、小食で、貪ることなく、森の中で静かに瞑想している、来たれ、われらはゴータマ(ブッダ)に見えよう。
166 諸々の欲望をかえりみることなく、あたかも獅子のように象のように独り行く彼に近づいて、われらは尋ねよう、──死の縛めから解き放たれる道を。」
167 (その二つの神霊がいった)、「説き示す人、説き明かす人、あらゆることがらの究極をきわめ、怨みと恐れを越えた目ざめた人、ゴータマに、われらは問おう。」
168 雪山に住む者という神霊がいった、「何があるとき世界は生起するのですか? 何に対して親しみ愛するのですか? 世間の人々は何ものに執著しており、世間の人々は何ものに悩まされているのですか?」
169 師は答えた、「雪山に住むものよ。六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみ愛し、世界は六つのものに執著しており、世界は六つのものに悩まされている。」
170 「それによって世間が悩まされる執著とは何であるか? お尋ねしますが、それからの出離の道を説いて下さい。どうしたら苦しみから解き放たれるのでしょうか。」
171 「世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると説き示されている。それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。
172 世間の出離であるこの道が汝らに如実に説き示された。このことを、われは汝らに説き示す、──このようにするならば、苦しみから解き放たれるのである。」
173 「この世において誰が激流を渡るのでしょうか? この世において誰が大海を渡るのでしょうか? 支えなくよるべのない深い海に入って、誰が沈まないのでしょうか?」
174 「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、よく気を付けている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。
175 愛欲の想いを離れ、一切の結び目(束縛)を越え、歓楽による生存を滅しつくした人──、彼は深海のうちに沈むことがない。」
176 (雪山に住む者という神霊がいった)、「深い智慧があり、微妙な意義を見、何ものをも有せず、欲の生存に執著せず、あらゆることがらについて解脱し、天の路を歩みつつあるかの大仙人を見よ。
177 世に名高く、微妙な意義を見、智慧をさずけ、欲望の起る根源に執著せず、一切を知り、よく聡明であり、気高い路を歩みつつあるかの大仙人を見よ。
178 今日われわれは美しい[太陽]を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちよく起き上がった。激流をのり越え、煩悩の汚れのなくなった〔覚った人〕にわれらは見えたからである。
179 これらの千の神霊どもは、神通力あり、誉れたかきものどもであるが、彼等は全てあなたに帰依します。あなたは吾等の無上の師であります。
180 われらは、村から村へ、山から山へめぐり歩もう、──覚った人をも、真理のすぐれた所以をも礼拝しつつ。」
【10、アーラブァカという神霊】
私か聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はア−ラヴィー国のアーラヴァカという神霊(夜叉)の住居に住みたもうた。その時アーラヴァカ神霊は師のいる処に近づいて、
師にいった、「道の人よ、出てこい」と。「よろしい、友よ」といって師は出てきた。
(また神霊はいった)、「道の人よ、入れ」と。「よろしい、友よ」といって、師は入った。
ふたたびアーラヴァカ神霊は師にいった、「道の人よ、出てこい」と。「よろしい、友よ」といって師は出て行った。
(また神霊はいった)、「道の人よ、入れ」と。「よろしい、友よ」といって師は入った。三たびまたアーラヴァカ神霊は師にいった、「道の人よ、出てこい」と。よろしい、友よ」といって師は出てきた。
(また神霊はいった)、「道の人よ。入れ」と。「よろしい、友よ」といって師は入った。
四たびまたアーラヴァカ神霊は師にいった、「道の人よ、出てこい」と。
(師は答えた)、「では、私はもう出て行きません、汝のなすべきことをなさい」と。
(神霊がいった)、「道の人よ、私は汝に質問しよう。もしも汝が私に解答できないならば、汝の心を乱し、汝の心臓を裂き、汝の両足をとらえてガンジス河の向こうの岸に投げつけよう。」
(師は答えた)、「友よ。神々・悪魔・梵天を含む世界において、道の人・バラモン・神々・人間を含む生けるものどものうちで、わが心を乱し、わが心臓を裂き、わか両足をとらえてガンジス河の向こうの岸に投げつけ得るような人を、実に私は見出さない。友よ。
汝が聞きたいと欲することを、何でも聞け」と。そこでアーラヴァカ神霊は、師に次の詩をもって呼びかけた。──
181 「この世で人間の最高の富は何であるか? いかなる善行が安楽をもたらすのか? 実に味の中での美味は何であるか? どのように生きるのが最上の生活であるというのか?」
182 「この世では信仰が人間の最上の富である。徳行に篤いことは安楽をもたらす。実に真実が味の中で美味である。知慧によって生きるのが最高の生活であるという」
183 「ひとはいかにして激流を渡るのであるか? いかにして海を渡るのであるか? いかにして苦しみを越えるのであろうか? いかにして全く清らかとなるのであるか?」
184 「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」
185 「ひとはいかにして智慧を得るのであろうか? いかにして財を獲るのであるか? いかにして名声を得るのであるか? いかにして交友を結ぶのであるか? どうすれば、この世からかの世に赴いたときに憂いがないのであろうか?」
186 [師いわく、──]「諸々の尊敬さるべき人が安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。
187 適宜に事をなし、忍耐づよく努力する者は財を得る。
誠実をつくして名声を得、
何ものかを与えて交友を結ぶ。
188 信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれら四種の徳があれば、彼は来世に至って憂えることがない。
189 もしもこの世に誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば、さあ、それら他のものをも広く〔道の人〕、バラモンどもに問え。」
190 [神霊いわく、──]「いまや私は、どうして道の人、バラモンどもに広く問う要がありましょうか。私は今日〔来世のためになること〕を覚り得たのですから。
191 ああ、目ざめた方がア−ラヴィーに住むためにおいでになったのは、実は私のためをはかってのことだったのです。私は今日、何に施与すれば大いなる果報が得られるかということを知りました。
192 私は、村から村へ、町から町へめぐり歩こう、──覚った人を、また真理のすぐれた所以を、礼拝しつつ。」
【11、勝利】
193 或いは歩み、或いは立ち、或いは坐り、或いは臥し、身を屈め、或いは伸ばす、──これは身体の動作である。
194 身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて、ありのまま見られることがない。
195 身体は腸に充ち、胃に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、
196 鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。
197 またその九つの孔んらはねつねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、
198 鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。
199 またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。
200 また身体が死んで臥するときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。
201 犬や野狐や狼やは虫類がこれをくらい、鳥や鷲やその他の生きものがこれを啄む。
202 この世において知慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)の言葉を聞いて、このことを完全に了解する。なんとなれば、彼はあるがままに見るからである。
203 (かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう)と内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである。
204 この世において愛欲を離れ、知慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。
205 人間のこの身は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出る。
206 このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また軽蔑するならば、彼は(見る視力が無い)という以外の何だろう。
【12、聖 者】
207 親しみ慣れることから恐れが生じ、家の生活から汚れた塵が生ずる。親しみ慣れることもなく家の生活もないならば、これが実に聖者のさとりである。
208 既に生じた(煩悩の芽を)断ち切って、新たに植えることなく、現に生ずる(煩悩)を長ぜしめることがないならば、この独り歩む人を〔聖者〕と名づける。かの大仙人は平安の境地を見たのである。
209 平安の境地、(煩悩の起こる)基礎を考究して、そのたねを弁(わきま)え知って、それを愛執する心を長せしめないならば、彼は、実に生を滅ぼしつくした終極を見る聖者であり、妄想を捨てて(迷える者の)部類に赴かない。
210 あらゆる執著の場所を知りおわって、そのいずれをも欲することなく、貪りを離れ、欲のない聖者は、作為によって求めることがない。彼は彼岸に達しているからである。
211 あらゆるものにうち勝ち、あらゆるものを知り、いとも聡明で、あらゆる事物に汚されることなく、あらゆるものを捨て、妄執が滅びて解脱した人、──諸々の賢者は、彼を〔聖者〕であると知る。
212 智慧の力あり、戒と誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気を付けていて、執著から脱して、荒れた処なく、煩悩の汚れのない人、──諸々の賢者は、彼を〔聖者〕であると知る。
213 独り歩み、怠ることのない聖者は、非難と賞賛とに心を動かさず、音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、他人に導かれることなく、他人を導く人、──諸々の賢者は、彼を(聖者)であると知る。
214 他人が言葉を極めてほめたりそしったりしても、水浴場における柱のように泰然とそびえ立ち、欲情を離れ、諸々の感官をよく静めている人、──諸々の賢者は、彼を〔聖者〕であると知る。
215 梭のように真直ぐに自ら安立し、諸々の悪い行為を嫌い、正と不正とをつまびらかに考察している人、──諸々の賢者は、彼を〔聖者〕であると知る。
216 自己を制して悪をなさず、若いときでも、中年でも、聖者は自己を制している。彼は他人に悩まされることなく、また何びとをも悩まさない。諸々の賢者は、彼を〔聖者〕であると知る。
217 他人から与えられたもので生活し、[容器の]上の部分からの食物、中ほどからの食物、残りの食物を得ても、(食を与えてくれた人を)ほめることなく、またおとしめて罵ることもないならば、諸々の賢者は、彼を【聖者〕であると知る。
218 婬欲の交わりを断ち、いかなるうら若き女人にも心をとどめず、驕りまたは怠りを離れ、束縛から解脱している聖者──彼を諸々の賢者は(真の)〔聖者〕であると知る。
219 世間をよく理解して、最高の真理を見、激流を超え海をわたったこのような人、束縛を破って、依存することなく、煩悩の汚れのない人、──諸々の賢者は、彼を〔聖者〕であると知る。
220 両者は住所も生活も隔たって、等しくない。在家者は妻を養うが、善く誓戒を守る者(出家者)は何ものをも我が物とみなす執著がない。在家者は、他のものの生命を害って、節制することがないが、聖者は自制していて、常に生命ある者を守る。
221 譬えば青頸の孔雀が、空を飛ぶときは、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。
〔蛇の章〕第一 おわる
まとめの句
蛇とダニヤと[犀の]角と耕す人と、チュンダと破壊と賤しい人と、慈しみを修めることと雪山に住む者とアーラヴァカと、勝利とまた聖者と、──
これらの十二の経が「蛇の章」と言われる。
第ニ 小なる章
【1,宝】
222 ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、全て歓喜せよ。そうしてこころを留めてわが説くところを聞け。
223 それ故に、全ての生きものよ、耳を傾けよ。昼夜に供物をささげる人類に、慈しみを垂れよ。それ故に、なおざりにせず。彼等を守れ。
224 この世または来世におけるいかなる富であろうとも、天界における勝れた宝であろうとも、吾等の全き人(如来)に等しいものは存在しない。この勝れた宝は、目ざめた人(仏)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
225 心を統一したサキヤムニは、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された、──その理法と等しいものは何も存在しない。このすぐれた宝は理法のうちに存在する。この真理によって幸せであれ。
226 最も勝れた仏が讃嘆したもうた清らかな心の安定を、「ひとびとは(さとりに向かって)間をおかぬ心の安定」と呼ぶ。この(心の安定)と等しい者は他に存在しない。このすぐれた宝は理法(教え)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
227 善人の褒め称える八輩の人はこれらの四双の人である。彼等は幸せ人(ブッダ)の弟子であり、施与を受けるべきである。彼等に施したならば、大いなる果報をもたらす。
この勝れた宝は〔つどい〕のうちにある。この真理によって幸せであれ。
228 ゴータマ(ブッダ)の教えにもとずいて、堅固な心をもってよく努力し、欲望がなく、不死に投入して、達すべき境地に達し、代償なくして得て、平安の楽しみを享けている。この勝れた宝〔つどい〕のうちにある。この真理によって幸せであれ。
229 城門の外に立つ柱が地の中に打ち込まれていると、四方からの風にも揺るがないように、諸々の聖なる真理を観察して見る立派な人は、これに譬えられるべきである、とわれは言う。この勝れた宝〔つどい〕のうちにある。この真理によって幸せであれ。
230 深い智慧ある人(ブッダ)がみごとに説きたもうた諸々の聖なる真理をはっきりと知る人々は、たとい大いになおざりに陥ることがあっても、第八の生存を受けることはない。この勝れた宝は〔つどい〕のうちにある。この真理によって幸せであれ。
231 [T]自身を実在とみなす見解と[U]疑いと[V]外面的な戒律・誓いという三つのことがらが少しでも存在するならば、彼が知見を成就するとともに、それらは捨てられてしまう。彼は四つの悪い場所から離れ、また六つの重罪をつくるものとはなり得ない。このすぐれた宝が〔つどい〕のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
232 また彼が身体によって、言葉によって、またはこころの中で、たとい僅かなりとも悪い行為をなすならば、彼はそれを隠すことができない。隠すことができないということを、究極の境地を見た人は説きたもうた。このすぐれた宝が〔つどい〕のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
233 夏の月の初めの暑さに林の茂みでは枝が花を咲かせたように、それに譬うべき、安らぎに赴く妙なる教えを(目ざめた人、ブッダが)説きたもうた、──ためになる最高のことがらのために。このすぐれた宝が目ざめた人(ブッダ)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
234 勝れたものを知り、勝れたものを与え、勝れたものをもたらす勝れた無上の人が、妙なる教えを説きたもうた。このすぐれた宝が〔目ざめた人〕(ブッダ)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
235 古い(業)は既に尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は未来に執著することなく、種子をほろぼし、それが生長する事を欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝が(つどい)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。
236 われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間のつかえるこのように完成した〔目ざめた人〕(ブッダ)を礼拝しょう。幸せであれ。
237 われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した〔教え〕を礼拝しよう。幸せであれ。
238 われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した〔つどい〕を礼拝しよう。幸せであれ。
【2、なまぐさ】
239 「稷・ディングラカ・チーナカ豆・野菜・球根・蔓の実を善き人々から正しい仕方で得て食べながら、欲を貪らず、偽りを語らない。
240 よく炊がれ、よく調理されて、他人から与えられた純粋で美味な米飯の食物を舌鼓うって食べる人は、なまぐさを食うのである。カッサパよ。
241 梵天の親族(バラモン)であるあなたは、おいしく料理された鳥肉と共に米飯を味わって食べながら、しかも〔私はなまぐさものを許さない〕と称している。カッサパよ、私はあなたにこの意味を尋ねます。あなたの言う〔なまぐさ〕とはどんなものですか。」
242 「生物を殺すこと、打ち、切断し、縛ること、盗むこと、嘘をつくこと、詐欺、だますこと、邪曲を学習すること、他人の妻に親近すること、──これがなまぐさである。肉食することが〔なまぐさい〕のではない。
243 この世において欲望を制することなく、美味を貪り、不浄の(邪悪な)生活をまじえ、虚無論をいだき、不正の行いをなし、頑迷な人々、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。
244 粗暴・残酷であって、陰口を言い、友を裏切り、無慈悲で、極めて傲慢であり、ものおしみする性で、なんびとにも与えない人々、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。
245 怒り、驕り、強情、反抗心、偽り、嫉妬、ほら吹くこと、極端の傲慢、不良の徒と交わること、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。
246 この世で、性質が悪く、借金を踏み倒し、密告をし、法廷で偽証し、正義を装い、邪悪を犯す最も劣等な人々、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。
247 この世でほしいままに生きものを殺し、他人のものを奪って、かえって彼等を害しようと努め、たちが悪く、残酷で、粗暴で無礼な人々、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。
248 これら(生けるものども)に対して貪り求め、敵対して殺し、常に(害を)なすことにつとめる人々は、死んでからは暗黒に入り、頭を逆さまにして地獄に落ちる、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。
249 魚肉・獣肉(を食わないこと)も、断食も、裸体も、剃髪も、結髪も、塵垢にまみえることも、粗い鹿の皮(を着ること)も、火神への献供につとめることも、或いはまた世の中でなされるような、不死を得るための苦行も、(ヴェーダの)呪文も、供犠も、祭祀も、季節の荒行も、それらは、疑念を超えていなければ、その人を清めることができない。
250 通路(六つの機官)をまもり、機官にうち勝って行動せよ。理法のうちに安立し、まっすぐで柔和なことを楽しみ、執著を去り、あらゆる苦しみを捨てた賢者は、見聞きしたことに汚されない。」
251 以上のことがらを尊き師(ブッダ)はくりかえし説きたもうた。ヴェーダの呪文に通じた人(バラモン)はそれを知った。なまぐさを離れて、何ものにもこだわることのない、跡を追いがたい聖者(ブッダ)は、種々の詩句を以てそれを説きたもうた。
252 目ざめた人(ブッダ)のみごとに説きたもうた──なまぐさを離れ一切の苦しみを除き去る──言葉を聞いて、(そのバラモンは、)謙虚なこころで、全き人(ブッダ)を礼拝し、即座に出家することをねがった。
【3,恥】
253 恥じることを忘れ、また嫌って、「われは(汝の)友である」と言いながら、しかも為し得る仕事を引き受けない人、──彼を「この人は(わが)友に非ず」と知るべきである。
254 諸々の友人に対して、実行がともなわないのに、言葉だけ気に入ることを言う人は、「言うだけで実行しない人」であると、賢者たちは知りぬいている。
255 つねに注意して友誼の破れることを懸念して(甘いことを言い)、ただ友の欠点のみ見る人は、友ではない。子が母の胸に頼るように、その人によっても、他人のためにその間を裂かれることのない人こそ、友である。
256 成果を望む人は、人間に相応した重荷を背負い、喜びを生じる境地と賞讃を博する楽しみを修める。
257 遠ざかり離れる味と平安となる味とを味わって、法の喜びの味を味わっている人は、苦悩わ離れ、悪を離れている。
【4、こよなき幸せ】
わたたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、〔孤独な人々に食を給する長者〕の園におられた。その時一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころジェータ林を隈なく照らして、師のもとに近づいた。そうして師に礼して傍らに立った。そうしてその神は、師に詩を以て呼びかけた。
258 「多くの神々と人間とは、幸福を望み、幸せを思っています。最上の幸福わ説いて下さい。」
259 諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、──これがこよなき幸せである。
260 適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、自らは正しい誓願を起こしていること、──これがこよなき幸せである。
261 深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、言葉がみごとであること、──これがこよなき幸せである。
262 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、──これがこよなき幸せである。
263 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。
264 悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、──これがこよなき幸せである。
265 尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、──これがこよなき幸せである。
266 耐え忍ぶこと、言葉のやさしいこと、諸々の(道の人)に会うこと、適当な時に理法について聞くこと──これがこよなき幸せである。
267 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。
268 世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、──これがこよなき幸せである。
269 これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。──これがこよなき幸せである。
【5、スーチローマ】
私が聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)はガヤー(村)のタンキク石床におけるスーチローマという神霊(夜叉)の住居におられた。その時カラという神霊とスーチローマという神霊に言った、「彼は〔道の人〕である」と。(スーチローマという神霊は言った)、
彼は真の〔道の人〕であるか、或いは似而非の〔道の人〕であるかを、私が知らないうちは、彼は真の〔道の人〕ではなくて、似而非の〔道の人〕である。」
そこでスーチローマという神霊は、師のもとに至り、そうして身を師に近づけた。ところが師は身を退けた。そこでスーチローマという神霊は師にいった、「〔道の人〕よ。汝は私を恐れるのか。」(師いわく)、「友よ。私は汝を恐れているのではない。しかし汝に触れることは悪いのだ。」(スーチローマという神霊はいった)、「〔道の人〕よ。私は汝に質問しよう。もしも汝が私に解答しないならば、汝の心を乱し、汝の心臓を裂き、汝の両足をとらえてガンジス河の向こう岸に投げつけよう。」
(師は答えた)、「友よ。神々・悪魔・梵天を含む世界において、道の人・バラモン・神々・人間を含む生けるものどものうちで、わが心を乱し、わが心臓を裂き、わが両足をとらえてガンジス河の向こう岸に投げつけ得るような人を、実に私は見ない。友よる汝が聞きたいと欲することを、何でも聞け。」
そこでスーチローマという神霊は、次の詩を以て、師に呼びかけた。──
270 貪欲と嫌悪とはいかなる原因から生じるのであるか。好きと嫌いと身の毛もよだつこと(戦慄)とはどこから生ずるのであるか。諸々の妄想はどこから起こって、心を投げうつのであるか?──あたかもこどもらが鳥ほ投げて棄てるように。
271 貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。好きと嫌いと身の毛もよだつこととは、自身から生ずる。諸々の妄想は、自身から生じて心を投げうつ、──あたかもこどもらが鳥ほ投げて棄てるように。
272 それらは愛執から起こり、自身から現われる。あたかもバニヤンの新しい若木が枝から生ずるようなものである。それらが、ひろく諸々の執著していることは、譬えば、つる草が林の中にはびこっているようなものである。
273 神霊よ、聞け。それらの煩悩がいかなる原因にもとずいて起こるかを知る人々は、煩悩を除きさる。彼等は、渡りがたく、未だかって渡った人のいないこの激流を渡り、もはや再び生存をうけることがない。
【6、理法にかなった行い】
274 理法にかなった行い、清らかな行い、これが最上の宝であると言う。たとい在家から出て家なきに入り、出家の身となったとしても、
275 もしも彼が荒々しい言葉を語り、他人を苦しめ悩ますことを好み、獣(のごとく)であるならば、その人の生活はさらに悪いものとなり、自分の塵汚れを増す。
276 争論を楽しみ、迷妄の性質に蔽われている修行僧は、目ざめた人(ブッダ)の説きたもうた理法を、説明されても理解しない。
277 彼は無明に誘われて、修養をつんだ他の人を苦しめ悩まし、煩悩が地獄に赴く道であることを知らない。
278 実にこのような修行僧は、苦難の場所に陥り、母胎から他の母胎へと生まれかわり、暗黒から暗黒へと赴く。死後には苦しみを受ける。
279 あたかも糞坑が年をへると糞に充満したようなものであろう。不潔な人は、実に清めることが難しい。
280 修行僧らよ。このような出家修行僧を、実は、〔家にたよっている人、邪まな欲望あり、邪まな思いあり、邪まな行いをなし、悪い処にいる人〕であると知れ。
281 汝らは全て一致協力して、彼を斥けよ。籾殻を吹き払え。屑を取り除け。
282 次いで、実は〔道の人〕であると思いなしている籾殻どもを除き去れ。──悪を欲し、悪い行いをなし、悪い処にいる彼等を吹き払って。
283 自らは清き者となり、互いに思いやりをもって、清らかな人々と共に住むようにせよ。そこで、聡明な者どもが、共に仲よくして、苦悩を終滅せしめるであろう。
【7、バラモンにふさわしいこと】
私が聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、〔孤独な人々に食を給する長者〕の園におられた。その時コーサラ国に住む、多くの、大富豪であるバラモンたち──彼等は老いて、年長け、老いぼれて、年を重ね、老齢に達していたが──は師のおられる処に近づいた。そうして師と会釈した。喜ばしい思い出に関する挨拶の言葉を交わしたのち、彼等は傍らに坐した。
そこで大富豪であるバラモンたちは師に言った、「ゴータマ(ブッダ)さま。そもそも今のバラモンは昔のバラモンたちの守っていたバラモンの定めにしたがっているでしょうか?」[師は答えた]、「バラモンたちよ。今のバラモンたちは昔のバラモンたちの守ったバラモンの法に従ってはいない。」「では、ゴータマさそは、昔のバラモンたちの守ったバラモンの法をわれらに話して下さい。──もしもゴータマさまにお差支えがなければ。」「では、バラモンたちよ、お聞きなさい、よく注意なさい。私は話してあげましょう。」「どうぞ」と、大富豪であるバラモンたちは、師に答えた。
師は次のことを告げた。──
284 昔の仙人たちは自己をつつしむ苦行者であった。彼は五種の欲望の対象を捨てて、自己の(真実の)理想を行った。
285 バラモンたちには家畜もなかったし、黄金もなかったし、穀物もなかった。しかし彼等はヴェーダ読誦を財産ともなし、穀物ともなし、ブラフマンを倉として守っていた。
286 彼等のために調理せられ家の戸口に置かれた食物、すなわち信仰心をこめて調理せられた食物、を求める(バラモンたち)に与えようと、彼等(信徒)は考えていた。
287 豊かに栄えていた地方や国々の人々は、種々に美しく染めた衣服や臥床や住居をささげて、バラモンたちに敬礼した。
288 バラモンたちは法によって守られていたので、彼等を殺してはならず、うち勝ってもならなかった。彼等が彼等が家々の戸口に立つのを、なんびとも決して妨げなかった。
289 彼等昔のバラモンたちは四十八年間、童貞の清浄行を行った。知と行とを求めていたのであった。
290 バラモンたちは他の(カーストの)女を娶らなかった。彼等はまたその妻を買うこともなかった。ただ相愛して同棲し、相和合して楽しんでいたのであった。
291 (同棲して楽しんだのではあるけども)、バラモンたちは、(妻に近づき得る)時を除いて月経のために遠ざかったときは、その間は決して婬欲の交わりを行わなかった。
292 彼等は、不婬の行と戒律と正直と温順と苦行と柔和と不傷害と耐え忍びとを褒め称えた。
293 彼等のうちで勇猛堅固であった最上のバラモンは、実に婬欲の交わりを夢に見ることさえもなかった。
294 この世における聡明な性の或る人々は、彼の行いにならいつつ、不婬と戒律と耐え忍びとを褒め称えた。
295 米と玩具と衣服とバターと油とを乞い、法に従って集め、それによって祭祀を整え行った。彼等は、祭祀を行うときにも、決して牛を殺さなかった。
296 母や父や兄弟や、また他の親族のように、牛は吾等の最上の友である。牛からは薬が生ずる。
297 それから(牛から生じた薬)は食料となり、気力を与え、皮膚に光沢を与え、また楽しませてくれる。(牛に)このような利益のあることを知って、彼等は決して牛を殺さなかった。
298 バラモンたちは、手足が優美で、身体が大きく、容色端麗で、名声あり、自分のつとめに従って、為すべきことを為し、為してはならぬことは為さないということに熱心に努力した。彼等が世の中にいた間は、この世の人々は栄えて幸福であった。
299 しかるに彼等に誤つた見解が起こった。次第に王者の栄華と化粧盛装した女人を見るにしたがって、
300 また駿馬に牽かせた立派な車、美しく彩られた縫物、種々に区画され部分ごとにほど良く作られた邸宅や住居を見て、
301 バラモンたちは、牛の群が栄え、美女の群を擁するすばらしい人間の享楽を得たいと熱望した。
302 そこで彼はヴェーダの呪文を編纂して、かの甘蔗王のもとに赴いていった、「あなたは財宝も穀物も豊かである。祭祀を行いなさい。あなたの富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い。」
303 そこで戦車兵の主である王は、バラモンたちに勧められて、──馬の祀り、人間の祀り、擲棒の祀り、ヴァージャペッヤの祀り、誰にでも供養する祀り、──これらの祀りを行なって、バラモンたちに財を与えた。
304 牛、臥具、衣服、盛装化粧した女人、またよく造られた駿馬に牽かせる車、美しく彩られた縫物──、
305 部分ごとによく区画されている美事な邸宅に種々の穀物をみたして、(これらの)財をバラモンたちに与えた。
306 そこで彼等は財を得たのであるが、さらにそれを蓄積することを願った。彼等は欲に溺れて、さらに欲念が増長した。そこで彼等はヴェーダの呪文を編纂して、再び甘蔗王に近づいた。
307 「水と地と黄金と財と穀物とが生命あるひとびとの用具であるように、牛は人々の用具である。祭祀を行いなさい。あなたの富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い。」
308 そこで戦車兵の主である王は、バラモンたちに勧められて、幾百千の多くの牛を犠牲のために屠らせた。
309 牛は、脚を以ても、何によっても決して(他のものを)害うことがなくて、羊に等しく柔和で、瓶を満たすほど乳を搾らせてくれる。しかるに王は、角をとらえて、刃を以てこれを屠らせた。
310 刃が牛におちるや、その時神々と祖霊と帝釈天と阿修羅と羅刹たちは、「不法なことだ!」と叫んだ。
311 昔は、欲と飢えと老いという三つの病いがあっただけであった。ところが諸々の家畜を祀りのために殺したので、九十八種の病いが起った。
312 このように(殺害の)武器を不法に下すということは、昔から行われて、今に伝わったという。何ら害のない(牛が)殺される。祭祀わ行う人は理法に背いているのである。
313 このように昔からのこのつまらぬ風俗は、識者の非難するものである。人はこのようなことを見るごとに、祭祀実行者を非難する。
314 このように法が廃れたときに、隷民(シュードラ)と庶民(ヴァイシヤ)との両者が分裂し、また諸々の王族がひろく分裂して仲たがいし、妻はその夫を蔑むようになった。
315 王族も、梵天の親族(バラモン)も、並びに種姓(の制度)によって守られている他の人々も、生れる誇る論議を捨てて、欲望に支配される至った、と。
このように説かれたときに、大富豪であるバラモンたちは、師にいった、「すばらしいことです! ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです! ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われているものを開くように、方向に迷った者を示すように、或いは『眼ある人々は色や形を見るであろう』といって暗闇の中で灯火を掲げるように、ゴータマさまは種々の仕方で理法を明らかにされた。ここで、われらはゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまは、われわれを在俗信者として、受け入れて下さい。今日から命の続く限り帰依いたします。」
【8、船】
316 ひとがもしも他人から習って理解を知るならば、あたかも神々がインドラ神(帝釈天)を敬うがごとくになすべきである。学識の深いその(師)は、尊敬されれば、その人に対して心からよろこんで、真理を顕示する。
317 思慮ある人は、そのことを理解し傾聴して、理法にしたがった教えを順次に実践し、このような人に親しんで怠ることがなとならば、識者・弁え知る者・聡明なる者となる。
318 未だことがらを理解せず、嫉妬心のある、くだらぬ人・愚者に親しみつかえるならば、ここで真理(理法)を弁え知ることなく、疑いを超えないで、死に至る。
319 あたかも人が水かさが多く流れの疾い河に入ったならば、彼は流れにはこばれ、流れに沿って過ぎ去るようなものである。彼はどうして他人を渡すことができるであろうか。
320 それと同じく、真理(理法)を弁え知らず、学識の深い人にことがらの意義を聞かないならば、自ら知らず、疑いを超えていない人が、どうして他人の心を動かすことができるであろうか。
321 堅牢な船に乗って、橈と舵とを具えているならば、操縦法を知った巧みな経験者は、他の多くの人々をそれに乗せて渡すように、
322 それと同じく、ヴェーダ(真理の知識)に通じ、自己を修養し、多く学び、動揺しない(師)は、実に(自ら)知っているで、傾聴し侍坐しようという気持をお越した他の人々の心を動かす。
323 それ故に、実に聡明にして学識の深い立派な人に親しめ。ものごとを知って実践しつつ、真理を理解した人は、安楽を得るであろう。
【9、いかなる戒めを】
324 いかなる戒めをまもり、いかなる行いをなし、いかなる行為を増大せしめるならば、人は正しく安立し、また最上の目的を達し得るのであろうか。
325 長上を敬い、嫉むな。諸々の師に見えるのに適当な時を知り、法に関する話しを聞くのに正しい時機を知れ。みごとに説かれたことを謹んで聞け。
326 強情をなくし謙虚な態度で、時に応じて師のもとに行け。ものごとと真理と自制と清らかな行いとを心に憶い、かつ実行せよ。
327 真理を楽しみ、真理を喜び、真理に安住し、真理の定めを知り、真理をそこなう言葉を口にするな。みごとに説かれた真実にもとずいて暮らせ。
328 笑い、だじゃれ、悲泣、嫌悪、いつわり、詐欺、貪欲、高慢、激昂、粗暴な言葉、汚濁、耽溺を捨てて、驕りを除去し、しっかりとした態度で行え。
329 みごとに説かれた言葉は、聞いてそれを理解すれば、精となる。聞きかつ知ったことは、精神の安定を修すると、精になる。人が性急であってふらついているならば、彼には知慧も学識も増大することがない。
330 聖者の説きたもうた真理を喜んでいる人々は、言葉でも、こころでも、行いでも、最上である。彼等は平安と柔和と瞑想とのうちに安立し、学識と智慧との真髄に達したのである。
【10、精励】
331 起てよ、座れ。眠って汝らに何の益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして眠られようか。
333 神々も人間も、ものを欲しがり、執著に囚われている。この執著を超えよ。わずかの時を空しく過ごすことなかれ。時を空しく過ごしたひとは地獄に堕ちて悲しむからである。
334 怠りは塵垢である。怠りによって塵垢がつもる。つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢を抜け。
【11、ラーフラ】
335 [師(ブッダ)がいった]、ラーフラよ。しばしば共に住むのに慣れて、お前は賢者を軽蔑するのではないか? 諸人のために炬火をかざす人を、汝は尊敬しているか?」
336 (ラーフラは答えた)、「しばしば共に住むのに慣れて賢者を軽蔑するようなことを、私は致しません。諸人のために炬火をかざす人を、私は常に尊敬しています。」
以上、序の詩
337 「愛すべく喜ばしい五欲の対象を捨てて、信仰心によって家から出て、苦しみを終滅せしめる者であれ。
338 善い友だちと交われ。人里はなれ奥まった騒音の少ない処に坐臥せよ。飲食に量を知る者であれ。
339 衣服と、施された食物と、(病人のための)物品と坐臥の所、──これらのものに対して欲を起こしてはならない。再び世にもどってくるな。
340 戒律の規定を奉じて、五つの五官を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。切に世を厭い嫌う者となれ。
341 愛欲があれば(汚いものでも)清らかに見える。その(美麗な)外形を避けよ。(身は)不浄であると心に観じて、心をしずかに統一せよ。
342 無相ののおもいを修せよ。心にひそむ傲慢をすてよ。そうすれば汝は傲慢をほろぼして、心静まったものとして日を送るであろう。」
実に尊き師(ブッダ)はこのようにラーフラさんにこれらの詩を以て繰返し教えられた。
【12、ヴァンギーサ】
私がこのように聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はア−ラヴィーにおけるアッガーラウァ霊樹のもとにおられた。その時、ヴァンギーサさんの師でニグローダ・カッパという名の長老が、アッガーラウァ霊樹のもとで亡くなってから、間がなかった。その時ヴァンギーサさんは、ひとり閉じこもって沈思していたが、このような思念が心に起こった、──「わが師は実際に亡くなったんだろうか、或いはまだ亡くなっていないのだろうか?」と。
そこでヴァンギーサさんは、夕方に沈思から起き出て、師のいます処に赴いた。そこで師に挨拶して、傍らに坐った。傍らに坐ったヴァンギーサさんは師にいった、「尊いお方さま。私がひとり閉じこもって沈思していたとき、このような思念が心に起こりました。──〔わが師は実際に亡くなったのだろうか、或いはまだ亡くなっていないのだろうか?〕」と。
そこでヴァンギーサさんは座から立ち上がって、衣を左の肩にかけて右肩をあらわし、師に向かって合掌し、師にこの詩を以て呼びかけた。
343 「現世において、諸々の疑惑を断たれた無上の智慧ある師におたずね致します。──世に知られ、名声あり、心が安らぎに帰した[ひとりの]修行者が、アッガーラウァ[霊樹のもと]で亡くなりました。
344 先生! あなたは、そのバラモンに『ニグローダ・カッパ』という名を付けられました。ひたすらに真理を見られた方よ。彼は、あなたを礼拝し、解脱を求め、つとめ励んでおりました。
345 サッカ(釈迦族の人、釈尊)よ、普く見る人よ。われらは皆、(あなたの)かの弟子のことを知ろうと望んでいます。われわれの耳は、聞こうと待ちかまえています。あなたは吾等の師です。あなたは、この上ない方です。
346 吾等の疑惑を断って下さい。これを私に説いて下さい。智慧豊かな方よ。彼等が亡くなったのかどうかを知って、吾等の間で説いて下さい。──千の眼ある帝釈天が神々の間で説くように。普く見る方よ。
347 この世で、およそ束縛なるものは、迷妄の道であり、無智を棚とし、疑いによって存するが、全き人(如来)にあうと、それらは全てなくなくなってしまう。この(全き人)は人間のための最上の眼であります。
348 風が密雲を払いのけるように、[この人](ブッダ)が煩悩の汚れを払うのでなければ、全世界は覆われて、暗黒となるでありましょう。光輝ある人々も輝かないでありましょう。
349 聡明な人々は世を照らします。聡明な方よ。私は、あなたをそのような人だと思います。われらはあなたを〔如実に見る人〕であめと知って、みもとに近づきました。集会の中で、吾等のために(ニグローダ)カッパのことを明かにして下さい。
350 すみやかに、いとも妙なる声を発して下さい。白鳥がその頸をもたげて徐ろに鳴くように、よくととのった円やかな声を徐に発して下さい。われらは全て、すなおに聞きましょう。
351 生死を残りなく捨て、悪を払い除いた(ブッダ)に請うて、真理を説いていただきましょう。諸々の凡夫は、[知ろうと欲し言おうと]欲することをなしとげることができないが、諸々の全き人(如来)たちは、慎重に思慮してなされるからです。
352 この完全な確定的な説明が、正しい智者であるあなたによって、よく持たれているのです。私は、さらにこの合掌をささげます。(自らは)知りながら(語らないで、われらを)迷わしたもうな。智慧すぐれた方よ。
353 あれこれの尊い理法を知っておられるのですから、(自らは)知りながら[語らないで、われらを]迷わしたりなさいますな。励むことにすぐれた方よ。夏に暑熱に苦しめられた人が水を求めるように、私は(あなたの)言葉を望むのです。聞く者に[言葉の雨を]降らして下さい。
354 カッパ師が清らかな行いを行って達成しようとした目的は、彼にとって空しかったのでしょうか? 彼は、消え滅びたのでしょうか? それとも生存の根源を残して安らぎに帰したのでしょうか? 彼はどのように解脱したのでしょうか、──私たちはそれを聞きたいのです。」
355 師は答えた、「彼はこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。長いあいだ陥っていた黒魔の流れを断ち切ったのである」五人の修行者の最上者であった尊き師はそのように語られた。
356 [ヴァンギーサいわく、──]「第七の仙人(ブッダ)さま。あなたのお言葉を聞いて、私は喜びます。私の問いは、決してむだではありませんでした。バラモンであるあなたは、私をだましません。
357 目ざめた人(ブッダ)の弟子(ニグローダ・カッパ)は、言葉で語ったとおりに実行した人でした。ひとを欺く死魔のひろげた堅固な網を破りました。
358 先生! カッパ師は執著の根元を見たのです。ああ、カッパ師は、いとも渡りがたい死魔の領域を超えたのです。」
【13、正しい遍歴】
359 「智慧豊かに、流れを渡り、彼岸に達し、安全な安らぎを得て、こころ安住した聖者におたずね致します。家から出て諸々の欲望を除いた修行者が、正しく世の中を遍歴するには、どのようにしたらよいのでしょうか。」
360 師はいわれた、「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断を共に捨てた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。
361 修行者が、迷いの生活を超越し、理法をさとって、人間及び天界の諸々の享楽に対する貪欲を慎しむならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
362 修行者が陰口をやめ、怒りと物惜しみとを捨てて、順逆の念を離れるならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
363 好ましいものも、好ましくないものも、共に捨てて、何ものにも執著せず、こだわらず、諸々の束縛から離脱しているならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
364 彼が、生存を構成する要素のうちに堅固に実体を見出さず、諸々の執著されるものに対する貪欲を慎しみ、こだわることなく、他人に誘われないならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
365 言葉によっても、こころによっても、行為によっても、逆らうことなく、正しく理法を知って、ニルヴァーナの境地を求めるならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
366 修行者が、『彼はわれを拝む』と思って高ぶることなく、罵られても心に含むことなく、他人から食物を与えられたからとて驕ることがないならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
367 修行者が、貪りと迷いの生存(煩悩の)矢を抜いたのであれば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
368 修行者が、自分に適当なことを知り、世の中で何ものをも害うことなく、如実に理法を知っているのであるならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
369 彼にとっては、いかなる潜在的妄執も存せず、悪の根が根こそぎにされ、ねがうこともなく、求めることがないならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
370 煩悩の汚れは既に尽き、高慢を断ち、あらゆる貪りの路を超え、自ら制し、安らぎに帰し、こころが安立しているならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
371 信念あり、学識ある賢者が、究極の境地に至る定まった道を見、諸々の仲間の間にありながら仲間に盲従せず、貪欲と嫌悪と憤怒とを慎しむならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
372 清らかな行いによって煩悩にうち克った勝者であり、覆いを除き、諸々の事物を支配し、彼岸に達し、妄執の動きがなくなって、生存を構成する諸要素を滅ぼす認識を立派に完成するならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
373 過去及び未来のものに関して(妄りなる)計らいを超え、極めて清らかな智慧あり、あらゆる変化的生存の領域から解脱しているならば、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。
374 究極の境地を知り、理法をさとり、煩悩の汚れを断ずることを明らかに見て、あらゆる〔生存を構成する要素〕を滅しつくすが故に、彼は正しく世の中を遍歴するであろう。」
375 「尊いお方(ブッダ)さま。まことにこれはそのとおりです。このように生活し、自ら制する修行者は、あらゆる束縛を超えているのです。彼は正しく世の中を遍歴するでしょう。」
【14、ダンミカ】
私が聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、〔孤独な人々に食を給する長者の園〕におられた。その時ダンミカという在俗信者が五百人の在俗信者と共に師のおられる処に近づいた。そして師に挨拶し、かたわらに坐った。そこで在俗信者ダンミカは師に向かって詩を以て呼びかけた。
376 「智慧豊かなゴータマ(ブッダ)さま。私はあなたにお尋ねしますが、教えを聞く人は、家から出て出家する人であろうと、また在家の信者であろうと、どのように行うのが善いのですか?
377 実にあなたは神々とこの世の人々の帰趣と究極の目的とを知っておられます。奥深いことがらを見る方で、あなたに比ぶ人はいません。世人はあなたを、優れた目ざめた人(ブッダ)
だと呼んでいます。
378 あなたはすっかり証りおわって、生けるものどもをあわれんで、智識と理法を説かれます。普く見る人よ。あなたは世の覆いを開き、汚れなくして、ひろく全世界に輝きたもう。
379 エーラーヴァナと名づける象王は、あなたが勝利者(ブッダ)であると聞いたので、あなたのもとに来ましたる彼もまたあなたと相談して、(あなたの話を)聞いて、『いいなあ』といって、喜んで去りました。
380毘沙門天王であるクヴェーラも、また教えを請おうとして、あなたに近づいてきました。賢者よ。彼に尋ねられたときにも、あなたは話をなさいました。彼もまた(あなたの話を)聞いて、喜んだ姿を示しました。
381 アージーヴィカ教徒であろうとも、ジャイナ教徒であろうとも、論争を習いとするこれらのいかなる異説の徒でも、全て、智慧であなたを超えることはできません。立ったままでいる人が急いで走ってゆく人を追い越すことができないよえなものです。
382 論争を習いとするいかなるバラモンでも、老年であろうとも、或いは(中年、あるしは青年の)バラモンであろうとも、またその他『われこそは論客である』と自負している人々でも、全てあなたから〔ためになることがら〕を得ようと望んでいるのです。
383 先生! あなたが見事に説きたもうたこの教えは幽微であり、また楽しいものです。あなたにお尋ねしますが、どうぞわれらにお説き下さい。最高の〔目ざめた方〕(ブッダ)よ。
384 これらの出家修行者たち、並びに在俗信者たちは、全て、(目ざめた人の教えを)聞こうとして、ここに集まってきたのです。けがれなき人(目ざめた人)がさとり、見事に説いた理法を聞け。──神々がインドラ神の言葉を聞くように。」
385 (師は答えた)、「修行者たちよ、われに聞け。煩悩を除き去る修行法を汝らに説いて聞かせよう。汝ら全てはそれを持て。目的をめざす思慮ある人は、出家にふさわしいそのふるまいを習い行え。
386 修行者は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くな、執著に縛られるからである。それ故に諸々の(目ざめた人々)は時ならぬのに出て歩くことはない。
387 諸々の色かたち・音声・味・香り・触れられるものは、ひとびとをすっかり酔わせるものである。これらのものに対する欲望を慎んで、定められたときに、朝食を得るために(村に)入れよ。
388 そうして修行僧は、定められたときに施しの食物を得たならば、ひとり退いて、ひそかに坐れよ。自己を制して、内に顧みて思い、こころを外に放ってはならぬ。
389 もしも彼が、教えを聞く人、或るは他の修行者と共に語る場合があるならば、その人にすぐれた真理を示してやれ。かんげぐちや他の誹謗する言葉を発してはならぬ。
390 実に或る人々は(誹謗の)言葉に反発する。彼等は浅はかな小賢しい人々をわれは称賛しない。(論争の)執著があちこちから生じて、彼等を束縛し、彼等はそこでおのが心を遠くへ放ってしまう。
391 智慧のすぐれた人(ブッダ)の弟子は、幸せな人(ブッダ)
の説きたもうた法を聞いて、食物と住所と臥具と大衣の塵を洗い去るための水とを、よく気を付けて用いよ。
392 それ故に、食物と住所と臥具と大衣の塵を洗い去るための水、──これらのものに対して、修行者は執著して汚れることがない。──蓮の葉に宿る水滴[が汚されない]ようなものである。
393 次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。このように実行する人し善い〔教えを聞く人〕(仏弟子)である。純然たる出家修行者に関する規定は、所有のわずらいある人(在家者)がこれを達成するのは実に容易ではない。
394 生きものを(自ら)殺してはならぬ。また(他人をして)殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、全ての生きものに対する暴力を抑えて──。
395 次に教えを聞く人は、与えられていないものは、何ものであっても、またどこにあっても、知ってこれを取ることを避けよ。また(他人をして)取らせることなく、(他人が)取りさるのを認めるな。なんでも与えられていないものを取ってはならぬ。
396 ものごとの解った人は婬行を回避せよ。──
燃えさかる炭火の坑を回避するように。
もし不婬を修することができなければ、
(少なくとも)他人の妻を犯してはならぬ。
397 会堂にいても、団体のうちにいても、
何人も他人に向かって偽りを言ってはならぬ。
また他人をして偽りを言わせてもならぬ。
また他人が偽りを語るのを容認してはならぬ。
全て虚偽を語ることを避けよ。
398 また飲酒を行ってはならぬ。
この(不飲酒の)教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。──
これは終に人を狂酔せしめるものであると知って──。
399 けだし諸々の愚者は酔いのために悪事を行い、
また他人の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。
この禍いの起るもとを回避せよ。
それは愚人の愛好するところであるが、しかしひちを狂酔せしめ迷わせるものである。
400 (1)生きものを害してはならぬ。(2)与えられないものを取ってはならぬ。(3)嘘をついてはならぬ。(4)酒を飲んではならぬ。(5)婬事たる不浄の行いをやめよ。(6)夜に時ならぬ食事をしてはならぬ。
401 (7)花かざりを着けてはならぬ。芳香を用いてはならぬ。(8)地上に床を敷いて伏すべし。これこそ実に八っの項目より成るウポーサタ(斎戒)であるという。
苦しみを修滅せしめるブッダが宣示したもうたものである。
402 そうしてそれぞれ半月の第八日、第十四日、第十五日にウポーサタを修せよ。八つの項目より成る完全なウポーサタを、きよく澄んだ心で行え。また特別の月においてもまた同じ。
403 ウポーサタを行なった〔ものごとの解った人〕は次に、きよく澄んだ心で喜びながら、翌朝早く食物とを適宜に修行僧の集いにわかち与えよ。
404 正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、(死後に)〔自ら光を放つ〕という名の神々のもとに赴く。」
〔小なる章〕第二おわる
この章のまとめの句
宝となまぐさと、恥と、こよなき幸せと、スーチローマと理法にかなった行いと、バラモンにふさわしいことと、船の経と、いかなる戒めを、と、精励と、ラーフラと、ヴァンギーサと正しい遍歴と、さらにダンミカと──
これらの十四の経が「小なる章」と言われる。
第三 大いなる章
【1、出 家】
405 眼ある人(釈尊)はいかにして出家したのであるか、彼はどのように考えたのちに、出家を喜んだのであるか、彼の出家をわれは述べよう。
406 「この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)」と見て、出家されたのである。
407 出家されたのちには、身による悪行をはなれた。言葉による悪行をも捨てて、生活をすっかり清められた。
408 目ざめた人(ブッダ)はマガダ国の(首都)・山に囲まれた王舎城に行った。すぐれた相好にみちた(目ざめた)人は托鉢のためにそこへ赴いたのである。
409 (マガダ王)ビンビサーラは高殿の上に進み出て、彼を見た。すぐれた相好にみちた(目ざめた)人を見て、(侍臣に)このことを語った。
410 「汝ら、この人をみよ。美しく、大きく、清らかで、行いも具わり、眼の前を見るだけである。
411 彼は眼を下に向けて気を付けている。この人は賤しい家の出身ではないようだ。王の使者どもよ、走り追え。この修行者はどこへ行くのだろう。」
412 派遣された王の使者どもは、彼のあとを追って行った。──「この修行者はどこへ行くのだろう。彼はどこに住んでいるのだろう」と。
413 彼は、諸々の感官を制し、よくまもり、正しく自覚し、気をつけながら、家ごとに食を乞うて、その鉢を速やかにみたした。
414 聖者は托鉢を終えて、その都市の外に出て、パンダヴァ山に赴いた。──彼はそこに住んでいるのであろう。
415 [ゴータマ(ブッダ)が自ら]住所に近づいたのを見て、そこで諸々の使者は彼に近づいた。そうして一人の使者は(王城に)もどって、王に報告した、──
416 「大王さま。この修行者はパンダヴァ山の山窟の中に、また獅子のように座しています」と。
417 使者の言葉を聞き終るや、そのクシャトリヤ(ビンビサーラ王)は荘厳な車に乗って、急いでパンダヴァ山に赴いた。
418 かのクシャトリヤ(王)は、車に乗って行ける処まで車を駆り、車から下りて、徒歩で赴いて、彼に近づいて坐した。
419 王は坐して、それから挨拶の言葉を喜び交わした。挨拶の言葉を交わしたあとで、このことを語った。──
420 「あなたは若く青春に富み、人生の初めにある若者です。容姿も端麗で、生れ貴いクシャトリヤ(王族)のようだ。
421 象の群を先頭とする精鋭な軍隊を整えて、私はあなたに財を与えよう。それを享受なさい。私はあなたの生れを問う。これを告げなさい。」
422 (釈尊がいった)、「王さま。あちらの雪山(ヒマーラヤ)の側に、一つの正直な民族がいます。昔からコーサラ国の住民であり、富と勇気を具えています。
423 姓に関しては〔太陽の裔〕といい、種族に関しては〔シャカ族〕(釈迦族)といいます。王さまよ。私はその家から出家したのです。欲望をかなえるためではありません。
424 諸々の欲望に憂いがあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。私の心はこれを楽しんでいるのです。」
【2、つとめはげむこと】
425 ネーランジャラー河の畔にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していた私に、
426 (悪魔)ナムチはいたわりの言葉を発しつつ近づいてきて、言った、あなたは痩せてして、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。
427 あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。君よ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をもなすこともできるのだ。
428 あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火にに供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。
429 つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい」・・・・
430 かの悪魔がこのように語ったときに、尊師(ブッダ)は次のように告げた。
──「怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、
431 私はその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。
432 私には信念があり、努力があり、また知慧がある。このように専心している私に、汝はどうして生命をたもつことを尋ねるのか?
433 (はげみから起る)この風は、河水の流れも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。
434 (身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉が落ちると、心はますます澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心とはますます安立するに至る。
435 私はこのように安住し、最大の苦痛をうけているのであるから、わが心は諸々の欲望にひかれることがない。見よ、心身の清らかなことを。
436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢餓であり、第四の軍隊は妄執といわれる。
437 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、
438 誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己を褒め称えて他人を軽蔑することである。
439 ナムチよ、これは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。勇者でなければ、彼にうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。
440 この私がムンジャ草を取り去るだろうか? (敵に降参してしまうだろうか?)この場合、命はどうでもよい。私は、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。
441 或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。
442 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、私は立ち迎えて彼等と戦おう。私をこの場所から退けることなかれ。
443 神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、私は智慧の力で汝の軍勢をうち破る。──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。
444 自ら思いを制し、よく念い(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。
445 彼等は、無欲となった私の教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。そこに行けば憂えることのない境地に、彼は赴くであろう。」
446 (悪魔はいった)、
「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気を付けている正覚者には、には、つけこむ隙をみつけることができなかった。
447 烏が脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって『ここに柔かいものが見つかるだろうか? 味のよいものがあるだろうか?』といって飛び廻ったようなものである。
448 そこに美味が見つからなかったので、烏はそこから飛び去った。岩石ら近づいたその烏のように、われらは厭いてゴータマ(ブッダ)を捨て去る。」
449 悲しみにうちしおれた悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた。ついで、かの夜叉は意気しょう沈してそこに消え失せた。
【3、みごとに説かれたこと】
私が聞いたところによると、──或るとき尊き師ブッダはサーヴァッティー市のジェータ林、〔孤独な人々に食を給する長者の園〕におられた。その時師は諸々の〔道の人〕に呼びかけられた、「修行僧たちよ」と。「尊き師よ」と、〔道の人〕たちは師に答えた。師は告げていわれた、「修行僧たちよ。四つの特徴を具えた言葉は、みごとに説かれたのである。悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。その四つとは何であるか? 道の人たちよ、ここで修行僧が、[T]みごとに説かれた言葉のみを語り、悪しく説かれた言葉を語らず、[U]理法のみを語って理にかなわぬことを語らず、[V]好ましいことのみを語って、好ましからぬことを語らず、[W]真理のみを語って、虚妄を語らないならば、この四つの特徴を具えている言葉は、みごとに説かれたのであって、悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。」尊き師はこのことを告げた。そのあとでまた、〔幸せな人〕である師は、次のことを説いた。
450 立派な人々は説いた──[T]最上の善い言葉を語れ。(これが第一である。)[U]正しい理を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。[V]好ましい言葉を語れ。好ましからぬ言葉を語るな。これが第三である。[W]真実を語れ。偽りを語るな。これが第4である。
その時ヴァンギーサ長老は座から起ち上がって、衣を一つの肩にかけ(右肩をあらわして)、師(ブッダ)のおられる方に合掌して、師に告げていった、「ふと思い出すことがあります! 幸せな方よ」と。「思い出せ、ヴァンギーサよ」と、師は言われた。そこでヴァンギーサ長老は師の面前で、ふさわしい詩を以て師をほめ称えた。
451 自分を苦しめず、また他人を害しない言葉のみを語れ。これこそ実に善く説かれた言葉なのである。
452 好ましい言葉のみを語れ。その言葉は人々に歓び迎えられる言葉である。感じの悪い言葉を避けて、他人の気に入る言葉のみを語るのである。
453 真実は実に不滅の言葉である。これは永遠の理法である。立派な人々は、真実の上えに、ためになることの上に、また理法の上に安立しているといわれる。
454 安らぎに達するために、苦しみを終減させるために、仏の説きたもうおだやかな言葉は、実に諸々の言葉のうちで最上のものである。
【4、スタンダリカ・バーラドヴァージャ】
私が聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)はコーサラ国のスンダリカー河の岸に滞在しておらめれた。ちょうどその時に、バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、スンダリカー河の岸辺で聖火をまつり、火の祀りを行なった。さてバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、聖火をまつり、火の祀りを行なったあとで、座から立ち、普く四方を眺めていった、──「この供物のおさがりを誰にたべさせようか。」
バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、遠からぬ処で尊き師(ブッダ)が或る樹の根もとで頭まで衣をまとって坐っているのを見た。見おわってから、左手で供物のおさがりをもち、右手で水瓶をもって師のおられる処に近づいた。そこで師は彼の足音を聞いて、頭の覆いをとり去った。その時バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは「この方は頭を剃っておられる。この剃髪者である」といって、そこから戻ろうとした。そうして彼はこのように思った、「この世では、或るバラモンたとは、頭を剃っているということもある。さあ、私は彼に近づいてその生れ(素姓)を聞いてみよう」と。
そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは師のおられる処に近づいた。それから師にいった、「あなたの生まれは何ですか?」と
そこで師は、バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャに詩を以て呼びかけた。
455 「私はバラモンではないし、王族の者でもない。私はヴァイシヤ族(庶民)の者でもないし、また他の何ものでもない。
456 私は家なく、重衣を着け、髭髪(ひげかみ)を剃り、こころを安らかならしめて、この世で人々に汚されることなく、歩んでいる。
バラモンよ。あなたが私に姓をたずねるのは適当でない。」
457 「バラモンはバラモンと出会ったときは、『あなたはバラモンではあられませんか?』とたずねるものです。」
「もしもあなたが自らバラモンであるというならば、バラモンでない私に答えなさい。私は、あなたに三句二十四字より成るかのサーヴィトリー讃歌のことをたずねます。」
458 「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」
(師が答えた)、「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、と私は説く。」
459 バラモンがいった、「私はヴェーダの達人であるこのような立派な方にお目にかかったのですから、実にその方に対する(私の)献供はきっと効果があるでしょう。(以前には)あなたのような方にお目にかからなかったので、他の人が献供の菓子(のおさがり)を食べていたのです。」
460 (師が答えた)、「それ故に、バラモンよ、あなたは求める処あってきたのであるから、こちらに近づいて問え。恐らくここに、平安で、(怒りの)煙の消えた、苦しみなく、欲求のない聡明な人を見出すであろう。」
461 (バラモンがいった)、「ゴータマ(ブッダ) さま。私は祭祀を楽しんでいるのです。祭祀を行おうと望むのです。しかし私ははっきりとは知っていません。あなたは私に教えて下さい。何にささげた献供が有効であるかを言って下さい。」
(師が答えた)、「では、バラモンよ、よく聞きなさい。私はあなたに理法を説きましょう。
462 生れを問うことなかれ。行いを問え。火は実にあらゆる薪から生ずる。賤しい家に生まれた人でも、聖者として道心堅固であり、恥を知って慎むならば高貴のの人となる。
463 真実もて自ら制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らか行いを修めた人、──そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
464 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よく自ら慎んで、梭のよえに真直ぐな人々、──そのような人々にそこ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
465 貪欲を離れ、諸々の感官を静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われることのない)人々──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
466 執著することなくして、常に心をとどめ、我が物と執したものを(全て)捨て去って、世の中を歩き廻る人々、──そのよえな人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
467 諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子わ受けるにふさわしい。
468 全き人(如来)は、平等なるもの(過去の目ざめた人々、諸仏)と等しくして、平等ならざる者どもから遙かに遠ざかっている。彼は無限の智慧あり、この世でもかの世でも汚れに染まることがない。〔全き人〕(如来)はお供えの菓子を受けるにふさわしい。
469 偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、我が物として執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
470 こころの執著を既に断って、何らとらわれる処がなく、この世についてもかの世についてもとらわれることがない〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
471 こころをひとしく静かにして激流をわたり、最上の知見によって理法を知り、煩悩の汚れを滅しつくして、最後の身体をたもっている〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
472 彼は、生存の汚れも、荒々しい言葉も、除き去られ滅びてしまって、存在しない。彼はヴェーダに通じた人であり、あらゆることがらに関して解脱している〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
473 執著を超えていて、執著をもたず、慢心に囚われている者どものうちにあって慢心にとらわれることなく、畑及び地所(苦しみの起る因縁)と共に苦しみを知りつくしている〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
474 欲望にもとづくことなく、遠ざかり離れることを見、他人の教える異なった見解を超越して、何らこだわってとらわれることのない〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
475 あれこれ一切の事物をさとって、それらが除き去られ滅びてしまって存在しないで、へいう平安に帰し、執著を滅ぼしつくして解脱している〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
476 煩悩の束縛と迷いの生存への生れかわりとが滅び去った究極の境地を見、愛欲の道を断って余す処なく、清らかにして、過ちなく、汚れなく、透明である〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
477 自己によって自己を観じ(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、自ら安立し、動揺することなく、疑惑のない(全き人)(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。
478 迷妄に基づいて起る障りは何ら存在せず、あらゆることがらについて智見あり、最後の身体をたもち、めでたい無上のさとりを得、──これだけでも人の霊(タマシイ)は清らかとなる。──(全き人)(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。」
479 「あなたのようなヴェーダの達人にお会いできたのですから、わが供物は真実の供物であれかし。梵天こそ証人としてみそなわせ。先生! ねがわくは私から受けて下さい。先生! ねがわくはわがお供えの菓子を召し上がって下さい。」
480 「詩を唱えて得たものを、私は食うてはならない。バラモンよ、これは正しく見る人々(目ざめた人々、諸仏)のなすきまりではない。詩を唱えて得たものを目ざめた人々(諸仏)は斥けたもう。バラモンよ。このきまりが存するのであるから、これが(目ざめた人々、諸仏の)行いの仕方(実践法)である。
481 全き者である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪行による悔恨の消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者(福)田であるからである。」
482 「先生! 私のような者の施しを受け得る人、祭祀の時に探し求めて供養すべき人、を私は──あなたの教えを受けて──どうか知りたいのです。」
483 「争いを離れ、心に濁りなく、諸々の欲望を離脱し、ものうさ(無気力)を除き去った人、
484 限界を超えたもの(煩悩)を制し、生死を究め、聖者の特性を身に具えたそのような聖者が祭祀のために来たとき、
485 彼に対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌して彼を礼拝せよ。飲食物をささげて、彼を供養せよ。このような施しは、成就して果報をもたらす。」
486 「目ざめた人(ブッダ)であるあなたさまは、お供えの菓子を受けるにふさわしい。あなたは最上の福田であり、全世界の布施を受ける人であります。あなたにさし上げた物は、果報が大きいです。」
そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、尊き師にいった、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです、ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方向に迷った者に道を示すように、或いは『眼ある人々は色や形を見るであろう』といって暗闇の中に灯火を掲げるように、ゴータマさまは種々の仕方で理法を明らかにされました。だから、私はゴータマさまに帰依したてまつる。また法と修行僧のつどい帰依したてまつる。私はゴータマさまのもとで出家し、完全な戒律(具足戒)を受けたいものです。」
そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、師のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、このスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは独りで他から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、無上の清らかな行いの究極──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──を現世において自らさとり、証し、具現して、日を送った。「生まれることは尽きた。清らかな行いは既に完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そうしてスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは聖者の一人となった。
【5、マーガ】
私が聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ) は、王舎城の〔鷲の峰〕という山におられた。その時マーガ青年は師のおられる処に赴いた。そこに赴いて師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶の言葉を交したのち、彼等は傍らに坐した。そこでマーガ青年は師に言った、──
「ゴータマ(ブッダ)さま。私は実に、与える人、施主であり、寛仁にして、他人からの施しの求めに応じ、正しい法によって財を求めます。そのあとで、正しい法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、二人にも与え、三人にも与え、四人にも与え、五人にも与え、六人にも与え、七人にも与え、八人にも与え、九人にも与え、十人にも与え、二十人にも与え、三十人にも与え、四十人にも与え、五十人にも与え、百人にも与え、さらに多くの人にも与えます。ゴータマさま。私がこのように与え、このようにささげるならば、多くの福徳を生ずるでしょうか。」
「青年よ。実にあなたはそのように与え、そのようにささげるならば、、多くの福徳を生ずる。誰であろうとも、実に、与える人、施主であり、寛仁にして、施しの求めに応じ、正しい法によって財わ求め、そのあとで、法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、さらにつづいては百人にも与え、さらに多くの人にも与える人は、多くの福徳を生ずるのである。」
487 マーガ青年がいった、「袈裟を着け家なくして歩む寛仁なるゴータマさまに、私はお尋ねします。この世で、施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をめざして供物をささげ、他人に飲食物を与える人が、祀りを実行するときには、何者にささげた供物が清らかとなるのでしょうか。」
488 尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳を求め福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受けるにふさわしい人々と共に目的を達成することになるであろう。」
489 マーガ青年はいった、「施しの求めに応ずる在家の施主、福徳を求め福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるに当って、〔まさに施与を受けるにふさわしい人々〕のことを私に説いて下さい。先生!」
490 実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した〔全き人〕がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささけよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
491 一切の結び・縛めを断ち、自ら慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささけよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
492 一切の結び・縛めから解き放たれ、自ら慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
493 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを減しつくし、清らかな行いを修めている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
494 偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、我が物として執することなく、欲望をもたぬ人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
495 実に諸々の愛執に耽らず、既に激流をわたりおわって、我が物という執著なしに歩む人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
496 この世でもかの世でも、いかなる世界についても、移りかわる生存への妄執の存在しない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
497 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よく自ら制して、梭のように真直ぐな人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
498 欲望を離れ、諸々の感官をよく静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われることのない)人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
499 安らぎに帰して、貪欲を離れ、怒ることなく、この世で(生存の諸要素を)捨て去ってもはや(迷いの生存)に行く道のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
500 生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
501 自己を洲(拠り所)として世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解脱している人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
502 『これは(私の)最後の生存であり、もはや再び生を享けることはない』ということを、この世で如実にしっている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
503 ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ、落ち着いて気を着けていて、全きさとりに達し、多くの人々に帰依されている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
504 (マーガがいった)、「実に私の質問はむだではありませんでした。尊き師は、まさに施与を受けるにふさわしい人々のことを、私に説いて下さいました。先生! あなたはこの世で全てのことがらを如実にしっておられます。あなたはこの理法を知っておられるからです。」
505 マーガ青年が(さらにつづけて)いった、「この世で施しの求めに応ずる在家の施主、福徳を求め福徳をめざして供物をささげる人が、他人に飲食を与えるに当って、どうしたならば祀りが成功成就するかということを私に説いて下さい。先生!」
506 尊き師(ブッダ)は答えた、「マーガよ。祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清らしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。彼はここに安立して邪悪を捨てる。
507 彼は貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起して、日夜つねに怠らず、無量の(慈しみの)心をあらゆる方角にみなぎらせる。」
508 (マーガがいった)、「誰が清らかとなり、解脱するのですか? 誰が縛せられるのですか? 何によってひとは自ら梵天界に至るのですか? 聖者よ、お尋ねしますが、私は知らないのですから、説いて下さい。尊き師は、私の〔あかし〕です。私は今梵天をまのあたり見たのです。真にあなたはわれわれにとっては梵天に等しいかただからです。光輝ある方よ。どうしたならば、梵天界に生まれるのでしょうか?」
509 尊き師は答えた、「マーガよ。三種の条件を具えた完全な祀りを実行するそのような人は、施与を受けるにふさわしい人々を喜ばせる。施しの求めに応ずる人が、このように正しく祀りを行うならば、梵天界に生まれる、と、私は説く。」
このように説かれたときに、マーガ青年は師にいった、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、或いは『眼ある人々は色や形を見るであろう』といって暗闇の中で灯火を掲げるように、ゴータマさま種々の仕方で真理を明らかにされました。だから、私はゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。ゴータマさまは私を在家信者として受け入れて下さい。今日から命の続く限り帰依いたします。」
【6、サビヤ】
私が聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)は王舎城の竹園林にある栗鼠飼養の所に住んでおられた。その時遍歴の行者サビヤに、昔の血縁者であるが(今は神となっている)一人の神が質問を発した、──「サビヤよ。〔道の人〕であろうとも、バラモンであろうとも、汝が質問したときに明確に答えることのできる人がいるならば、汝はその人のもとで清らかな行いを修めなさい」と。そこで遍歴の行者サビヤは、その神からそれらの質問を受けて、次の[六師]のもとに至って質問を発した。すなわちプーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリ、パクダ・カッチャーヤナ、ベッラーッティ族の子であるサンジャヤ、ナータ族の子であるニガタとであるが、彼は〔道の人〕或いはバラモンであり、衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められていた。
[しかるに]彼等は、遍歴の行者サビヤに質問されても、満足に答えることができなかった。そうして、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわしたのみならず、かえって遍歴の行者サビヤに反問した。そこで遍歴の行者サビヤはこのように考えた、「これらの〔道の人〕またはバラモンであられる方々は衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。彼等、すなわちプーラナ・カッサパからさらについにナータ族の子であるニガンタに至るまで人々は、私に質問されても、満足に答えることが出来なかった。満足に答えることができないで、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわにしたのみならず、私に反問した。さあ、私は低く劣った状態(在俗の状態)に戻って諸々の欲望を享楽することにしょう」と。
その時遍歴の行者サビヤはまたこのように考えた、「ここにおられる〔道の人〕ゴータマもまた衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。さあ、私は〔道の人〕ゴータマに近づいて、これらの質問を発することにしよう」と。
さらに遍歴の行者であるサビヤは次のように考えた、「ここにおられる〔道の人〕・バラモンがたは、年老いて、年長け、老いぼれて、年を重ね、老齢に達しているが、長老であり、経験を積み、出家してから既に久しく、衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。すなわちプーラナ・カッサパからさらにナータ族の子ニガンダに至るまでの人々であるが、彼等はね私に質問それても、満足に答えることができなかった。満足に答えられないで、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわしたのみならず、かえってそこで私に反問した。〔道の人〕ゴータマは私の発したこれらの質問に明確に答え得るであろうか。〔道の人〕ゴータマは生年も若いし、出家したのも新しいことだからである」と。
次いで遍歴の行者サビヤはこのように考えた、「〔道の人〕は若いからといって侮ってはならない。軽蔑してはならない。たとい彼が若い〔道の人〕であっても、彼は大神通があり、大威力がある。さあ、私は〔道の人〕ゴータマのもとに赴いて、この質問を発してみよう」と。
そこで遍歴の行者サビヤは王舎城に向かって順次に歩みを進め、王舎城の竹園林にある栗鼠飼養所におられる尊き師(ブッダ)のもとに赴いた。そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶の言葉を交わしたのち、彼は傍らに坐した。それから遍歴の行者サビヤは師に詩を以て呼びかけた。──
510 サビヤがいった、「疑いがあり、惑いがあるので、私は質問しょうと願って、ここに来ました。私のためにそれを解決して下さい。私が質問したならば、順次に、適切に、明確に答えて下さい。」
511 師は答えた、「サビヤよ。あなたは質問しようと願って、遠くからやって来ましたね。あなたのために、それを解決してあげましょう。あなたが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えましょう。
512 サビヤよ。何でも心の中で思っていることを、私に質問なさい。私は一つ一つ質問を解決してあげましょう。」
その時遍歴の行者であるサビヤはこのように考えた、「まことにすばらしいことだ。まことに珍しいことだ、──私が他の〔道の人〕たち、バラモンたちの処では機会さえも得られなかったのに、道の人ゴータマがこの機会を与えてくれた」と。彼は、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、師に質問した。
513 サビヤがいった、「〔修行僧〕とは何ものを得た人のことをいうのですか? 何によって〔温和な人〕となるのですか? どのようにしたならば、〔自己を制した人〕と呼ばれるのですか? どうして〔目ざめた人〕(ブッダ)と呼ばれるのですか? 先生! おたずねしますが、私に説明して下さい。」
514 師は答えた、「サビヤよ。自ら道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人、──彼が〔修行僧〕である。
515 あらゆることがらに関して平静であり、こころを落ち着け、全世界のうちで何ものをも害うことなく、流れをわたり、濁りなく、情欲の昂まり増すことのない〔道の人〕、──彼は〔温和な人〕である。
516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──彼は(自己を制した人)である。
517 あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、──彼を(目ざめた人)(ブッダ)という」
そこで、遍歴の行者であるサビヤは、師の説かれたことをよろこび、随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。
518 サビヤがいった、「何を得た人を〔バラモン〕と呼ぶのですか? 何によって〔道の人〕と呼ぶのですか? どうして〔沐浴をすませた者〕と呼ぶのですか? どうして〔竜〕と呼ぶのですか? 先生! おたずねしますが、私に説明して下さい。」
519 師が答えた、「サビヤよ。一切の悪を斥け、汚れなく、よく心をしずめ持って、自ら安立し、輪廻を超えて完全な者となり、こだわることのない人、──このような人は〔バラモン〕と呼ばれる。
520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、──このような人がきさにその故に〔道の人〕と呼ばれる。
521 全世界のうちで内面的にも外面的にも一切の罪悪を洗い落とし、時間に支配される神々と人間とのうちにありながら妄想分別におもむかない人、──彼を(沐浴をすませた者)と呼ぶ。
522 世間のうちにあっていかなる罪悪をもつくらず、一切の結び目・束縛を捨て去り、いかなることにもとらわれることなく解脱している人、──このような人はまさにその故に〔竜〕とよばける。」
そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。
523 サビヤがいった、「諸々の目ざめた人(ブッダ)は誰を〔田の勝者〕と呼ぶのですか? 何によって巧みなのですか? どうして〔賢者〕なのですか? どうして〔聖者〕と呼ばれるのですか? 先生! おたずねしますが、私に説明して下さい。」
524 師が答えた、「サビヤよ。天の田・梵天の田という一切の田を弁別して、一切の田の根本の束縛から離脱した人、──このような人がまさにその故に〔田の勝者〕と呼ばれるのである。
525 天の蔵・人の蔵・梵天の蔵なる一切の蔵を弁別して、一切の蔵の根本の束縛から離脱した人、──このような人がまさにその故に(巧みな人)とよばれるのである。
526 内面的にも外面的にも二つながらの白く浄らかなものを弁別して、清らかな知慧あり、黒と白(善悪業)を超越した人はまさにその故に(賢者)と呼ばれる。
527 全世界のうちで内面的にも外面的にも生邪の道理を知っていて、人間と神々の崇敬を受け、執著の網を超えた人、──彼は〔聖者〕である。」
そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。
528 サビヤがいった、「何を得た人を〔ヴェーダの達人〕とよぶのですか? 何によって〔知りつくした人〕となるのですか? いかにして〔勤め励む者〕となるのですか? 〔育ちの良い人〕とはそもそも何ですか? 先生! おたずねしますが、どうか私に説明して下さい。」
529 師が答えた、「サビヤよ、道の人ならびにバラモンどもの有する全てのヴェーダを弁別して、一切の感受したものに対する貪りを離れ、一切の感受を超えている人、←彼は〔ヴェーダの達人〕である。
530 内的には差別的〔妄想とそれにもとづく名称と形態〕とを究め知って、また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に〔知りつくした人〕と呼ばれるのである。
531 この世で一切の罪悪を離れ、地獄の責苦を超えて努め励む者、精励する賢者、──そのような人が〔勤め励む者〕と呼ばれるのである。
532 内面的にも外面的にも執著の根源である諸々の束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に〔育ちの良い人〕と呼ばれるのである。」
そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。
533 サビヤがいった、「何を得た人を〔学識ある人〕と呼ぶのですか? 何によって〔すぐれた人〕となるのですか? またいかにして〔行いの具わった人〕となるのですか? 〔遍歴行者〕とはそもそも何ですか? 先生! おたずねしますが、私に説明して下さい。」
534 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のないありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、〔学識のある人〕と呼ぶ。
535 諸々の汚れと執著の拠り所を断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、──彼を〔すぐれた人〕と呼ぶ。
536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──彼は〔行いの具わった人〕である。
537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと〔名称と形態〕(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──彼を〔遍歴の行者〕と呼ぶ。」
そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、座から起ち上って、上衣を一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌して、ふさわしい詩を以て目のあたり師を讃嘆した。
538 「智慧豊かな方よ。諸々の〔道の人〕の論争にとらわれた、名称と文字と表象とに基づいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたのたもうた。
539 あなたは苦しみを滅ぼし、彼岸に達せられた方です。あなたは真の人(拝まれる人)です。あなたは完全にさとりを開かれた方です。あなたは煩悩の汚れを滅ぼされた方だと思います。あなたは光輝あり、理解あり、智慧豊かな方です。苦しみを滅ぼした方よ。あなたは私を救って下さいました。
540 あなたは私に疑惑のあるのを知って、私の疑いをはらして下さいました。私はあなたに敬礼します。聖者の道の奥をきわめた人よ。心に荒みなき、太陽の末裔よ。あなたはやさしい方です。
541 私が昔抱いていた疑問をあなたははっきりと説き明して下さいました。眼ある方よ。聖者よ。まことにあなたは〔さとりを開いた人〕です。あなたは、妨げの覆いがありません。
542 あなたの悩み悶えは、全て破られ断たれています。あなたは清涼となり、身を制し、堅固で、誠実に行動する方です。
543 象の中の象王であり偉大な英雄であるあなたが説くときには、全て神々は、ナーラダ、パッバタの両[神群]と共に随喜します。
544 尊い方よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。神々を含めた全世界のうちで、あなたに比べられる人はおりません。
545 あなたは覚った人です。あなたは師です。あなたは悪魔の征服者です、賢者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、自ら[彼岸に]渡りおわり、またこの人々を渡すのです。
546 あなたは生存の要因を超越し、諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます、あなたは獅子です。何ものにもとらわれず、恐れおののきを捨てておられます。
547 麗しい百蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。サビヤは師を礼拝します。」
そこで、遍歴の行者サビヤは尊き師(ブッダ)の両足に頭をつけて礼して、言った、──「すばらしいことです、譬えば倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、或いは『眼ある人々は色や形を見るであろう』といって暗闇の中で灯火を掲げるように、ゴータマさま種々の仕方で真理を明らかにされました。ここで私はゴータマ(ブッダ)さまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。私は師のもとで出家したいのです。完全な戒律を受けたいのです。」
(師はいわれた)、「サビヤよ。かって異説の徒であった者が、この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、完全な戒律を受けようと望むならば、彼は四カ月の間別に住む。四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧は彼を出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせる。しかしこの場合は、人によって(期間の)差異のあることが認められる。」
「尊いお方さま。もしもかつて異説の徒であった者が、この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、完全な戒律を受けようと望むならば、彼は四カ月の間別に住み、四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧が彼を出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせるのであるならば、私は(四カ月ではなくて)、四年間別に住みましょう。そうして四年たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧は私を出家させて、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせて下さい。」
さて遍歴の行者サビヤは(直ちに)師のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、この長者サビヤは独りで他人から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、やがて無上の清らかな行いの究極──諸々の立派に人々はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──を現世において自らさとり、証し、具現して日を送った。
「生まれることは尽きた。清らかな行いは既に完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。
【7、セーラ】
私が聞いたところによると、──或るとき師は大勢の修行僧千二百五十人と共にアングッタラーパ[という地方]を遍歴して、アーバナと名づけるアングッタラーパの或る町に入られた。結髪の行者ケーニヤはこういうことを聞いた、「シャカ族の子である〔道の人〕ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、修行僧千二百五十人の大きなつどいと共に、アングッタラーパを遍歴して、アーバナに達した。そのゴータマさまには、次のような好い名声があとずれている。──すなわち、かの師は、真の人・さとりを開いた人・明知と行いを具えた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊い師であるといわれる。彼は、自らさとり、体得して、神々・悪魔・梵天を含むこの世界や〔道の人〕・バラモン・神々・人間を含む生けるものどもに教えを説く。
彼は、初めも善く、中ほども善く、終りも善く、意義も文字もよく具わっている教えを説き、完全円満で清らかな行いを説き明かす、と。ではそのような立派な尊敬さるべき人ら見えるのは幸せ、みごとな善いことだ。」
そこで結髪の行者ケーニヤは師のおられる処に赴いた。そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶の言葉を交わしたのち、彼は傍らに坐した結髪の行者ケーニヤに対して師は法に関する話を説いて、指導し、元気づけ、喜ばされた。結髪の行者ケーニヤは、師に法に関する話を説かれ、指導され、元気づけられ、喜ばされて、師にこのように言った、「ゴータマさまは修行僧の方々と共に、明日私のささげる食物をお受け下さい。」
そのように告げられて、師は結髪の行者ケーニヤに向かって言われた、「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」
結髪の行者ケーニヤは再び師に言った、「ゴータマさま。修行僧の方々は大勢で、千二百五十人もいるし、また私はバラモンがたを信奉していますが、しかしゴータマさまは修行僧の方々と共に、明日私のささげる食物をお受け下さい。」
師は結髪の行者ケーニヤに再び言われた、「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」
結髪の行者ケーニヤは三たび師に言った、「ゴータマさま。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいるし、また私はバラモンがたを信奉していますが、しかしゴータマさまは修行僧の方々と共に、明日私のささげる食物をお受け下さい。」師は沈黙によって承諾された。
そこで結髪の行者ケーニヤは、師が承諾されたのを知って、座から起って、自分の庵に赴いた。それから、友人・朋輩・近親・親族に告げていった、「友人・朋輩・近親・親族の皆さん。私の言葉をお聞きなさい。私は〔道の人〕ゴータマを修行僧の方々と共に、明日の食事に招待しました。だから皆さんは、身を動かして私に手伝って下さい。」
結髪の行者ケーニヤの友人・朋輩・近親・親族は、「承知しました」と、彼に答えて、或る者は竈の坑を掘り、或る者は薪を割り、或る者は器を洗い、或る者は水瓶を備えつけ、或る者は座席を設けた。また結髪の行者ケーニヤは自ら(白い帳を垂れた)円い集会場をしつらえた。
ところでその時セーラ・バラモンはアーバナに住んでいたが、彼は三ヴェーダの奥義に達し、語彙論・活用論・音韻論・語源論(第四のアタルヴァ・ヴェーダと)第五としての史詩に達し、語句と文法に通じ、順世論や偉人の観相に通達し、三百人の少年にヴェーダの聖句を教えていた。その時結髪の行者ケーニヤはセーラ・バラモンを信奉していた。
ときにセーラ・バラモンは三百人の少年に取り巻かれていたが、(長く坐っていたために生じた疲労を除くために)膝を伸ばす散歩をし、あちこち歩んでいたが、結髪の行者ケーニヤの庵に近づいた。そこでセーラ・バラモンは、ケーニヤの庵に属する結髪の行者たちが、或る者は竈の坑を掘り、或る者は薪を割り、或る者は器を洗い、或る者は水瓶を備えつけ、或る者は座席を設け、また結髪の行者ケーニヤは自ら円い集会場をしつらえているのを見た。見てから結髪の行者ケーニヤに問うた、「ケーニヤさんは息子の嫁取りがあるのでしょうか? 或いは息女の嫁入りがあるのでしょうか? 大きな祭祀が近く行われるのですか? 或いはマガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊と共に明日の食事に招待されたのですか?」
「セーラよ。私には息子の嫁取りがあるのでもなく、息女の嫁入りがあるのでもなく、マガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊と共に明日の食事に招かれているのでもありません。そうではなくて、私は近く大きな祭祀を行うことになっています。シャカ族の子・道の人ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、アングッタラーパ国を遊歩して、大勢の修行僧千二百五十人と共にアーバナに達しました。そのゴータマさまには次のような好い名声がおとずれている。──すなわち、かの師は、真の人・さとりを開いた人・明知と行いを具えた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊き師であるといわれる。私はあの方を修行僧らと共に明日の食事に招きました。」
「ケーニヤさん。あなたは彼を〔目ざめた人〕(ブッダ)と呼ぶのか?」
「セーラさん。私は彼を〔目ざめた人〕と呼びます。」
「ケーニヤさん。あなたは彼を〔目ざめた人〕と呼ぶのか?」
「セーラさん。私は彼を〔目ざめた人〕と呼びます。」
その時セーラ・バラモンは心に思った。「〔目ざめた人〕という語を聞くことは、世間においては難しいのである。ところでわれわれの聖典の中に偉人の相が三十二伝えられている。それを具えている偉人にはただ二つの途があるのみで、その他の途はありえない。[第一に]もしも彼が在家の生活を営むならば、彼は転輪王となり、正義を守る正義の王として四方を征服して、国土人民を安定させ、七宝を具有するに至る。すなわち彼は輪という宝・象という宝・馬という宝・珠という宝・資産者という宝・及び第七に指揮者という宝が現われるのである。また彼には千人以上の子があり、皆勇敢で雄々しく、外敵をうち砕く。彼は、四海の果てるに至るまで、この大地を武力によらず刀剣を用いずに、正義によって征服して支配する。[第二に]しかしながら、もしも彼が家から出て出家者となるならば、真の人・覚りを開いた人となり、世間における諸々の煩悩の覆いをとり除く」と。
「ケーニヤさん。では真の人・覚りを聞いた人であられるゴータマさまは、いまどこにおられるのですか?」
彼がこのように言ったときに、結髪の行者ケーニヤは、右腕を差し伸ばして、セーラ・バラモンに告げていった、「セーラさん。この方角に当って一帯の青い林があります。(そこにゴータマさまはおられるのです)。」
そこでセーラ・バラモンは三百人の少年と共に師のおられる処に赴いた。その時セーラ・バラモンはそれらの少年たちに告げていった、「君たちは(急がすに)小股に歩いて、響きを立てないで来なさい。諸々の尊き師は獅子のように独り歩む者であり、近づきがたいからです。そうして私が〔道の人〕ゴータマと話しているときに、君たちは途中で言葉を挿んではならない。君たちは私の話が終るのを待て。」
さてセーラ・バラモンは尊き師のおられる処に赴いた。そこで、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶の言葉を交わしたのち、彼は傍らに坐した。それから、セーラ・バラモンは師の身に三十二の〔偉人の相〕があるかどうかを探した。セーラ・バラモンは、師の身体に、ただ二つの相を除いて、三十二の偉人の相が殆んど具わっているのを見た。ただ二つの〔偉人の相〕に関しては、(それらがはたして師にあるかどうかを)彼は疑い惑い、(〔目ざめた人(ブッダ)〕)であるということを)信用せず、信仰しなかった。その二つとは体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相とである。
その時師は思った、「このセーラ・バラモンはわが身に三十二の偉人の相を殆んど見つけているが、ただ二つの相を見ていない。ただ体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相という二つの偉人の相に関しては、(それらがはたして私の身にあるかどうかを)彼は疑い惑い、(目ざめた人(ブッダ)であるということを)信用せず、信仰してしない」と。
そこで師は、セーラ・バラモンが師の体の膜の中におさめられた隠所を見得るような神通を示現した。次に師は舌を出し、舌で両耳孔を上下になめまわし、両耳孔を上下になめまわし、前の額を一面に舌で撫でた。
そこでセーラ・バラモンは思った、──「道の人ゴータマは三十二の偉人の相を完全に身に具えていて、不完全ではない。しかし私は、『彼がブッダであるか否か』ということをまだ知らない。ただ私は、年老い齢高く師またはその師であるバラモンたちが『諸々の〔尊敬さるべき人、完全な覚りを開いた人〕は、自分が讃嘆されるときには、自身を示現する』と語るのを聞いたことがある。さあ、私は、適当な詩を以て、〔道の人〕ゴータマ(ブッダ)をその面前において讃嘆しましょう」と。そこでセーラ・バラモンはふさわしい詩を以て尊き師をその面前において讃嘆した。──
548 「先生! あなたは身体が完全であり、よく輝き、生れも良く、見た目も美しい。黄金の色があり、歯は極めて白い。あなたは精力ある人です。
549 実に、生れの良い人の具えるすがた・形は、全て、偉人の相として、あなたの身体のうちにあります。
550 あなたは、眼が清らかに、容貌も美しく、(身体は)大きく、真っ直ぐで、光輝あり、〔道の人〕の群の中にあって、太陽のように輝いています。
551 あなたは見るも美しい修行者(比丘)で、その膚は黄金のようです。このように容色が優れているのに、どうして〔道の人〕となる必要がありましょうか。
552 あなたは転輪王(世界を支配する帝王)となって、戦車兵の主となり、四方を征服し、ジャンブ州(全インド)の支配者となるべきです。
553 クシャトリヤ(王侯たち)や地方の王どもは、あなたに忠誠を誓うでしょう。ゴータマ(ブッダ)よ。王の中の王としてね人類の帝王として、統治をなさって下さい。」
554 師(ブッダ)は答えた、「セーラよ。私は王ではありますが、無上の真理の王です。真理によって輪をまわすのです。──(だれも)反転しえない輪を。」
555 セーラ・バラモンがいった、「あなたは〔完全にさとった者〕であると、自ら称しておられます。ゴータマ(ブッダ)よ。あなたは『われは〔無上の真理の王〕であり、法によって輪をまわす』と説いておられます。
556 では、誰が、あなたの将軍なのですか? 師の相続者である弟子は、誰ですか? あなたがまわされたこの〔真理の輪〕を、誰が(あなたに)つづいてまわすのですか?」
557 師が答えた、「セーラよ。私がまわした輪、すなわち無上の〔真理の輪〕(法輪)を、サーリプッタがまわす。彼は〔全き人〕につづいて出現した人です。
558 私は、知らねばならぬことを既に知り、修むべきことを既に修め、断つべきことを既に断ってしまった。それ故に、私は〔さとった人〕(ブッダ)である。バラモンよ。
559 私に対する疑惑をなくせよ。バラモンよ。私を信ぜよ。諸々の〔さとりを開いた人〕に、しばしば見えることは、いとも難しい。
560 彼は(さとりを開いた人々)が、しばしば世に出現することは、そなたらにとって、いとも得がたいことであるが、私は、その〔さとった人〕なのである。バラモンよ、私は(煩悩の)矢を抜き去る最上の人である。
561 私は神聖な者であり、無比であり、悪魔の軍勢を撃破し、あらゆる敵を降服させて、何ものをも恐れることなしに喜ぶ。」
562 (セーラは弟子どもに告げていった)、──「君達よ。眼ある人の語るところを聞け。彼は(煩悩の)矢を断った人であり、偉大な健き人である。あたかも、獅子が林の中で吼えるようなものである。
563 神聖な者、無比なる者、悪魔の軍勢を撃破する者、を見ては、だれが信ずる心をいだかないであろうか。たとい、色の黒い種族の生れの者でも、(信ずるであろう)。
564 従おうと欲する者は、われにわれに従え。また従いたくない者は、去れ。私もすぐれた智慧ある人のもとで出家しましょう。」
565 (セーラの弟子どもが言った)、──「もしもこの〔完全にさとった人〕の教えを、 先生が喜ばれるのでしたら、私たちもまた、すぐれた智慧ある人のもとで、出家しましょう。」
566 (セーラは言った)、──「これら三百人のバラモンたちは、合掌してお願いしています。『先生! 私たちは、あなたのみもとで、清らかな行いを実践しましょう。』
567 師(ブッダ)が答えた──「セーラよ。清らかな行いが、みごとに説かれている。それは目のあたり、即時に果報をもたらす。怠りなく道を学ぶ人が、出家して(清らかな行いを修めるのは)空しくはない」
セーラ・バラモンは仲間と共に師のもとで出家して、完全な戒律を受けた。
ときに、結髪の行者ケーニヤは、その夜が過ぎてから、自分の庵で味のよい硬軟の食物を用意させて、師に時の来たことを告げて、「ゴータマ(ブッダ) さま。時間です。食事の用意ができました」と言った。そこで師は午前中に内衣を着け、重衣をきて、鉢を手にとって、結髪の行者ケーニヤの庵に赴いた。そうして、修行僧のつどいと共に、あらかじめ設けられた席についた。それから結髪の行者ケーニヤは、ブッダを初め修行僧らに、手ずから、味のよい硬軟の食物を給仕して、満足させ、あくまでもてなした。そこで結髪の行者ケーニヤは、師が食事を終り鉢から手を離したときに、自ら一つの低い座を占めて、傍らに坐した。そうして結髪の行者ケーニヤに、師は次の詩を以て、喜びの意を表した。──
568 火への供養は祭祀のうちで最上のものである。サーヴィトリー[讃歌]はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。
569 月は、諸々の星のうちで最上のものである。太陽は、輝くもののうちで最上のものである。修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとって最上のものである。
師はこれらの詩を唱えて結髪の行者ケーニヤに喜びの意を示して、座から起って、去って行かれた。
そこでセーラさんは、自分の仲間と共に、独りで他人から遠ざかり、怠ることなく、精励し専心していたが、まもなく──諸々の立派な人々がそれらを得るために正しく家を出て家なきに赴く目的であるところの──無上の清らかな行いの究極を現世において自らさとり、得し、具現していた。「(迷いの生存のうちに)生まれることは消滅した。清らかな行いは既に完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとったそしてセーラさんとその仲間とは、聖者の一人一人となった。
そののちセーラさんはその仲間と共に師のおられる処に赴いた。そうして、衣を一方の(左の)肩にかけて[右肩を洗わして]、師に向かって合掌し、次の詩を以て師に呼びかけた。──
570 「先生! 眼ある方よ。今から八日以前に、われらはあなたに帰依しましたが、七日のあいだに、われらはあなたの教えの中で身を整えました。
571 あなたは覚った方(ブッダ)です。あなたは師です。あなたは悪魔を征服した聖者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、自ら渡りおわり、またこの人々を渡して下さいます。
572 あなたは生存の素因を超越し、諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます。あなたは執著することのない獅子のようです。恐れおののきを捨てておられます。
573 これら三百人の修行僧は、合掌して立っています。健き人よ、足をお伸ばし下さい。諸々の竜(行者)をして師を拝ませましょう。」
【8、矢】
574 この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるかも解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。
575 生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生ある者どもの定めは、このとうりである。
576 熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。彼等にはつねに死の怖れがある。
577 たとえば、陶工のつくった土の器が終りには全て破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとうりである。
578 若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、全て死に屈服してしまう。全ての者は必ず死に至る。
579 彼等は死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず親族もその親族を救わない。
580 見よ。見まもっている親族がとめどもなく悲嘆にくれているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。
581 このように世間の人々は死と老いとによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。
582 汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両端を見きわめないで、わめいて、いたずらになき悲しむ。
583 迷妄に囚われて自己を害なっている人が、もしもなき悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。
584 泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただ彼にはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。
585 自ら自己を害いながら、身は痩せ醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。
586 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。
587 見よ。他の(生きている)人々はまた自分のつくった業にしたがって死んで行く。彼等生あるものどもは死に捕らえられて、この世で慄えおののいている。
588 ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊れて消え去るのは、このとうりである。世の成りゆくさまを見よ。
589 たとい人が百年生きようとも、或いはそれ以上生きようとも、終には親族の人々すら離れて、この世の生命を捨てるに至る。
590 だから(尊敬されるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「彼はもう私の力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。
591 たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように知慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起こったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。──譬えば風が綿を吹き払うように。
592 已が悲嘆と愛執と憂いとを除け。已が楽しみを求める人は、已が(煩悩の)矢を抜くべし。
593 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。
【9、ヴァーセッタ】
私が聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)はイッチャーナンガラ[村]のイッチャーナンガラ林に住んでおられた。その時、多くの著名な大富豪であるバラモンたちがイッチャーナンガラ村に住んでいた。すなわちチャンキンというバラモン、タールッカというバラモン、ポッカラサーティというバラモン、ジャーヌッソーニというバラモン、トーデーヤというバラモン及びその他の著名な大富豪であるバラモンたちであった。
その時ヴァーセッタとバーラドヴァーシャという二人の青年が(久しく坐していたために生じた疲労を除くために)膝を伸ばすためにそぞろ歩きをあちこちで行っていた。
彼等はたまたま次のような議論を始めた、「きみよ。どうしたらバラモンとなれるのですか?」
バーラドヴァーシャ青年は次のように言った。「きみよ。父かたについても母かたについても双方共に生れ(素姓)が良く、純粋な母胎に宿り、七世の祖先に至るまで血統に関しては未だかって爪弾きされたことなく、かって非難されたことがないならば、まさにこのことによってバラモンであるのである。」
ヴァーセッタ青年は次のように言った、「きみよ。ひとが戒律をまもり徳行を身に具えているならば、まさにこのことによってバラモンであるのである。」
[しかし]バーラドヴァーシャ青年はヴァーセッタ青年を説得することができなかったし、またヴァーセッタ青年はバーラドヴァーシャ青年を説得することができなかった。そこでヴァーセッタ青年はバーラドヴァーシャ青年に告げて言った、「バーラドヴァーシャよ。シャカ族の子である〔道の人〕ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、ここにイッチャーナンガラ[村]のイッチャーナンガラ林のうちに住んでいる。そのゴータマさまには次のような好い名声があとずれている。──すなわち、かの師は、尊敬さるべき人・目ざめた人・明知と行いとを具えた人・幸せな人。世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊き師であるといわれる。バーラドヴァーシャさん。さあ行こうよ。〔道の人〕ゴータマのいる処に行こう。そこへ行ったら、〔道の人〕ゴータマにこのことがらを尋ねよう。そうして〔道の人〕ゴータマがわれわれに解答してくれたとおりに、われわれはそれを承認しよう。」「そうしましょう」と、バーラドヴァーシャ青年はヴァーセッタ青年に答えた。
そこでヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年とは、師のいます処に赴いた。そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出についての挨拶の言葉を交したのち、彼は傍らに坐した。そこでヴァーセッタ・バラモンは次の詩を以て師に呼びかけた。──
594 「われら両人は三ヴェーダの学者であると、(師からも)認められ、自らも称しています。私はポッカラサーティの弟子であり、この人はタールッカの弟子です。
595 三ヴェーダに説かれていることがらを、われわれは完全に知っています。われわれはヴェーダの語句と文法とに精通し、ヴェーダ読誦については師に等しいのです。
596 ゴータマよ。そのわれわれが生れの如何を論議して、論争が起りました。『生れによってバラモンなのである』とバーラドヴァーシャは語りますが、私は『行為によってバラモンとなるのである』と言います。眼ある方よ。こういうわけなのだと了解して下さい。
597 われら両人は互いに相手を説得することができないのです。そこで、〔目ざめた人〕(ブッダ)としてひろく知られているあなたさまにたずねるために、やって来ました。
598 人々が満月に向って近づいて合掌し礼拝し敬うように、世人はゴータマを礼拝し敬います。
599 世間の眼として出現したもうたゴータマに、われらはおたずねします。生まれによってバラモンであるのでしょうか。或いは行為によってバラモンとなるのでしょうか? われわれには解りませんから、話して下さい、──われわれがバラモンの何たるかを知りうるように。」
600 師が答えた、「ヴェーダよ。そなたらのために、諸々の生物の生れ(種類の)区別を、順次にあるがままに説明してあげよう。それらの生れは、いろいろと異なっているからである。
601 草や木にも(種類の区別のあることを)知れ。しかし彼等は(「われは草である」とか、「我等は木である」とか)言い張ることはない。彼等の特徴は生まれに基づいている。彼等の生まれはいろいろと異なっているからである。
602 次に蛆虫や蟋蟀から蟻類に至るまでのものにも(種類の区別のあることを)知れ。彼等の特徴は生れに基づいているのである。彼等の生れは、いろいろと異っているからである。
603 小さいものでも、大きなものでも、四足獣にも、(種類の区別のあることを)知れ。彼等の特徴は生れに基づいているのである。彼等の生れは、いろいろと異っているからである。
604 腹を足としていて背の長い匍うものにも(種類の区別のあることを)知れ。彼等の特徴は生れに基づいている。彼等の生れは、いろいろと異っているからである。
605 次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。彼等の特徴は生れに基づいている。彼等の生れは、いろいろと異なっているからである。
606 次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。彼等の特徴は生れに基づいている。彼等の生れは、いろいろと異っているからである。
607 これらの生類には生まれにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない。
608 髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、
609 首についても、肩についても、腹についても、背についても、臀についても、胸についても、隠所についても、交合についても、
610 手についても、足についても、指についても、脛につていも、腿についても、容色についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生まれにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。
611 身を禀けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間の間ではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。
612 人間のうちで、牧牛によって生活する人があれば、彼は農夫であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
613 人間のうちで、種々の技能によって生活する人があれば、彼は職人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
614 人間のうちで売買をして生活する人があれば、彼は商人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
615 人間のうちで他人に使われて生活する者があれば、彼は傭人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
616 人間のうちで盗みをして生活する者があれば、彼は盗賊であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
617 人間のうちで武術によって生活する者があれば、彼は武士であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
618 人間のうちで司祭の職によって生活する者があれば、彼は司祭者であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
619 人間のうちで村や国を領有する者があれば、彼は王であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
620 われは、(バラモン女の)胎から生まれ(バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。彼は(きみよ、といって呼びかける者)といわれる。彼は何か所有物の思いに囚われている。無一物であって執著のない人、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
621 全ての束縛を断ち切り、怖れることなく、執著を超越して、とらわれることのない人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
622 紐と革帯と綱とを、手綱ともども断ち切り、門をとざす閂(障礙)を減じて、目ざめた人(ブッダ)、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
623 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
624 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身を整え、最後の身体に達した人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
625 蓮葉の上の露のように、錐の尖の芥子のように、諸々の欲情に汚されない人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
626 既にこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれのない人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
627 明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的を達した人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
628 在家者・出家者のいずれとも交わらず、住家がなくて遍歴し、欲の少い人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
629 強く或いは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さず、また殺させることのない人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
630 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあって執著しない人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
631 芥子粒が錐の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
632 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実の言葉を発し、言葉によって何人の感情をも害することのない人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
633 この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうとも粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも、全て与えられていない物を取らない人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
634 現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、──彼を私はバラモンと呼ぶ。
635 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
636 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
637 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
638 この傷害・険道・輪廻(さまよい)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、執著がなくて、心安らかな人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
639 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
940 この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生活の尽きた人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
641 人間の絆を捨て、天界の絆を超え、全ての絆をはなれた人、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
642 〔快楽〕と〔不快〕とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った健き人、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
643 生きとし生ける者の生死を全て知り、執著なく、幸せな人、覚った人、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
644 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを減しつくした人、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
645 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、全て無一物で、何ものをも執著して取りおさえることのない人、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
646 牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望のない人・沐浴した者・覚った人(ブッダ)、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
647 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を減し尽くしに至った人、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
648 世の中で名とし姓として付けられているものは、名称に過ぎない。(人の生まれた)その時その時に付けられて、約束の取り決めによって仮に設けられて伝えられているのである。
649 (姓名は、仮に付けられたものに過ぎないということを)知らない人々にとっては、誤った偏見が長い間ひそんでいる。知らない人々はわれらに告げていう、『生れによってバラモンなのである』と。
650 生まれによって(バラモン)となるのではない。生まれによって(バラモンならざる者)となるのでもない。行為によって(バラモン)なのである。行為によって(バラモンならざる者)なのである。
651 行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって傭人となるのである。
652 行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者ともなり、行為によって王ともなる。
653 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。彼等は縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。
654 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。−−進み行く車が轄に結ばれているように。
655 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、これによって〔バラモン〕となる。
これが最上のバラモンの境地である。
656 三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は、諸々の識者にとっては、梵天や帝釈[と見なされる]のである。ヴァーセッタよ。このとおりであると知れ。」
このように説かれたので、ヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年とは師に向って言った、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。ゴータマさま。譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、或いは『眼ある人々は色や形を見るように』といって暗夜に灯火を掲げるように、ゴータマさまは種々の仕方で理法を明らかにされました。いま私はゴータマさまと真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまは私たちを、在俗信者として受けいれて下さい。私たちは、今日から命の続く限り帰依いたします。」
【10、コーカーリヤ】
私か聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)は、サーヴァッティー市のジェータ林、〔孤独な人々に食を給する長者の園〕におられた。その時修行僧コーカーリヤは師のおられる処に赴いた。そうして、師に挨拶して、傍らに坐した。それから修行僧コーカーリヤは師に向っていった、「尊き師(ブッダ)よ。サーリプッタとモッガラーナとは邪念があります。悪い欲求に囚われています。」
そう言ったので、師(ブッダ)は修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、まあそういうな。サーリプッタとモッガラーナとを信じなさい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
修行僧コーカーリヤは再び師にいった、「尊き師よ。私は師を信じてお頼りしていますが、しかしサーリプッタとモッガラーナとは邪念があります。悪い欲求に囚われています。」
師は再び修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、サーリプッタとモッガラーナとを信じなすい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
修行僧コーカーリヤは三たび師にいった、「尊き師よ。私は師を信じてお頼りしていますが、しかしサーリプッタとモッガラーナとは邪念があります、悪い欲求に囚われています。」
師は三たび修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、サーリプッタとモッガラーナとを信じなすい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
そこで修行僧コーカーリヤは座から起って、師に挨拶して、右まわりをして立ち去った。修行僧コーカーリヤが立ち去ってからまもなく、彼の全身に芥子粒ほどの腫物が出てきた。(初めは)芥子粒ほどであったものが、(次第に)小豆ほどになった。小豆ほどであったものが、大豆ほどになった。大豆ほどであったものが、棗の核ほどになった。棗の核ほどあったものが、棗の果実ほどになった。棗の果実ほどあったものが余甘子ほどになった。余甘子ほどであったものが、未熟な木爪の果実ほどになった。未熟な木爪の果実ほどであっものが、熟した木爪ほどになった。熟した木爪ほどになったものが破裂し、膿と血とが迸り出た。そこで修行僧コーカーリヤはその病苦のために死去した。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意を抱いていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれた。
その時サハー(老婆)世界の主・梵天は、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、師のおられる処に赴いた。そうして師に敬礼して傍らに立った。そこでサハー世界の王である梵天は師に告げていった。「尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意を抱いていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました。」サハー世界の主・梵天はこのように言った。このように言ってから、師に敬礼し、右まわりをして、その場で消え失せた。
さて、その夜が明けてから、師は、諸々の修行僧に告げて言われた、「諸々の修行僧らよ。昨夜サハー世界の主である梵天が、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、私のいる処に来た。それから私に敬礼して傍らに立った。さうしてサハー世界の主である梵天は、私に告げていった。『尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意を抱いていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました』と。サハー世界の主である梵天はこのように言った。そうして、師を敬礼し、右まわりして、その場で消え失せた。」
このように説かれたときに、一人の修行僧が師に告げていった、「尊いお方さま。紅蓮地獄における寿命の長さは、どれだけなのですか?」
「修行僧よ。紅蓮地獄における寿命は実に長い。それを、幾年であるとか、幾百年であるとか、幾千年であるとか、幾十万年であるとか、数えることは難しい。」
「尊いお方さま。しかし譬喩を以て説明することがでまるでしょう。」
「修行僧よ。それはできるのです」といって、師は言われた、「たとえば、コーサラ国の枡目ではかつて二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)があって、それを取り出すとしょう、ついで一人の人が百年を過ぎるごとに胡麻を一粒ずつ取り出すとしよう。その方法によって、コーサラ国の枡目ではかって二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)が速やかに尽きたとしても、一つのアッブタ地獄はまだ尽きるに至らない。二十のアッブダ地獄は一つのニラッブダ地獄[の時期]に等しい。二十のニラッブダ地獄は一つのアババ地獄[の時期]に等しい。二十のアババ地獄は一つのアハハ地獄[の時期]に等しい。二十のアハハ地獄は一つのアタタ地獄[の時期]に等しい。二十のアタタ地獄は一つの黄蓮地獄[の時期]に等しい。二十の黄蓮地獄は一つの白睡蓮地獄[の時期]に等しい。二十の白睡地獄は一つの青蓮地獄[の時期]に等しい。二十の青蓮地獄は一つの白蓮地獄[の時期]に等しい。二十の紅蓮地獄[の時期]に等しい。ところで修行僧コーカーリヤは、サーリプッタおよびモッガラーナに対して敵意を抱いていたので、紅蓮地獄に生まれたのである。」
師はこのように言われた。幸せな人である師は、このことを説いてから、さらに次のように言われた。──
657 人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。
658 毀るべき人を誉め、また誉むべき人を毀る者、──彼は口によって禍をかさね、その禍のゆえに福楽を受けることができない。
659 賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも、その不運はわずかなものである。しかし立派な聖者に対して悪意をいだく人の受ける不運は、まことに重いのである。
660 悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、十万と三十六のニラップダの[巨大な年数のあいだ]また五つのアッブダの[巨大な年数のあいだ]地獄に赴く。
661 嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながら゜私はしませんでした」と言う人もまた同じ。両者とも行為の卑劣な人々であり、死後にはおの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。
662 害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には、必ず悪(い報い)がもどってくる。風に逆らって微細な塵を撒き散らすようなものである。
663 種々なる貪欲に耽る者は、言葉で他人をそしる。──彼自身は、信仰心なく、ものおしみして、不親切で、けちで、やたらにかげ口を言うのだが。
664 口穢く、不実で、卑しい者よ。生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者よ。不劣を極め、不吉な、でき損いよ。この世であまりおしゃべりするな。お前は地獄に落ちる者だぞ。
665 お前は塵を播いて不利を招き、罪をつくりながら、諸々の善人を非難し、また多くの悪事をはたらいて、長いあいだ深い坑(地獄)に陥る。
666 けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。
667 (地獄に墜ちた者は)、鉄の串を突きさされる処に至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは、(昔つくった業に)ふさわしい当然なことである。
668 (地獄の獄卒どもは「捕えよ」「打て」などといって)、誰もやさしい言葉をかけることなく、(温顔をもって)向ってくることなく、頼りになってくれない。(地獄に墜ちた者どもは)、敷き拡げられた炭火の上に臥し、普く燃え盛る火炎の中に入る。
669 またそこでは(地獄の獄卒どもは)鉄の網をもって(地獄に墜ちた者どもを)からめとり、鉄槌をもって打つ。さらに真の暗黒である闇に至るが、その闇はあたかも霧のようにひろがっている。
670 また次に(地獄に堕ちた者どもは)火炎が普く燃え盛っている鋼製の釜にはいる。火の燃え盛るそれらの釜の中で永いあいだ煮られて、浮き沈みする。
671 また膿や血のまじった湯釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。彼がその釜の中でどちらの方角へ向って横たわろうとも、(膿と血とに)触れて汚される。
672 また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。出ようにも、つかむべき縁がない。その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。
673 また鋭い剣の葉のついた林があり、(地獄に墜ちた者どもが)その中に入ると、手足を切断される。(地獄の獄卒どもは)鉤を引っかけて舌をとらえ、引っ張りまわし、引っ張り廻しては叩きつける。
674 また次に(地獄に墜ちた者どもは)、超え難いヴェータラニー河に至る。その河の流れは鋭利な剃刀の刃である。愚かな輩は、悪い事をして罪を犯しては、そこに陥る。
675 そこには黒犬や斑犬や黒烏の群や野狐がいて、泣きさけぶ彼等を貪り食うて飽くことがない。また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄む。
676 罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、忽せにしてはならない。
677 紅蓮地獄に運び去られた者(の寿命の年数)は、荷車につんだ胡麻の数ほどある、と諸々の智者は計算した。すなわちそれは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。
678 ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄にとどまらなねばならない。それ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして、常に言葉とこころをつつしむべきである
【11、ナーラカ】
[ 序 ]
679 よろこび楽しんでいて清らかな衣をまとう三十の神々の群と帝釈天とが、恭しく衣をとって極めて讃嘆しているのを、アシタ仙は日中の休息のときに見た。
680 こころ喜び踊りあがっている神々を見て、ここに仙人は恭々しくこのことを問うた、
「神々の群が極めて満悦しているのは何故ですか?
どうしたわけで彼等は衣をとってそれを振り廻しているのですか?
681 たとえ阿修羅との戦いがあって、神々が勝ち阿修羅が敗れたときにもそのように身の毛の振るい立つぼど喜ぶことはありませんでした。どんな稀な出来事を見て神々は喜んでいるのですか?
682 彼は叫び、歌い、楽器を奏で、手を打ち、踊っています。須弥山の頂に住まわれるあなたがたに、私はおたずねします。尊き方々よ、私の疑いを速かに除いて下さい。」
683 (神々は答えて言った)、「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです、──シャカ族の村に、ルンビニーの聚落に。
だからわれらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。
684 生きとし生ける者の最上者、最高の人、牡牛のような人、生きとし生けるもののうちの最高の人(ブッダ)は、ゆがて〔仙人(のあつまる所)〕という名の林で(法)輪を回転するであろう。──猛き獅子が百獣にうち勝って吼えるように。」
685 仙人は(神々の)その声を聞いて急いで(人間世界に)降りてきた。その時スッドーダナ王の宮殿に近づいて、そこに坐して、シャカ族の人々に次のようにいった、
「王子はどこにいますか。私もまた会いたい。」
686 そこで諸々のシャカ族の人々は、その児を、アシタという(仙人)に見せた。──溶炉で巧みな金工が鍛えた黄金のようにきらめき幸福に光り輝く尊い児を。
687 火炎のように光り輝き、空行く星王(月)のように清らかで、雲を離れて照る秋の太陽のように輝く児を見て、歓喜を生じ、昴まく喜びでわくわくした。
688 神々は、多くの骨あり千の円輪ある傘蓋を空中にかざした。また黄金の柄のついた払子で[身体を]上下に扇いだ。
しかし払子や傘蓋を手にとっている者どもは見えなかった。
689 カンハシリ(アシタ)という結髪の仙人は、こころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。──その児は、頭の上に白い傘をかざされて白色がかった毛布の中にいて、黄金の飾りのようであった。
690 相好と呪文(ヴェーダ)に通曉している彼は、シャカ族の牡牛(のような立派な児)を抱きとって、(特相を)検べたが、心に歓喜して声を挙げた。──「これは無上の方です、人間のうちで最上の人です。」
691 ときに仙人は自分の行く末を憶うて、ふさぎこみ、涙を流した。仙人が泣くのを見て、シャカ族の人々は言った、──
「吾等の王子に障りがあるのでしょうか?」
392 シャカ族の人々が憂えているのを見て、仙人は言った、──
「私は、王子に不吉の相があるのを思いつづけているのではありません。また彼に障りはないでしょう。この方は凡庸ではありません。よく注意してあげて下さい。
393 この王子は最高のさとりに達するでしょう。この人は最上の清浄を見、多くの人々のためをはかり、あわれむが故に、法輪をまわすでしょう。この方の清らかな行いはひろく弘まるでしょう。
394 ところが、この世における私の余命はいくばくもありません。(この方がさとりを開かれるまえに)中途で私は死んでしまうでしょう。私は比なき力ある人の教えを聞かないでしょう。だから、私は、悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。」
695 かの清らかな修行僧(アシタ仙人)はシャカ族の人々に大きな喜びを起させて、宮廷から去っていった。彼は自分の甥(ナーラカ)をあわれんで、比なま力ある人の教えに従うようにすすめた。──
696 「もしもお前が後に『目ざめた人あり、さとりを開いて、真理の道を歩む』という声を聞くならば、その時そこへ行って彼の教えをたずね、その師のもとで清らかな行いを行え。」
697 その聖者は、人のためをはかる心あり、未来における最上の清らかな境地を予見していた。その聖者に教えられて、かねて諸々の善根を積んでいたナーラカは、勝利者(ブッダ)を待望しつつ、自らの感官をつつしみまもって暮らした。
698 〔すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう〕との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって、最上の人である仙人(ブッダ)に会って信仰の心を起し、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。
序文の詩句は終った。
699 [ナーラカは尊師にいった]、「アシタの告げたこの言葉はそのとおりであるということを了解しました。故に、ゴータマよ、一切の道理の通達者(ブッダ)であるあなたにおたずねします。
700 私は出家の身となり、托鉢の行を実践しようと願っているのですが、おたずねします。聖者よ、聖者の境地、最上の境地を説いて下さい」。
701 師(ブッダ)はいわれた、「私はあなたに聖者の境地を教えてあげよう。これは行いがたく、成就し難いものである。さあ、それをあなたに説いてあげようるしっかりとして、堅固であれ。
702 村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。(罵られても)こころに怒らないように注意し、(敬礼されても)冷静に、高ぶらずにふるまえ。
703 たとい園林のうちにあっても、火炎の燃え立つように種々のものが現れ出てくる。
婦女は聖者を誘惑する。婦女をして彼を誘惑させるな。
704 婬欲のことがらを離れ、さまざまの愛欲を捨てて、弱いものでも、強いものでも、諸々の生きものに対してね敵対することなく、愛著することもない。
705 『彼も私と同様であり、私も彼と同様である』と思って、わがみに引きくらべて、(生きるものを)殺してはならなぬ。また他人をして殺させてはならない。
706 凡夫は欲望と貪りと執著しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。
707 腹をへらして、食物を節し、小欲であって、貪ることなかれ。彼は貪り食う欲望に厭きて、無欲であり、安らぎに帰している。
708 その聖者は托鉢にまわり歩いてから、林の畔におもむき、樹の根もとにとどまって座につくべきである。
709 彼は思慮深く、瞑想に専念し、林の畔で楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いに自ら満足すべきである。
710 ついで夜が明けたならば、村里の畔に去るべきである。(信徒から)招待を受けても、また村から食物をもらってきても、決して喜んではならない。
711 聖者は、村に行ったならば、家々を荒々しくガサツに廻ってはならない。話をするな。わざわざ策して食を求める言葉を発してはならない。
712 『(施しの食べ物を)得たのは善かった』『得なかったのもまた善かった』と思って、全き人はいずれの場合にも平然として還ってくる。あたかも(果実を求めて)樹のもとに赴いた人が、(果実を得ても得なくても、平然として)帰ってくるようなものである。
713 彼は鉢を手にして歩き廻り、唖者ではないのに唖者と思われるようにするためだ。施物が少なかったらとて軽んじてはならぬ。施してくれる人を侮ってはならない。
714 道の人(ブッダ)は高く或いは低い種々の道を説き明かしたもうた。重ねて彼岸に至ることはないが、一度で彼岸に至ることもない。
715 (輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、彼は煩悶が存在はない。」
716 師がいわれた、
「「あなたに聖者の道を説こう。──(食をとるには)剃刀の刃の譬えのように用心せよ。舌で上口蓋を抑え、腹については自ら食を節すべし。
717 心が沈んでしまってはいけない。またやたらに多くのことを考えてはいけない。腥い臭気なく、こだわることなく、清らかな行いを究極の理想とせよ。
718 独り坐することと〔道の人〕に奉仕することを学べ。聖者の道は独り居ることであると説かれている。独り居てこそ楽しめるであろう。
719 そうすれば彼は十方に光輝くであろう。欲望を捨てて瞑想している諸々の賢者の名声を聞いたならば、我が教えを聞く者はますます恥を知り、信仰を起すべきである。
720 そのことを深い淵の河水と浅瀬の河水とについて知れ。河低の浅い小川の水は音を立てて流れるが、大河の水は音を立てないで静かに流れる。
721 欠けている足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く静かである。愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである。
722 〔道の人〕が理法に叶い意義あることを多く語るのは、自ら知って教えを説くのである。
723 しかし自ら知って己れを制し、自ら知っているのに多くのことを語らないならば、彼は聖者として聖者の行に叶う。彼は聖者として聖者の行を体得した。」
【12、二種の観察】
私が聞いたところによると、──或るとき尊師はサーヴァッティーの[郊外にある]東園にあるミガーラ(長者)の母の宮殿のうちにとどまっておられた。その時尊師(ブッダ)はその定期的集会(布薩)の日、十五日、満月の夜に、修行僧(比丘)の仲間に囲まれて屋外に住しておられた。さて尊師は仲間が沈黙しているのを見まわして、彼等に告げていわれた、──
修行僧たちよ。善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理がある。そなたたちが、『善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは、何故であるか』と、もしも誰かに問われたならば、彼に対しては次のように答えねばならぬ。──『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。しからば、そなたたちのいう二種とは何であるか、というならば、『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが、一つの観察[法]である。『これは苦しみの消滅に至る道である』というのが、第二の観察[法]である。修行僧たちよ。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。──
尊師はこのように告げられた。そえして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。
724 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、また苦しみの全て残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、──
725 彼等は心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。彼等は(輪廻を)終滅させることができない。彼は実に生と老いとを受ける。
726 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみの全て残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、──
727 彼等は、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。彼等は(輪廻を)終滅させることができる。彼等は生と老いとを受けることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て素因に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。
728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することがでまるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『どんな苦しみが生ずるのでも、全て無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存にもどらないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。
730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなれけばならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て潜在的形成力に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種(の観察法)を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
731 およそ苦しみが生ずるのは、全て潜在的形成力を縁(原因)として起るのである。諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。
732 「苦しみは潜在的形成力の縁から起るものである」と、この災いを知って、一切の潜在的形成力が消滅し、(欲など)相を止めたならば、苦しみは消滅する。このことを如実に知って、
733 正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て識別作用(識)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら識別作用が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待される。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はそらにまた次のように説かれた。
734 およそ苦しみが生ずるのは、全て識別作用に縁って起るのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということはあり得ない。
735 「苦しみは識別作用に縁って起るのである」と、この禍いを知って、識別作用を静まらせたならば、修行者は、快をむさぼることなく、安らぎに帰しているのである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て接触に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら接触が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待される。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
736 接触にとらわれ、生存の流れにおし流され、邪道を歩む人々は、束縛の消滅は遠いかなたにある。
737 しかし接触を熟知し理解して、平安を楽しむ人々は、実に接触がほろびるが故に、快を感ずることなく、安らぎに帰している。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て感受に縁って起るものである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待される。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
738 楽であろうと、苦であろうと、悲苦悲楽であろうとも、内的にも外的にも、およそ感受されたものは全て、
739 「これは苦しみである」と知って、滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅することを認め、このようにしてそれらの本性を識知する。諸々の感受が消滅するが故に、修行僧は快を感ずることにく、安らぎに帰している。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、妄執(愛執)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら妄執が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せに師はさらにまた次のように説かれた。
740 妄執を友としている人は、この状態からの状態へと永い間流転して、輪廻を超えることができない。
741 妄執は苦しみの起る原因である、とこの禍いを知って、妄執を離れて、執著することなく、よく気を付けて、修行僧は遍歴すべきである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て執著に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の執著が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
742 執著に縁って生存が起る。生存せる者は苦しみを受ける。生れた者は死ぬ。これが苦しみの起る原因である。
743 それ故に諸々の賢者は、執著が消滅するが故に、正しく知って、生まれの消滅したことを熟知して、再び迷いの生存にもどることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て起動に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の起動が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
744 およそ苦しみが起るのは、全て起動を縁として起る。諸々の起動が消滅するならば、苦しみの生ずることもない。
745 「苦しみは起動の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の起動を捨て去って、起動のないことにおいて解脱し、
746 生存に対する妄執を断ち、心の静まった修行僧は、生をくり返す輪廻を超える。彼はもはや生存を受けることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て食料に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
747 およそ苦しみが起るのは、全て食料を縁として起る。諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。
748 「苦しみは食料の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の食料を熟知して、一切の食料にたよらない、
749 諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って、省察して(食料を)受用し、理法に住するヴェーダの達人は、もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て動揺に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
750 およそ苦しみが起るのは、全て動揺を縁として起る。諸々の動揺が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。
751 「苦しみは動揺の縁から起る」と、この禍いを知って、それ故に修行僧は(妄執の)動揺を捨て去って、諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執著で、よく気を付けて、遍歴すべきである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『従属するものは、たじろぐ。』というのが、一つの観察[法]である。『従属しない者は、たじろかない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
752 従属することのない人はたじろがない。しかし従属することのある人は、この状態からあの状態へと執著していて、輪廻を超えることがない。
753 「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って、修行僧は、従属することなく、執著することなく、よく気を付けて、遍歴すべきである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『物理的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』というのが、一つの観察[法]である。『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
754 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。
755 しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者〔これは真理である〕と考えたものを、諸々の聖者は〔これは虚妄である〕と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者〔これは虚妄である〕と考えたものを、諸々の聖者は〔これは真理である〕と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、〔名称と形態〕(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。
757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。彼等は実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者〔これは安楽である〕と考えたものを、諸々の聖者は〔これは苦しみである〕と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者〔これは苦しみである〕と考えたものを、諸々の聖者は〔これは安楽である〕と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、──
760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。また、それらが滅びる場合には、彼等はそれを「苦しみ」であると等しく認めている。
761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。
762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。
763 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。善良な人々には開顕される。あたかも見る人々に光明のあるようなものである。理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。
764 生存の貪欲に囚われて、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。
765 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。
師(ブッダ)はこのように説かれた。修行僧たちは悦んで師の諸説を歓喜して迎えた。実にこの説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執著がなくなって、心が汚れから解脱した。
[二種の観察]まとめの句
真理(諦)と、生存の素因と、無名と、諸々の形成力と、第五に識別作用と、接触と、感受されるものと、妄執と、執著と、起動と、諸々の食と、動揺における震動と、物質的領域と、真理と苦とで、十六である。
〔大いなる章〕第三おわる
まとめの句
出家と、つとめはげむことと、みごとに説かれたことと、スンダリカと、マーガと、サビヤと、セーラと、矢と、ヴァーセッタと、コーカーリヤと、ナーラカと、二種の観察と──
これらの十二の経が「大いなる章」と言われる。
第四 八つの詩句の章大いなる章
【1,欲望】
766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、彼は実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。
767 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、彼は、矢に射られたかのように悩み苦しむ。
768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気を付けて諸々の欲望を回避する人は、この世で執著をのり超える。
769 ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親類、その他いろいろの欲望を貪り求めると、
770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)が彼にうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみが彼につき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように。
771 それ故に、人は常によく気を付けていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。
【2、洞窟についての八つの詩句】
772 窟(自体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄のうちに沈没している人、──このような人は、実に〔遠ざかり離れること〕(厭離)から遠く隔たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである
773 欲求に基づいて生存の快楽に囚われている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。彼等は未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。
774 彼等は欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、──「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。
775 だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、そのために不正を行なってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。
776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、私は見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。
777 (何ものかを)我が物であると執著して動揺している人々を見よ。(彼等のありさまは)ひからびた流れの水の少ない所にいる魚のようなものである。これを見て、「わかもの」という思いを離れて行うべきである。──諸々の生存に対して執著することなしに。
778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。
779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。
【3、悪意についての八つの詩句】
780 実に悪意をもって(他人を)誹る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹る言葉が起こっても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとにも心の荒むことがない。
781 欲にひかれて、好みに囚われている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。彼は、自ら完全であると思いなしている。彼は知るにまかせて語るであろう。
782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、彼は「下劣な人」である。と真理に達した人々は語る。
783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「私はこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、彼は〔高貴な人〕である、と真理に達した人々は語る。
784 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。
785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居のうちにあって、ものごとを斥け、またこれを執る。
786 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいても、さまざまな生存に対してあらかじめ抱いた偏見が存在しない。邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか?彼はもはやたより近づくものがないのである。
787 諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの議論(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執著に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろえか? 彼は執することもなく、捨てることもない。彼はこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。
【4、清浄についての八つの詩句】
788 「最上で無病の、清らかに人を私は見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧である。
789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、或いはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩に囚われている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。
790 (真の)バラモンは、(正しい道の)他には、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。彼は禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。
791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執著をのり超えることがない。彼等は、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。
792 自ら誓戒をたもつ人は、思いに耽って、種々多様なことをしようとする。しかし智慧豊かな人は、ヴェーダ(実践的認識)によって知り、真理を理解して、種々多様なことをしようとしない。
793 彼は一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。
794 彼は計らいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。
795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えていてる。彼が何ものかを知り或いは見ても、執著することがない。彼は欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。彼は(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。
【5、最上についての八つの詩句】
796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、それよりも他の見解は全て「つまらないものである」と説く。それ故に彼は諸々の論争を超えることがない。
797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものを全てつまらぬものであると見なす。
798 ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と〔真実に達した人々〕は語る。それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。
799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。
800 彼は、既に得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、彼は実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。
801 彼はここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、彼には何も存在しない。
802 彼はこの世において、見たこと、学んだこと、或いは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?
803 彼等は、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。彼等は、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。
【6、老 い】
804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳にたっせずせして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。
805 人々は「我が物である」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。
806 人が「これは我が物である」と考える物、──それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理を知って、わかものという観念に屈してはならない。
807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛したひとでも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることはできない。
808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。
809 我が物として執著したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(モノオシ)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(アンノン)をみたのである。
810 遠ざかり退いて行する修行者は、独り離れて座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、彼にふさわしいことであるといわれる。
811 聖者は何ものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(モノオシ)みもかれを汚すことがない。譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。
812 たとえば蓮の上の水滴、或いは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。
813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執著して考えることがない。彼は他のものによって清らかになろうとは望まない。彼は貪らず、また嫌うこともない。
【7、ティッサ・メッテイヤ】
814 ティッサ・メッテイヤさんがいった、──「君よ。婬欲の交わりに耽る者の破滅を説いて下さい。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」
815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。婬欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪まな行いをする。これは彼のうちにある卑しいことがらである。
816 かって独りで暮していたのに、のちに婬欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。
817 かって彼のもっていた名誉も名声も、全て失われる。このことわりを見たならば、婬欲の交わりを断つことを学べ。
818 彼は諸々の(欲の)想いに囚われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどく非難の声を聞いて恥いってしまう。
819 そうして他人に詰られたときには虚言に陥る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。これが彼の大きな難所である。
820 独りでいる修行をまもっていたときは一般に賢者と認められていた人でも、もしも婬欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。
821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅くまもれ。婬欲の交わりに耽ってはならない。
822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。──彼は安らぎに近づいているのだが。
823 聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛されている人々はかれを羨むのである。」──
【8、パスーラ】
824 彼等は「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えが清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみを善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。
825 彼等は論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を〔愚者である〕と烙印し、他人(師など)をかさに着て、論争を交わす。──自ら真理に達したものであると称しながら、自分が称賛されるようにと望んでいる。
826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。
827 諸々の審判者が彼の所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「彼は私を打ち負かした」といっい悲泣する。
828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。
829 或いはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、彼はそのために喜んで、心が高ぶる。
830 心の高ぶりというものは、彼の害われる場所である。しかるに彼は慢心・増上慢心の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。
831 たとえぱ王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声を挙げて進んでゆくようなものである。勇士よ。かの(汝にふさわしい、真理に達した人の)いる処に到れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。
832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真実である」と言う人々がいるならば、汝は彼に言え、──「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。
833 また彼等は対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、彼等に対して、あなたは何を得ようとするのか? パスーラよ。彼等の間で、「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。
834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いをめぐらし、心中に諸々の偏見を考えて、邪悪を掃い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそれだけならば、それを実現することは、とてもできない。
【9、マーガンディヤ】
835 (師((ブッダ))は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、彼等と婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたみの(女が)そもそも何ものなのだろう。私はそれに足でさえも触れたくないのだ。」
836 (マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」
837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『私はこのことを説く』、ということが私にはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎを私は見た。」
838 マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〔内心の安らぎ〕ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」
839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになのことがではない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、と私は考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」
841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義に基づいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえも抱いていない。だから、あなたは(私の説を)『ばかばかしい』とみなすのです。
842 『等しい』とか『すぐれている』とか、或いは『劣っている』とか考える人、──彼等はその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、──彼には『等しい』とか、『すぐれている』とか、(或いは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。
843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。また彼等は『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。
844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしててはならない。
845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。
846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。彼等の本性はそのようなものではないからである。彼等は宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。
847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」
【10、死ぬよりも前に】
848 「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか? ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことを私に説いて下さい。」
849 師は答えた「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、彼は(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。
850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、言葉を慎しむ。
851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。
852 (貪欲などから)遠ざかり、偽ることなく、貪り求めることなく、慳みせず、傲慢にならず、嫌われず、両舌を事としない。
853 快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。
854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことなく、美味に耽溺することもない。
855 平静であって、常によく気を付けていて、世間において(他人を自分と)等しいとも思わない。また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。彼は煩悩の燃え盛ることがない。
856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。彼には、生存の断滅のための妄執も存在しない。
857 諸々の欲望を顧慮することのない人、──かれこそ〔平安なる者〕である、と私は説く。彼には締めの結び目は存在しない。彼は既に執著を渡り了えた。
858 彼には、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。既に得たものも、捨て去ったものも、彼のうちには認められない。
859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過)があるというであろうが、彼はその(非難)を特にきにかけることはない。それ故に、彼は論議されても、動揺することがない。
860 聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。彼は分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。
861 彼は世間において〔我が物〕という所有がない。また無所有を嘆くこともない。彼は[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。彼は実に〔平安なる者〕と呼ばれる。」
【11、争 闘】
862 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心と傲慢と悪口しは、どこから現われ出たのですか? これはどこから起ったのですか? どうか、それを教えて下さい。」
863 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(モノオシ)みと慢心し傲慢と悪口とは愛し好むものに基づいて起る。争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。」
864 「世間において、愛し好むものは何に基づいて起るのですか。また世間にははびこる貪りは何に基づいて起るのですか? また人が来世に関していだく希望とその成就とは、何に基づいて起るのですか?」
865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望に基づいて起る。また人が来世に関していだく希望と成就とは、それに基づいて起る。」
866 「さて世の中で欲望は何に基づいて起るのですか? また(形而上学的な)断定は何から起るのですか? 怒りと虚言と疑惑と及び〔道の人〕(沙門)の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」
867 「世の中で〔快〕〔不快〕と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には正起と消滅とのあることを見て、世の中には〔外的な事物にとらわれた〕断定を下す。
868 怒りと虚言と疑惑、──これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現れる。疑惑ある人は知識の道に学べ。〔道の人〕は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」
869 「快と不快とは何に基づいて起るのですか? また何がないときにこれらのものが現れないのですか? また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語って下さい。」
870 「快と不快とは、感官による接触に基づいて起る。感官の接触が存在しないときには、これらのものも起こらない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」
871 「世の中で感覚による接触は何に基づいて起るのですか? また所有欲は何から起るのですか? 何ものが存在しないときに、〔我が物〕という我執が存在しないのですか?
872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、〔わかもの〕という我執も存在しない。形態が消滅したときには〔感官による接触〕ははたらかない。」
873 「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか? 楽と苦とはいかにして消滅するのですか? どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、私に説いて下さい。私はそれを知りたいものです。──私はこのように考えました。」
874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。──このように理解した者の形態は消滅する。
875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かして下さいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いて下さい。
──この世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(タマシイ)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしようか?」
876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらに彼等のうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうち(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。
877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
【12、並ぶ応答─小篇】
878 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見を抱いて争い、(自ら真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。──「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。
879 彼等はこのように異なった執見を抱いて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人でない」と言う。これらの人々は皆「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真理なのであろうか?
880 もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であって、智慧の劣った者であるならば、これらの人々は全て(各自の)偏見を固執しているのであるから、彼等は全て愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
881 またもし自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるのならば、彼等のうちには知性のない者は誰もいないことになる。彼等の見解は(その点で)等しく完全であるから。
882 諸々の愚者が相互に他人に対していう言葉を聞いて、私は「これは真実である」とは説かない。彼等は各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故に彼等は他人を「愚者」であると決めつけるのである。
883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。このように彼等は異なった執見を抱いて論争する。何故に諸々の〔道の人〕は同一の事をを語らないのであろうか?
884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。彼等はめいめい異なった真理を褒め称えあっている。それ故に諸々の〔道の人〕は同一の事を語らないのである。
885 自ら真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか? 彼は多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか? 或いはまた彼等は自分の思索に従っているのであろうか?
886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。彼等は、諸々の偏見に基づいて思索考研を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。
887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
888 反対者を(愚者)であると見なすとともに、自己を〔真理に達した人〕であるという。彼は自ら自分を〔真理に達した人〕であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
889 彼は過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、自らの心のうちでは自分を賢者だと自認している。彼のその見解は、(彼によれば)そのように完全なものだからである。
890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)共に愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称しているのであれば、諸々の、〔道の人〕のうちには愚者は一人も存在しないことになる。
891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、〔不完全な人〕である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。彼は自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。
892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。
893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、彼は自ら確執をもたらすであろう。
894 一方的に決定した立場に立って自ら考え量りつつ、さらに彼は世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。
【13、並ぶ応答─長篇】
895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、──彼等は全て他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。
896 (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、と私は説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。
897 全て凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。彼は、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。彼はそもそもどんなこだわりに赴くのであろうか?
898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、誓戒を受けている。「われわれはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、〔真理に達した者〕と称する人々は、流転する迷いの生存に誘きこまれる。
899 もしも彼が戒律や誓戒を破ったならば、彼は(戒律や誓戒の)つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず)彼は「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商を求め)、家から旅立った(旅人が家を求める)ようなものである。
900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なき(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄であると」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。──安らぎを固執することもなく。
901 或いは、ぞっとする苦行にもとづき、或いは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。
902 ねがい求める者は欲念がある。また、計らいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──彼は何を怖れよう、何を欲しよう。
903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか? ──彼は全て自分らこそ真理に達した者である称しているのであるが。
904 彼等は自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。彼等はこのように互いに異った執見を抱いて論争し、めいめい自分の仮説を「真実である」と説く。
905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人は皆自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。
906 彼等は自分の道を称賛するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。彼等はそれぞれ清浄となれるからである。
907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。
908 「われは知る。われは見る。これはそのとうりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たとい彼が見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。彼等は、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。
909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認めるであろう。見たい人は、多かれ少かれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。
910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執著とて論ずる人は、自ら構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。
911 バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。彼は凡俗のたてる諸々の見解を知って、心にとどめない。──他の人々はそれに執著しているのだが。──
912 聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときにも、党派にくみすることがない。彼は不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。──他の人々はそれに執著しているのだが。──
913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執著して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく。自分を責めることもない。
914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。彼は負担をはなれて解放されている。彼は計らいをなすことなく、快楽に耽ることなく、求めることもない。
【14、迅 速】
915 [問うていわく──]「・・・・修行者はどのように観じて、世の中のものを執することなく、安らいに入るのですか?」
916 師(ブッダ)は答えた、「〔われは考えて、有る〕という〔迷わせる不当な思惟〕の根本を全て制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。
917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。
918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。
919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内面的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。
920 海洋の奥深い処では波が起こらないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上げてはならない。」
921[質問者はいわく]、「眼を開いた人は、自ら体験したことがら、危難の克服、を説いて下さいました。ねがわくは正しい道を説いて下さい。戒律規定や、精神安定の法をも説いて下さい。」
922 [師いわく]、「眼で見ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならない。世間における何ものをも、わかものであるとみなして固執してはならない。
923 苦痛を感じるときがあっても、修行者は決して悲嘆してはならない。生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、慄(フル)えてはならない。
924 食物や飲料や堅い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない。またそれらがえられないからとて心配してはならない。
925 こころを安定させよう。うろついてはならないるあとで後悔するようなことをやめよ。怠けてはならなぬ。そうして修行者は閑静な座所・臥所に住むべきである。
926 多く眠ってはならぬ。熱心に努め、目ざめているべきである。ものぐさと偽りと談笑と遊戯と婬欲の交わりと装飾とを捨てよ。
927 わが徒は、アタルヴァーダの呪法と夢占いと相の占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならない。
928 修行者は、非難されても、くよくよしてはならない。称讃されても、高ぶってはならない。貪欲と慳みと怒りと悪口を除き去れ。
929 修行者は、売買に従事してはならない。決して誹謗をしてはならない。また村の人々と親しく交わってはならない。利益を求めて人々に話しかけてはならない。
930 また修行者は高慢であってはならない。また(自分の利益を得るために)遠廻しに策した言葉を語ってはならない。傲慢であってはならない。不和をもたらす言葉を語ってはならない。
931 虚言をなすことなかれ、知りながら詐りをしないようにせよ。また生活に関しても、知識に関しても、戒律や道徳に関しても、自分が他人よりもすぐれていると思ってはならない。
932 諸々の出家修行者やいろいろ言い立てる世俗人に辱しめられ、その(不快な)言葉を多く聞いても、あらあらしい言葉を以て答えてはならない。立派な人々は敵対的な返答をしないからである。
し 933 修行者はこの道理を知って、よく弁えて、つねに気を付けて学べ。諸々の煩悩の消滅した状態が「安らぎ」であると知って、ゴータマ(ブッタ)の教えにおいて怠ってはならない。
934 彼は、自ら勝ち、他にうち勝たれることがない。他人から伝え聞いたのではなくて、自ら証する理法を見た。それ故に、かの師(ブッタ)の教えに従って、怠ることなく、つねに礼拝して、従い学べ。」
──このように師(ブッダ) はいわれた。
【15、武器を執ること】
935 殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。私がぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を宣べよう。
936 水の少ない処にいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、私に恐怖が起った。
937 世界はどこでも堅実ではない。どの方角でも全て動揺している。私は自分のよるべき住所を求めたのであるが、既に(死や苦しみなどに)取りつかれていない処を見つけなかった。
938 (生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て、私は不快になった。また私はその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。
939 この(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢を抜いたならば、(あちこちを)駆けめぐることもなく、沈むこともない。
940 そこで次に実践の仕方が順次に述べられる。──世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎを学べ。
941 聖者は誠実であれ。傲慢でなく、詐りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪まな貪りと慳みとを超えよ。
942 安らぎを心がける人は、眠りとものぐさとふさぎこむ心とにうち勝て。怠惰を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな。
943 虚言をつくように誘き込まれるな。美しいすがたに愛著を起すな。また慢心を知りつくしてなくすようにせよ。粗暴になることなく、ふるまえ。
944 古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引する者(妄執)に囚われてはならない。
945 私は、(牽引する者のことを)貪欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、計らい、捕捉と呼びね超えがたい欲望の汚泥であるともいう。
946 バラモンである聖者は、真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。彼は一切を捨て去って、「安らぎになった人」と呼ばれる。
947 彼は智者であり、ヴェーダの達人である。彼は理法を知りおわって、依りかかることがない。彼は世間において正しくふるまい、世の中で何びとをも羨むことがない。
948 世間における諸々の欲望を超え、また克服しがたい執著を超えた人は、流されず、束縛さけず、悲しむことなく、思いこがれることもない。
949 過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。
950 名称と形態について、〔我が物という思い〕の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、──彼は実に世の中にあっても老いることがない。
951 「これは我が物である」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、──彼は(このような)〔我が物という観念〕が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。
952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である。──動じない人について問う人があれば、その美点を私は説くであろう。
953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。彼はあくせくした営みから離れて、至る処に安穏を見る。
954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。彼は安らいに帰し、取ることもなく、捨てることもない。
──と師は説かれた。
【16、サーリプッタ】
955 サーリプッタさんが言った、──
「私は未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。──このように言葉美わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来りたもうたことを。
956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独りで(法)楽をうけられた。
957 こだわりなく、偽りなく、このような範たる人として来りたもうた師・目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに、これらの束縛ある多くの者どものために問おうとして、ここに参りました。
958 修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、
959 または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。──修行者は音のしない処に坐臥していても、それらを恐れて震えてはならないのだが。
960 未到の地に赴く人にとっては、この世にどれだけの危難があることだろう。──修行者は辺鄙な処に坐臥していても、それらの危難にうち克たなければならないのだが。
961 熱心につとめる修行者には、いかなる言葉を発すべきか? ここで彼のふるまう範囲はいかにあるべきか? 彼のまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?
962 心を安定させ気を落ち着けている賢者は、どのような学脩を身に受けて、自分の汚れを吹き去るのですか? ──譬えば鍛冶工が銀の垢を吹き去るように。」
963 師(ブッダ)は答えた、
「サーリプッタよ。世を厭い、人なき所に坐臥し、さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、私の知り究めた処によって、そなたに説き示そう。
964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻と蚊と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れることである。
965 異った他の教えを奉ずる輩を恐れてはならない。──たとい彼等が多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。──また善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。
966 病いにかかり、餓えに襲われても、また寒冷や酷暑をも耐え忍ぶべきである。かの〔家なま人〕は、たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をたもって、堅固に努力をなすべきである。
967 盗みを行なってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ。心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。
968 怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりと、うち克つべきである。
969 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。奥まった土地に伏す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。
970 すなわち『私は何を食べようか』『私はどこで食べようか』『(昨夜は)私は眠りづらかった』『今夜は私はどこで寝ようか』──家を捨て道を学ぶ人は、これら(四つの)憂いに導く思慮を抑制せよ。
971 適当な時に食物と衣服とを得て、ここで(少量に)満足するために、(衣食の)量を知れ。彼は衣食に関して恣ままならず、慎しんで村を歩み、罵られてもあらあらしい言葉を発してはならない。
972 眼を下に向けて、うろつき廻ることなく、瞑想に専念して、大いにめざめておれ。心を平静にして、精神の安定をたもち、思いわずらいと欲のねがいと悔恨とを断ち切れ。
973 他人から言葉で警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。共に修行する人々に対する荒んだ心を断て。善い言葉を発せよ。その時にふさわしくない言葉を発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。
974 またさらに、世間には五つの塵垢がある。よく気を付けて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触れられるものに対する貪欲を抑制せよ。
975 修行僧は、よく気を付けて、心もすっかり解脱して、これらのものに対する欲望を抑制せよ。彼は適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。」
──と師(ブッダ)はいわれた。
〔八つの詩句の章〕第四おわる
まとめの句
欲望と、洞窟と、悪意と清浄と、最上と、老いと、メッテイヤとバスーラと、マーガンディヤと、死ぬよりも前にと、争闘と、二つの〔並ぶ応答〕と、迅速と、武器を執ることと、サーリプッタの質問とで、十六になる。
これらの経は全て〔八つの詩句の章〕である。
第五 彼岸にいたる道の章
【1、 序 】
976 明呪(ヴェーダ)に通じた一バラモン(バーヴァリ)は、無所有の境地を得ようと願って、コーサラ族の美しい都から、南国へとやってきた。
977 彼はアッサカとアラカと(両国の)中間の地域を流れるゴーダーヴァリー河の岸辺に住んでいた、──落穂を拾い木の実を食って。
978 その河岸の近くに一つの豊かな村があった。そこから得た収益によって彼は大きな祭りを催した。
979 彼は、大きな祭りをなし終って、自分の庵にもどった。彼がもどってきたときに、他の一人のバラモンがやってきた。
980 足を傷め、のどが渇き、歯がよごけ、頭は塵をあびて、彼は、(庵室の中の)かれ(バーヴァリ)に近づいて、五百金を乞うた。
981 バーヴァリはかれを見て、座席を勧め、彼が快適であるかどうか、健康であるかどうか、をたずね、次の言葉を述べた。
982 「私がもっていた施物は全て、私が施してしまいました。バラモンよ。どうかおゆるし下さい。私には五百金がないのです。」
983 「私が乞うているのに、あなたが施してくださらないならば、いまから七日の後に、あなたの頭は七つに裂けてしまえ。」
984 詐りをもうけた(そのバラモン)は、(呪詛の)作法をして、恐ろしいことを告げた。彼のその(呪詛の)言葉を聞いて、バーヴァリは苦しみ悩んだ。
985 それは憂いの矢に中てられて、食物もとらないで、うちしおれた。もはや、心がこのような気持では、心は瞑想を楽しまなかった。
986 バーヴァリが恐れおののき苦しみ悩んでいるのを見て、(庵室を護る)女神は、彼のためを思って、彼のもとに近づいて、次のように語った。
987 「彼は頭のことを知っていません。彼は財を欲しがっている詐欺者なのです。頭のことも、頭の落ちることも、彼は知っていないのです。」
988 「では、貴女は知っておられるのでしょう。お尋ねしますが、頭のことも、頭の落ちることをも、私に話して下さい。われらは貴女のお言葉を聞きたいのです。」
989 「私だってそれを知っていませんよ。それについての知識は私にはありません。頭のことも、頭の落ちることも、諸々の勝利者(ブッダ)
が見そなわしておられます。」
990 「ではこの地上において頭のことと頭の裂け落ちることとを、誰が知っておられるのでですか? 女神さま。どうか私に話して下さい。」
991 「むかしカピラヴァットゥの都から出て行った世界の指導者(ブッダ)がおられまする彼は甘蔗王のの後裔であり、シャカ族の子で、世を照す。
992 バラモンよ。彼は実に目ざめた人(ブッダ)であり、あらゆるものの極致に達し、一切の神通と力とを得、あらゆるものを見通す眼をもっている。あらゆるものの消滅に達し、煩いをなくして解脱しておられます。
993 かの目ざめた人(ブッダ)、尊き師、眼ある人は、世に法を説きたもう。そなたは、彼のもとに赴いて、問いなさい。彼は、それを説明するでしょう。」
994 〔目ざめた人〕という語を聞いてバーヴァリは歓喜した。彼の憂いは薄らいだ。彼は大いに喜んだ。
995 かのバーヴァリはこころ喜び、歓喜し、感動して、熱心に、かの女神に問うた。
「世間の主は、どの村に、またどの町に、或いはとせの地方にいらっしゃるのですか?
そこへ行って最上の人である正覚者をわれわれは礼拝しましょう。」
996 勝利者・智慧豊かな人・いとも聡明な人・荷をおろした人・汚れない人・頭のおちることを知っている人・牛王のような人であるかのシャカ族の子(ブッダ)は、コーラサ国の都であるサーヴァッティーにまします。」
997 そこで彼は(ヴェーダの)神呪に通達した諸々の弟子・バラモンたちに告げていった、
「来たれ、学生どもよ。われは、そなたらに告げよう。わが言葉を聞け。
998 世間に出現すること常に稀有であるところの、かの〔目ざめた人〕(ブッダ)として命名ある方が、いま世の中に現れたもうた。そなたらは急いでサーヴァッティーに赴いて、かの最上の人に見えよ。」
999 「では(師)バラモンよ。かれを見て、どうして〔目ざめた人〕(ブッダ)であると知り得るのでしょう? われらはどうしたらそれを知り得るか、それを教えて下さい。われらは知らないのです。」
1000 諸々の神呪(ヴェーダ)の中に、三十二の完全な偉人の相が伝えられ、順次に一つ一つ説明されている。
1001 肢体にこれらの三十二の偉人の相のある人、──彼には二つの前途があるのみ。第三の途はありえない。
1002 もしも彼が、〔転輪王〕として家にとどまるならば、この大地を征服するであろう。刑罰によらず、武器によらず、法によって統治する。
1003 またもしも彼が家から出て家なきに入れば、蔽いを開いて、無上なる〔目ざめた人〕(ブッダ)、尊敬さるべき人となる。
1004 (わが)生れと、姓と、身体の特徴と、神呪(習ったヴェーダ)と、また弟子たちと、頭のことと、頭も裂け落ちることとを、ただ心の中で(口に出さずに)彼に問え。
1005 もしも彼が、見るはたらきの障礙のない〔目ざめた人〕(ブッダ)であるならば、心の中で問われた質問に、言葉を以て返答するであろう。」
1006 バーヴァリの言葉を聞いて、弟子である十六人のバラモン──アジタと、ティッサ・メッテイヤと、プンナカと、およびメッタグーと、
1007 ドーカタと、ウパシーヴァと、ナンダと、およびヘーマカと、トーデイヤとカッパとの両人と、賢者ジャトゥカンニンと、
1008 バドラーヴダと、ウダヤと、ポーサーラというバラモンと、聡明なるモーガラーシャと、大仙人ピンギヤと、──
1009 彼等は全て、それぞれ衆徒を率い、全世界に命名があり、瞑想を行い、瞑想を楽しむ者で、しっかりと落ち着いていて、前世に宿善を植えた人々であった。
1010 髪を結い羚羊皮をまとった彼は、全てバーヴァリを礼し、また彼に右まわりの礼をして、北方に向って出発した。
1011 ムラカの(首都)パティターナに入り、それから昔の[都]マーヒッサティへ、またウッジェーニーへ、コ゜ーナッダ、ブェーディサへ、ヴァナサという処へ、
1012 またコーサンビーへ、サーケータへ、最高の都サーヴァッティーに行った。(ついで)セータヴィヤへ、カピラヴァットゥへ、タシナーラーの宮殿へ(行った)。
1013 さらに享楽の都市パーヴァーへ、ヴェーサーリーへ、マガダの都(王舎城)へ、またうるわしく楽しい(石の霊地)に達した。
1014 渇した人が冷水を求めるように、また商人が大きな利益を求めるように、暑熱に悩まされている人が木陰を求めるように、彼等は急いで(尊師ブッダのまします)山に登った。
1015 尊き師(ブッダ)はその時僧衆に敬われ、獅子が林の中で吼えるように修行僧(比丘)らに法を説いておられた。
1016 光を放ちおわった太陽のような、円満になった十五夜の月のような目ざめた人(ブッダ)をアジタは見たのであった。
1017 そこで(アジタは)師(ブッダ)の肢体に円満な相好のそなわっているのを見て、喜んで、傍らに立ち、こころの中で(ブッダにつぎのように)質問した。──
1018 「(わが師バーヴァリの)生年について語れ。(バーヴァリの)姓と特徴とを語れ。神呪(ヴェーダ)に通達していることを語れ。(師)バラモンは幾人に教えているのか?」
1019 (師はいわれた)、「彼の年齢は百二十歳である。彼の姓はバーヴァリである。彼の肢体には三つの特徴がある。彼は三ヴェーダの奥義に達している。
1020 偉人の特徴と伝説と語彙と儀規とに達し、五百人(の弟子)に教授し、自分の教説の極致に通達している。」
1021 (アジタいわく)、「妄執を断じた最高の人よ。バーヴァリのもつ諸々の特徴の詳細を説いて下さい。私に疑いを残さないで下さい。」
1022 [師いわく]、「彼は舌を以て彼の顔を蔽う。彼の両眉の中間に柔い白い毛(百毫)
がある。彼の隠所は覆いに隠されている。学生ょ、(彼の三つの特徴を)このように知れ。」
1023 質問者がなにも声を出して聞いたのでないのにね(ブッダが)質問に答えたもうたのを聞いて、全ての人は感激し、合掌して、じっと考えた。──
1024 いかなる神が心の中でそれらの質問をしたのだろか? ──神か、梵天か、またはスジャーの夫なる帝釈天か? ──また[尊師は]誰に答えたもうたのだろう?
1025 (アジタがいった)、「バーヴァリは頭のことについて、また頭の裂け落ちることについて質問しました。先生! それを説明して下さい。仙人さま! 吾等の疑惑を除いて下さい。」
1026 (ゴータマ・ブッタは答えた)、「無明が頭であると知れ。明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである。」
1027 そこで、その学生は大いなる感激をもって狂喜しつつ、羚羊皮(の衣)を(はずして)一方の肩にかけて、(尊師の)両足に跪いて、頭をつけて礼をした。
1028 (アジタがいった)、「わが親愛なる友よ。バーヴァリ・バラモンは、彼の弟子たちと共に、心に歓喜し悦んで、あなたさま(ブッダ)の足下に礼拝します。眼あるかたよ。」
1029 (ゴータマは答えた)、「バーヴァリ・バラモンも、諸々の弟子も、共に楽しくあれ。
学生よ、そなたもまた楽しくあれ。永く生きよ。
1030 バーヴァリにとっても、そなたにとっても、もしも疑問が起って、心に問おうと欲するならば、何でも質問なさい。」
1031 〔目ざめた人〕(ブッダ)に許されたので、アジタは合掌して坐して、そこで真理体現者(如来)に第一の質問をした。
【2、学生アジタの質問】
1032 アジタさんがたずねた、
「世間は何によって覆われているのですか? 世間は何によって輝かないのですか? 世間をけがすものは何ですか? 世間の大きな恐怖は何ですか? それを説いて下さい。」
1033 師(ブッダ)が答えた、
「アジタよ。世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である、と私は説く。」
1034 「煩悩の流れはあらゆる処に向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎ守るものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いて下さい。」
1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、と私は説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」
1036 アジタさんがいった、「わが友よ。智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか? おたずねしますが、このことを私に説いて下さい。」
1037 アジタよ。そなたが質問したことを、私はそなたに語ろう。識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」
1038 「この世には真理を究め明らめた人々もあり、学びつつある人もあり、凡夫もおります。おたずねしますが、賢者は、どうか彼等のふるまいを語って下さい。わが友よ。」
1039 「修行者は諸々の欲望に耽ってはならない。こころが混濁していてはならない。一切の事物の真相に熟達し、よく気を付けて遍歴せよ。」
【3、学生ティッサ・メッテイヤの質問】
1040 ティッサ・メッテイヤさんがたずねた、
「この世で満足している人は誰ですか? 動揺することがないのは誰ですか? 両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されることがない、聡明な人は誰ですか? あなたは誰を〔偉大な人〕と呼ばれますか? この世で縫う女(妄執)を超えた人は誰ですか?」
1041 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。諸々の欲望に関して清らかな行いをまもり、妄執を離れて、つねに気を付けて、究め明らめて、安らいに帰した修行者、──彼には動揺は存在しない。
1042 彼は両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されない。彼を、私は〔偉大な人〕と呼ぶ。彼はこの世で縫う女(妄執)を超えている。」
【4、学生プンナカの質問】
1043 プンナカさんがたずねた、
「動揺することなく根本を達観せられたあなたに、おたずねしょうと思って、参りました。仙人や常の人々や王室やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのですか? 先生! あなたにおたずねします。それを私に説いて下さい。」
1044 師(ブッタ)は答えた、
「プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、吾等の現在のこのような生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」
1045 プンナカさんがいった、
「先生! およそこの世で仙人や常の人々や王族やバラモンが盛んに神々に犠牲を捧げましたが、祭祀の道において怠らなかった彼等は、生と老衰をのり超えたのでしょうか? わが親愛なる友よ。あなたにおたずねします。それを私に説いて下さい。」
1046 師は答えた、
「プンナカよ。彼等は希望し、称賛し、熱望して、献供する。利得を得ることに縁って欲望を達成しようと望んでいるのである。供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない。彼等は生や老衰をのり超えてはいない、と私は説く。」
1047 プンナカさんがいった、
「もしも供犠に専念している彼等が祭祀によっても生と老衰とを乗り越えていないのでしたら、わが親愛なる友よ、では神々と人間の世界のうちで生と老衰とを乗り越えた人は誰なのですか? 先生! あなたにお尋ねします。それを私に説いて下さい。」
1048 師は答えた、
「プンナカよ。世の中でかれこれ(の状態)を究め明らめ、世の中で何ものにも動揺することなく、安らぎに帰し、煙なく、苦悩なく、望むことのない人、──彼は生と老衰とを乗り越えた、──と、私は説く。」
【5、学生メッタグーの質問】
1049 メッタグーさんがたずねた、
「先生! あなたにおたずねします。このことを私に説いて下さい。あなたはヴェーダの達人、心を修養された方だと私は考えます。世の中にある種々様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現われ出たのですか。」
1050 師(ブッタ)は答えた、
「メッタグーよ。そなたは、私に苦しみの生起するもとを問うた。私は知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。世の中にある種々様々な苦しみは、執著を縁として生起する。」
1051 実に知ることなくして執著をつくる人は愚鈍であり、くり返し苦しみに近づく。だから、知ることあり、苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執著)をつくってはならない。」
1052 「われらがあなたにおたずねしましたことを、あなたはわれらに説き明かして下さいました。あなたに他のことをおたずねしますが、どうかそれを説いて下さい。どのようにしたならば、諸々の賢者は煩悩の激流、生と老衰、憂いと悲しみとを乗り越えるのでしょうか? 聖者さま。どうかそれを私に説き明かして下さい。あなたはこの法則をあるがままに知っておられるからです。」
1053 師が答えた、
「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得されるこの理法を、私はそなたに解いて明かすであろう。その理法を知って、よく気を付けて行い、世間の執著を乗り越えよ。」
1054 偉大な仙人さま。私はその最上の理法を受けて歓喜します。その理法を知って、よく気を付けて行い、世間の執著を乗り越えるでしょう。」
1055 師が答えた、
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。
1056 このようにして、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、わかものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう。」
1057 「偉大な仙人の言葉を聞いて、私は喜びます。ゴータマ(ブッダ)さま。煩悩の要素のない境地がよく説き明かされました。たしかに先生は苦しみを捨てられたのです。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのです。
1058 聖者さま。あなたが懇切に教え導かれた人々もまた今や苦しみを捨てるでしょう。
竜よ。では、私は、あなたの近くに来て礼拝しましょう。先生! どうか、私をも懇切に教えみちびいて下さい。」
1059 「何ものをも所有せず、欲の生存に執著しないバラモン・ヴェーダの達人であるとそなたが知った人、──彼は確かにこの煩悩の激流をわたった。彼は彼岸に達して、心の荒びなく、疑惑もない。
1060 またかの人はこの世では悟った人であり、ヴェーダの達人であり、種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、望むことがない。『彼は生と老衰とを乗り越えた』と私は説く。」
【6、学生ドータカの質問】
1061 ドーカンさんがたずねた、「先生! 私はあなたにおたずねします。このことを私に説いて下さい。偉大な仙人さま。私はあなたのお言葉を頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」
1062 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、よく気を付けて、熱心につとめよ。この(私の口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」
1063 「私は、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。普く見る方よ。私はあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。私を諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」
1064 「ドータカよ。私は世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」
1065 「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えて下さい。私はそれを認識したいのです。私は、虚空のように、乱され濁ることなしに、この世において静まり、依りすがることなく行きましょう。」
1066 師は言われた、
「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気を付けて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」
1067 「偉大な仙人さま。私はその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知ってよく気を付けて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」
1068 師は答えた、
「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執を抱いてはならない」と。
【7、学生ウバシーヴァの質問】
1069 ウバシーヴァさんが尋ねた、
「シャカ族の方よ。私は、独りで他のものに頼ることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。私がたよってこの激流をわたり得る〔拠り所〕をお説き下さい。普く見る方よ。」
1070 師(ブッダ)は言われた、「ウバシーヴァよ。よく気を付けて、無所有をめざしつつ、〔なにも存在しない〕と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」
1071 ウバシーヴァさんがいった、
「あらゆる欲望に対する貪りを離れね無所有に基づいて、その他のものを捨て、最上の〔想いからの解脱〕において解脱した人、──彼は退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」
1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有に基づいて、その他のものを捨て、最上の〔想いからの解脱〕において解脱した人、──彼は退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」
1073 「普く見る方よ。もしも彼がそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、彼はそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用(あとまで)存在するのでしょうか?」
1074 師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」
1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれを私に説明して下さい。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」
1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。彼を、ああだ、こうだと論ずるよすがが、彼には存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」
【8、学生ナンダの質問】
1077 ナンダさんがたずねた、
「世間には諸々の聖者がいる、と世人は語る。それはどうしてですか? 世人は知識をもっている人を聖者と呼ぶのですか? 或いは[簡素な]生活を送る人を聖者と呼ぶのですか?」
1078 (ブッダが答えた)、
「ナンダよ。世のなかで、真理に達した人たちは、(哲学的)見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者とは言わない。(煩悩の魔)軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、──彼等こそ聖者である、と私は言う。」
1079 ナンダさんがいった、
「おおよそこれらの〔道の人〕・バラモンたちは、(哲学的)見解によって、また伝承の学問によっても、清浄になれるとも言います。先生! 彼等はそれにもとずいて自ら制して修行しているのですが、はたして生と老衰とを乗り越えたのでしょうか? ・・・・」
1080 師(ブッダ)は答えた、
「ナンダよ。これらの〔道の人〕・バラモンたちは全て。(哲学的)見解によって清浄になり、また伝承の学問によっても清浄になると説く。戒律や誓いを守ることによっても清浄になると説く。(その他)種々の仕方で清浄になるとも説く。たとい彼等がそれらに基づいて自ら制して行っていても、生と老衰とを乗り越えたのではない、と私は言う。」
1081 ナンダさんがいった、
「およそこれらの〔道の人〕・バラモンたちは、見解によって、また伝承の学問によっても清浄になれると言います。戒律や誓いを守ることによっても清浄になれると言います。(その他)種々の仕方で清浄になれるとも言います。聖者さま。もしあなたが『彼等は未だ煩悩の激流を乗り越えていない』と言われるのでしたら、では神々と人間の世界のうちで生と老衰を乗り越えた人は誰なのですか? 親愛なる先生! あなたにおたずねします。それを私に説いて下さい。」
1082 師(ブッダ)は答えた、
「ナンダよ。私は『全ての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている』と説くのではない。この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々の仕方をもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々──彼等は実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、私は説くのである。」
【9、学生ヘ−マカの質問】
1084 ヘーマカさんがたずねた、
「かってゴータマ(ブッダ)の教えよりも以前に昔の人々が『以前にはこうだった』『未来はこうなるであろう』といって私に説き明かしたことは、全て伝え聞くにすぎません。それは全て思索の紛糺(ふんきゅう)を増すのみ。私は彼等の説を喜びませんでした。
1085 聖者さま。あなたは、妄執を減しつくす法を私にお説き下さい。それを知って、よく気を付けて行い、世間の執著を乗り越えましょう。」
1086 (ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。
1087 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、常に安らぎに帰している。世間の執著を乗り越えているのである」と。
【10、学生トーデイヤの質問】
1088 トーデイヤさんがたずねた、
「諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、諸々の疑惑を超えた人、──彼等はどのような解脱を求めたらよいのですか?」
1089 師(ブッダ)は答えた、
トーデイヤよ。諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、諸々の疑惑を超えた人、──彼には別に解脱は存在しない。」
1090 「彼は願いのない人なのでしょうか? 或いは何かを希望しているのでしょうか? 彼は智慧があるのでしょうか? 或いは智慧を得ようと計らいをする人なのでしょうか? シャカ族の方よ。彼は聖者であることを私が知り得るように、そのことを私に説明して下さい。普く見る方よ。」
1091 [師いわく]、「彼は願いのない人である。彼は何ものをも希望していない。彼は智慧のある人であるが、しかし智慧を得ようと計らいをする人ではない。トーデイヤよ。聖者はこのような人であると知れ。彼は何も所有せず、欲望の生存に執著していない。」
【11、学生カッパの質問】
1092 カッパさんがたずねた、
「極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のために、洲(避難所、拠り所)を説いて下さい。あなたは、この(苦しみ)がまたと起こらないような洲(避難所)を私に示して下さい。親しい方よ。」
1093 師(ブッダ)は答えた、「カッパよ。極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のたの洲(避難所)を、私は、そなたに説くであろう。
1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。
1095 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。彼等は悪魔の従者とはならない。」
【12、学生ジャトゥカンニンの質問】
1096 ジャトゥカンニンさんがたずねた、
「私は、勇士であって、欲望を求めない人がいると聞いて、激流を乗り越えた人(ブッダ)に〔欲のないこと〕をおたずねしようとして、ここに来ました。安らぎの境地を説いて下さい。生まれつき眼のある方よ。先生! それを、あるがままに、私に説いてしださい。
1097 師(ブッダ)は諸々の欲望を制してふるまわれます。譬えば、光輝ある太陽が光輝によって大地にうち克つようなものです。智慧豊かな方よ。智慧の少い私に理法を説いて下さい。それを私は知りたいのです、──この世において生と老衰とを捨て去ることを。」
1098 師(ブッダ)は答えた、
「ジャトゥカンニンよ。諸々の欲望に対する貪りを制せよ。──出離を安穏であると見て。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、何ものも、そなたに存在してはならない。
1099 過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。未来にはそなたに何ものもないようにせよ。中間においても、そなたが何ものにも執著しないならば、そなたはやすらかにふるまう人となるであろう。
1100 バラモンよ。名称と形態とに対する貪りを全く離れた人には、諸々の煩悩は存在しない。だから、彼は死に支配されるおそれがない。」
【13、学生バドラーヴダの質問】
1101 バドラーヴダさんがたずねた、
「執著の住所をすて、妄執を断ち、悩み動揺することがなく、歓喜をすて、激流を乗り越え、既に解脱し、計らいを捨てた賢明な(あなた)に切にお願いします。
1102 健き人よ。あなたのお言葉を聞こうと希望して、多数の人々が諸地方から集まってきましたが、竜(ブッダ)のお言葉を聞いて、人々はここから立ち去るでしょう。彼等のために善く説明してやって下さい。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのですから。」
1103 師(ブッダ)は答えた、
「バドラーヴダよ。上にも下にも横にでも中間にでも、執著する妄執をすっかり除き去れ。世の中の何ものに執著しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る。
1104 それ故に、修行者は明らかに知って、よく気をつけ、全世界において何ものおも執してはならない。──死の領域に愛著を感じているこの人々を〔取る執著ある人々〕であると観て。」
【14、学生ウダヤの質問】
1105 ウダヤさんがたずねた、
「瞑想に入って坐し、塵垢を離れ、為すべきことを為しおえ、煩悩の汚れなく、一切の事物の彼岸に達せられた(師)におたずねするために、ここに来ました。無明を破ること、正しい理解による解脱、を説いて下さい。」
1106 師(ブッダ)は答えた、
「ウダヤよ。愛欲と憂いとの両者を捨て去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨をやめること、
1107 平静な心がまえと念いの清らかさ、──それは真理に関する思索に基づいて起るものであるが、──これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、私は説く。」
1108 「世人は何によって束縛されているのですか? 世人をあれこれ行動させるものは何ですか?何を断ずることによって安らぎ(ニルヴァーナ)があると言われるのですか?」
1109 「世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである。妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。」
1110 「どのように気を付けて行っている人の識別作用が、止滅するのですか? それを先生におたずねするために私はやってきたのです。あなたのそのお言葉をお聞きしたいのです。」
1111 「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気を付けて行っている人、の識別作用が止滅するのである。」
【15、学生ポーサーラの質問】
1112 ポーサーラさんがたずねた、
「過去のことがらを説示し、悩み動揺することなく、疑惑を断ち、一切の事物を究めつくした(師)におたずねするために、ここに来ました。
1113 「物質的な形の想いを離れ、身体をすっかり捨て去り、内にも外にも『何ものにも存在しない』と観ずる人の智を、私はおたずねするのです。シャカ族の方よ。そのような人はさらにどのように導かれねばなりませんか?」
1114 師(ブッダ)は答えた、
「ポーサーラよ。全ての〔識別作用の住するありさま〕を知りつくした全き人(如来)は、彼の存在するありさまを知っている。すなわち、彼は解脱していて、そこを拠り所としていると知る。
1115 無所有の成立するもとを知って、すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って、それをこのとうりであると知って、それから(出て)それについてしずかに観ずる。安立したそのバラモンは、この〔ありさまに知る智〕が存する。」
【16、学生モーガラージャの質問】
1116 モーガラージャさんがたずねた、
「私はかってシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼ある方(釈尊)は私に説明して下さいませんでした。しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』と、私は聞いております。
1117 この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天の世界の者どもも、誉れあるあなたゴータマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。
1118 このように絶妙な見者におたずねしょうとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」
1119 (ブッダが答えた)、
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〔死の王〕は、見ることがない。」
【17、学生ビンギヤの質問】
1120 ビンギヤさんがたずねた、
「私は年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。眼もはっきりしませんし、耳もよく聞こえません。私が迷ったままで途中で死ぬことのないようにして下さい。どうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることができるのですか、そのことわりを説いて下さい。それを私は知りたいのです。」
1121 師(ブッダ)は答えた、
「ビンギヤよ。物質的な形態があるが故に、人々が害われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は(病などに)悩まされる。ビンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態にもどらないようにせよ。」
1122 「四方と四維と上と下と、これらの十方の世界において、あなたに見られず聞かれず考えられずまた識られないものもありません。どうか理法を説いて下さい。それを私は知りたいのです、──どうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることを。」
1123 師は答えた、
「ビンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ビンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」
【18、一六学生の質問の結語】
師(ブッダ)は、マガダ国のパーサーカ霊地にとどまっておられたとき、以上のことを説かれ、(バーヴァリの)門弟である一六人のバラモンに請われ問われる度ごとに、質問に対して解答をのべた。もしもこれらの質問の一つ一つの意義をしり、理法を知り、理法にしたがって実践したならば、老衰と死との彼岸に達するであろう。これらの教えは彼岸に達せしめるものであるから、それ故にこの法門は「彼岸にいたる道」と名づけられている。
1124 アジタと、ティッサ・メッテイヤと、プンナカと、メッタグーと、ドータカと、ウバシーヴァと、またヘーマカと、
1125 トーデーヤとカッパとの両人と、賢者なるジャトゥカンニンと、バドラーヴダと、ウダヤと、ポーサーラ・バラモンと、聡明なモーガラージャと、偉大な仙人であるピンギヤと、──
1126 これらの人々は行いの完成した仙人である目ざめた人(ブッダ)のもとにやってきて、みごとな質問を発して、ブッダなる最高の人に近づいた。
1127 彼等が質問を発したのに応じて、目ざめた人はあるがままに解答された。聖者は、諸々の質問に対して解答することによって、諸々のバラモンを満足させた。
1128 彼等は、太陽の裔である目ざめた人・眼ある者(ブッダ)に満足して、優れた智慧ある人(目ざめた人)のもとで清らかな行いを修めた。
1129 一つ一つの質問に対して〔目ざめた人〕が説かれたように、そのように実践する人は、此岸から彼岸に赴くことであろう。
1130 最上の道を修める人は、此岸から彼岸に赴くであろう。それは彼岸に至るための道である。それ故に〔彼岸にいたる道〕と名づけられる。
1131 ピンギヤさんは(バーヴァリのもとに帰って、復命して)いった、
「〔彼岸に至る道〕を私は読誦しましょう。無垢で叡智豊かな人(ブッダ)は、自ら観じたとおりに説かれました。無欲で煩悩の叢林のない立派な方は、どうして虚妄を語られるでしょうか。
1132 垢と迷いを捨て去って、高慢と隠し立てとを捨てている(ブッダ)の、讃嘆を表わす言葉を、さあ、私は誉めたたえることにしましょう。
1133 バラモンよ。暗黒を払う〔目ざめた人〕(ブッダ)、普く見る人、世間の究極に達した人、一切の迷いの生存を超えた人、汚れのない人、一切の苦しみを捨てた人、──彼は真に〔目ざめた人〕(ブッダ)と呼ばれるにふさわしい人でありますが、私は彼に近侍しました。
1134 たとえば鳥が疎な林を捨てて果実豊かな林に住みつくように、そのように私もまた見ることの少い人々を捨てて、白鳥のように大海に到達しました。
1135 かつてゴータマ(ブッダ)の教えよりも以前に昔の人々が『以前にはこうだった』『未来にはこうなるであろう』といって私に説き明かしたことは、全て伝え聞きにすぎません。それは全て思索の紛糺を増すのみ。
1136 彼は独り煩悩の暗黒を払って坐し、高貴で、光明を放っています。ゴータマは智慧豊かな人です。ゴータマは叡智豊かな人です。
1137 即時に効果の見られる、時を要しない法、すなわち煩悩なき〔妄執の消滅〕、を私に説示しました。彼に比すべき人はどこにも存在しません。」
1138 (バーヴァリがいった)、「ピンギヤよ。そなたはね智慧豊かなゴータマ、叡智豊かなかのゴータマのもとから、瞬時でも離れて住むことができるのか?
1139 彼はまのあたり即時に実現され、時を要しない法、すなわち煩悩なき〔妄執の消滅〕、をそなたに説示した。彼に比すべき人はどこにも存在しない。」
1140 (ピンギヤがいった)、「バラモンさま。私は、智慧豊かなゴータマ、叡智豊かなかのゴータマのもとから、瞬時でも離れて住むことができません。
1141 まのあたり即時に実現される、時を要しない法、すなわち煩悩なき〔妄執の消滅〕、を私に説示されました。彼に比すべき人はどこにも存在しません。
1142 バラモンさま。 私は怠ることなく、昼夜に、心の眼を以て彼を見ています。彼を礼拝しながら夜を過ごしています。ですから、私は彼から離れて住んでいるのではないと思います。
1143 信仰と、喜びと、意と、念いとが、私を、ゴータマの教えから離れさせません。どちらの方角でも、智慧豊かな方のおもむかれる方角に、私は傾くのです。
1144 私は、もう老いて、気力も衰えました。ですから、わが身はかしこに赴くことはできません。しかし想いを馳せて常に赴くのです。バラモンさま。私の心は、彼と結びついているのです。
1145 私は汚泥の中に臥してもがきながら、洲から洲へと漂いました。そうしてついに、激流を乗り超えた、汚れのない〔完全にさとった人〕(正覚者)にお会いしたのです。」
1146 (師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」
1147 (ピンギヤはいった)、「私は聖者の言葉を聞いて、ますます心が澄む(=信ずる)ようになりました。さとった人は、煩悩の覆いを開き、心の荒みなく、明察のあられる方です。
1148 神々に関してもよく熟知して、あれこれ一切のことがらを知っておられます。師は、疑いをいだきまた言を立てる人々の質問を解決されます。
1149 どこにも譬うべきものなく、奪い去られず、動揺することのない境地に、私は確かに赴くことでしょう。このことについて、私には疑惑がありません。私の心がこのように確信して了解していることを、お認め下さい。」
〔彼岸に至る道の章〕 第五 おわる
八回にわたって誦える分量ある聖典のスッタニパータ終る。