utra01第三 大いなる章
【1、出 家】
405 眼ある人(釈尊)はいかにして出家したのであるか、彼はどのように考えたのちに、出家を喜んだのであるか、彼の出家をわれは述べよう。
406 「この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)」と見て、出家されたのである。
407 出家されたのちには、身による悪行をはなれた。言葉による悪行をも捨てて、生活をすっかり清められた。
408 目ざめた人(ブッダ)はマガダ国の(首都)・山に囲まれた王舎城に行った。すぐれた相好にみちた(目ざめた)人は托鉢のためにそこへ赴いたのである。
409 (マガダ王)ビンビサーラは高殿の上に進み出て、彼を見た。すぐれた相好にみちた(目ざめた)人を見て、(侍臣に)このことを語った。
410 「汝ら、この人をみよ。美しく、大きく、清らかで、行いも具わり、眼の前を見るだけである。
411 彼は眼を下に向けて気を付けている。この人は賤しい家の出身ではないようだ。王の使者どもよ、走り追え。この修行者はどこへ行くのだろう。」
412 派遣された王の使者どもは、彼のあとを追って行った。──「この修行者はどこへ行くのだろう。彼はどこに住んでいるのだろう」と。
413 彼は、諸々の感官を制し、よくまもり、正しく自覚し、気をつけながら、家ごとに食を乞うて、その鉢を速やかにみたした。
414 聖者は托鉢を終えて、その都市の外に出て、パンダヴァ山に赴いた。──彼はそこに住んでいるのであろう。
415 [ゴータマ(ブッダ)が自ら]住所に近づいたのを見て、そこで諸々の使者は彼に近づいた。そうして一人の使者は(王城に)もどって、王に報告した、──
416 「大王さま。この修行者はパンダヴァ山の山窟の中に、また獅子のように座しています」と。
417 使者の言葉を聞き終るや、そのクシャトリヤ(ビンビサーラ王)は荘厳な車に乗って、急いでパンダヴァ山に赴いた。
418 かのクシャトリヤ(王)は、車に乗って行ける処まで車を駆り、車から下りて、徒歩で赴いて、彼に近づいて坐した。
419 王は坐して、それから挨拶の言葉を喜び交わした。挨拶の言葉を交わしたあとで、このことを語った。──
420 「あなたは若く青春に富み、人生の初めにある若者です。容姿も端麗で、生れ貴いクシャトリヤ(王族)のようだ。
421 象の群を先頭とする精鋭な軍隊を整えて、私はあなたに財を与えよう。それを享受なさい。私はあなたの生れを問う。これを告げなさい。」
422 (釈尊がいった)、「王さま。あちらの雪山(ヒマーラヤ)の側に、一つの正直な民族がいます。昔からコーサラ国の住民であり、富と勇気を具えています。
423 姓に関しては〔太陽の裔〕といい、種族に関しては〔シャカ族〕(釈迦族)といいます。王さまよ。私はその家から出家したのです。欲望をかなえるためではありません。
424 諸々の欲望に憂いがあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。私の心はこれを楽しんでいるのです。」
【2、つとめはげむこと】
425 ネーランジャラー河の畔にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していた私に、
426 (悪魔)ナムチはいたわりの言葉を発しつつ近づいてきて、言った、あなたは痩せてして、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。
427 あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。君よ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をもなすこともできるのだ。
428 あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火にに供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。
429 つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい」・・・・
430 かの悪魔がこのように語ったときに、尊師(ブッダ)は次のように告げた。
──「怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、
431 私はその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。
432 私には信念があり、努力があり、また知慧がある。このように専心している私に、汝はどうして生命をたもつことを尋ねるのか?
433 (はげみから起る)この風は、河水の流れも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。
434 (身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉が落ちると、心はますます澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心とはますます安立するに至る。
435 私はこのように安住し、最大の苦痛をうけているのであるから、わが心は諸々の欲望にひかれることがない。見よ、心身の清らかなことを。
436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢餓であり、第四の軍隊は妄執といわれる。
437 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、
438 誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己を褒め称えて他人を軽蔑することである。
439 ナムチよ、これは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。勇者でなければ、彼にうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。
440 この私がムンジャ草を取り去るだろうか? (敵に降参してしまうだろうか?)この場合、命はどうでもよい。私は、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。
441 或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。
442 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、私は立ち迎えて彼等と戦おう。私をこの場所から退けることなかれ。
443 神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、私は智慧の力で汝の軍勢をうち破る。──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。
444 自ら思いを制し、よく念い(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。
445 彼等は、無欲となった私の教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。そこに行けば憂えることのない境地に、彼は赴くであろう。」
446 (悪魔はいった)、
「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気を付けている正覚者には、には、つけこむ隙をみつけることができなかった。
447 烏が脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって『ここに柔かいものが見つかるだろうか? 味のよいものがあるだろうか?』といって飛び廻ったようなものである。
448 そこに美味が見つからなかったので、烏はそこから飛び去った。岩石ら近づいたその烏のように、われらは厭いてゴータマ(ブッダ)を捨て去る。」
449 悲しみにうちしおれた悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた。ついで、かの夜叉は意気しょう沈してそこに消え失せた。
【3、みごとに説かれたこと】
私が聞いたところによると、──或るとき尊き師ブッダはサーヴァッティー市のジェータ林、〔孤独な人々に食を給する長者の園〕におられた。その時師は諸々の〔道の人〕に呼びかけられた、「修行僧たちよ」と。「尊き師よ」と、〔道の人〕たちは師に答えた。師は告げていわれた、「修行僧たちよ。四つの特徴を具えた言葉は、みごとに説かれたのである。悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。その四つとは何であるか? 道の人たちよ、ここで修行僧が、[T]みごとに説かれた言葉のみを語り、悪しく説かれた言葉を語らず、[U]理法のみを語って理にかなわぬことを語らず、[V]好ましいことのみを語って、好ましからぬことを語らず、[W]真理のみを語って、虚妄を語らないならば、この四つの特徴を具えている言葉は、みごとに説かれたのであって、悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。」尊き師はこのことを告げた。そのあとでまた、〔幸せな人〕である師は、次のことを説いた。
450 立派な人々は説いた──[T]最上の善い言葉を語れ。(これが第一である。)[U]正しい理を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。[V]好ましい言葉を語れ。好ましからぬ言葉を語るな。これが第三である。[W]真実を語れ。偽りを語るな。これが第4である。
その時ヴァンギーサ長老は座から起ち上がって、衣を一つの肩にかけ(右肩をあらわして)、師(ブッダ)のおられる方に合掌して、師に告げていった、「ふと思い出すことがあります! 幸せな方よ」と。「思い出せ、ヴァンギーサよ」と、師は言われた。そこでヴァンギーサ長老は師の面前で、ふさわしい詩を以て師をほめ称えた。
451 自分を苦しめず、また他人を害しない言葉のみを語れ。これこそ実に善く説かれた言葉なのである。
452 好ましい言葉のみを語れ。その言葉は人々に歓び迎えられる言葉である。感じの悪い言葉を避けて、他人の気に入る言葉のみを語るのである。
453 真実は実に不滅の言葉である。これは永遠の理法である。立派な人々は、真実の上えに、ためになることの上に、また理法の上に安立しているといわれる。
454 安らぎに達するために、苦しみを終減させるために、仏の説きたもうおだやかな言葉は、実に諸々の言葉のうちで最上のものである。
【4、スタンダリカ・バーラドヴァージャ】
私が聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)はコーサラ国のスンダリカー河の岸に滞在しておらめれた。ちょうどその時に、バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、スンダリカー河の岸辺で聖火をまつり、火の祀りを行なった。さてバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、聖火をまつり、火の祀りを行なったあとで、座から立ち、普く四方を眺めていった、──「この供物のおさがりを誰にたべさせようか。」
バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、遠からぬ処で尊き師(ブッダ)が或る樹の根もとで頭まで衣をまとって坐っているのを見た。見おわってから、左手で供物のおさがりをもち、右手で水瓶をもって師のおられる処に近づいた。そこで師は彼の足音を聞いて、頭の覆いをとり去った。その時バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは「この方は頭を剃っておられる。この剃髪者である」といって、そこから戻ろうとした。そうして彼はこのように思った、「この世では、或るバラモンたとは、頭を剃っているということもある。さあ、私は彼に近づいてその生れ(素姓)を聞いてみよう」と。
そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは師のおられる処に近づいた。それから師にいった、「あなたの生まれは何ですか?」と
そこで師は、バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャに詩を以て呼びかけた。
455 「私はバラモンではないし、王族の者でもない。私はヴァイシヤ族(庶民)の者でもないし、また他の何ものでもない。
456 私は家なく、重衣を着け、髭髪(ひげかみ)を剃り、こころを安らかならしめて、この世で人々に汚されることなく、歩んでいる。
バラモンよ。あなたが私に姓をたずねるのは適当でない。」
457 「バラモンはバラモンと出会ったときは、『あなたはバラモンではあられませんか?』とたずねるものです。」
「もしもあなたが自らバラモンであるというならば、バラモンでない私に答えなさい。私は、あなたに三句二十四字より成るかのサーヴィトリー讃歌のことをたずねます。」
458 「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」
(師が答えた)、「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、と私は説く。」
459 バラモンがいった、「私はヴェーダの達人であるこのような立派な方にお目にかかったのですから、実にその方に対する(私の)献供はきっと効果があるでしょう。(以前には)あなたのような方にお目にかからなかったので、他の人が献供の菓子(のおさがり)を食べていたのです。」
460 (師が答えた)、「それ故に、バラモンよ、あなたは求める処あってきたのであるから、こちらに近づいて問え。恐らくここに、平安で、(怒りの)煙の消えた、苦しみなく、欲求のない聡明な人を見出すであろう。」
461 (バラモンがいった)、「ゴータマ(ブッダ) さま。私は祭祀を楽しんでいるのです。祭祀を行おうと望むのです。しかし私ははっきりとは知っていません。あなたは私に教えて下さい。何にささげた献供が有効であるかを言って下さい。」
(師が答えた)、「では、バラモンよ、よく聞きなさい。私はあなたに理法を説きましょう。
462 生れを問うことなかれ。行いを問え。火は実にあらゆる薪から生ずる。賤しい家に生まれた人でも、聖者として道心堅固であり、恥を知って慎むならば高貴のの人となる。
463 真実もて自ら制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らか行いを修めた人、──そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
464 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よく自ら慎んで、梭のよえに真直ぐな人々、──そのような人々にそこ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
465 貪欲を離れ、諸々の感官を静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われることのない)人々──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
466 執著することなくして、常に心をとどめ、我が物と執したものを(全て)捨て去って、世の中を歩き廻る人々、──そのよえな人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
467 諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子わ受けるにふさわしい。
468 全き人(如来)は、平等なるもの(過去の目ざめた人々、諸仏)と等しくして、平等ならざる者どもから遙かに遠ざかっている。彼は無限の智慧あり、この世でもかの世でも汚れに染まることがない。〔全き人〕(如来)はお供えの菓子を受けるにふさわしい。
469 偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、我が物として執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
470 こころの執著を既に断って、何らとらわれる処がなく、この世についてもかの世についてもとらわれることがない〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
471 こころをひとしく静かにして激流をわたり、最上の知見によって理法を知り、煩悩の汚れを滅しつくして、最後の身体をたもっている〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
472 彼は、生存の汚れも、荒々しい言葉も、除き去られ滅びてしまって、存在しない。彼はヴェーダに通じた人であり、あらゆることがらに関して解脱している〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
473 執著を超えていて、執著をもたず、慢心に囚われている者どものうちにあって慢心にとらわれることなく、畑及び地所(苦しみの起る因縁)と共に苦しみを知りつくしている〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
474 欲望にもとづくことなく、遠ざかり離れることを見、他人の教える異なった見解を超越して、何らこだわってとらわれることのない〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
475 あれこれ一切の事物をさとって、それらが除き去られ滅びてしまって存在しないで、へいう平安に帰し、執著を滅ぼしつくして解脱している〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
476 煩悩の束縛と迷いの生存への生れかわりとが滅び去った究極の境地を見、愛欲の道を断って余す処なく、清らかにして、過ちなく、汚れなく、透明である〔全き人〕(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。
477 自己によって自己を観じ(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、自ら安立し、動揺することなく、疑惑のない(全き人)(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。
478 迷妄に基づいて起る障りは何ら存在せず、あらゆることがらについて智見あり、最後の身体をたもち、めでたい無上のさとりを得、──これだけでも人の霊(タマシイ)は清らかとなる。──(全き人)(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。」
479 「あなたのようなヴェーダの達人にお会いできたのですから、わが供物は真実の供物であれかし。梵天こそ証人としてみそなわせ。先生! ねがわくは私から受けて下さい。先生! ねがわくはわがお供えの菓子を召し上がって下さい。」
480 「詩を唱えて得たものを、私は食うてはならない。バラモンよ、これは正しく見る人々(目ざめた人々、諸仏)のなすきまりではない。詩を唱えて得たものを目ざめた人々(諸仏)は斥けたもう。バラモンよ。このきまりが存するのであるから、これが(目ざめた人々、諸仏の)行いの仕方(実践法)である。
481 全き者である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪行による悔恨の消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者(福)田であるからである。」
482 「先生! 私のような者の施しを受け得る人、祭祀の時に探し求めて供養すべき人、を私は──あなたの教えを受けて──どうか知りたいのです。」
483 「争いを離れ、心に濁りなく、諸々の欲望を離脱し、ものうさ(無気力)を除き去った人、
484 限界を超えたもの(煩悩)を制し、生死を究め、聖者の特性を身に具えたそのような聖者が祭祀のために来たとき、
485 彼に対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌して彼を礼拝せよ。飲食物をささげて、彼を供養せよ。このような施しは、成就して果報をもたらす。」
486 「目ざめた人(ブッダ)であるあなたさまは、お供えの菓子を受けるにふさわしい。あなたは最上の福田であり、全世界の布施を受ける人であります。あなたにさし上げた物は、果報が大きいです。」
そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、尊き師にいった、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです、ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方向に迷った者に道を示すように、或いは『眼ある人々は色や形を見るであろう』といって暗闇の中に灯火を掲げるように、ゴータマさまは種々の仕方で理法を明らかにされました。だから、私はゴータマさまに帰依したてまつる。また法と修行僧のつどい帰依したてまつる。私はゴータマさまのもとで出家し、完全な戒律(具足戒)を受けたいものです。」
そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、師のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、このスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは独りで他から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、無上の清らかな行いの究極──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──を現世において自らさとり、証し、具現して、日を送った。「生まれることは尽きた。清らかな行いは既に完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そうしてスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは聖者の一人となった。
【5、マーガ】
私が聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ) は、王舎城の〔鷲の峰〕という山におられた。その時マーガ青年は師のおられる処に赴いた。そこに赴いて師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶の言葉を交したのち、彼等は傍らに坐した。そこでマーガ青年は師に言った、──
「ゴータマ(ブッダ)さま。私は実に、与える人、施主であり、寛仁にして、他人からの施しの求めに応じ、正しい法によって財を求めます。そのあとで、正しい法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、二人にも与え、三人にも与え、四人にも与え、五人にも与え、六人にも与え、七人にも与え、八人にも与え、九人にも与え、十人にも与え、二十人にも与え、三十人にも与え、四十人にも与え、五十人にも与え、百人にも与え、さらに多くの人にも与えます。ゴータマさま。私がこのように与え、このようにささげるならば、多くの福徳を生ずるでしょうか。」
「青年よ。実にあなたはそのように与え、そのようにささげるならば、、多くの福徳を生ずる。誰であろうとも、実に、与える人、施主であり、寛仁にして、施しの求めに応じ、正しい法によって財わ求め、そのあとで、法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、さらにつづいては百人にも与え、さらに多くの人にも与える人は、多くの福徳を生ずるのである。」
487 マーガ青年がいった、「袈裟を着け家なくして歩む寛仁なるゴータマさまに、私はお尋ねします。この世で、施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をめざして供物をささげ、他人に飲食物を与える人が、祀りを実行するときには、何者にささげた供物が清らかとなるのでしょうか。」
488 尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳を求め福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受けるにふさわしい人々と共に目的を達成することになるであろう。」
489 マーガ青年はいった、「施しの求めに応ずる在家の施主、福徳を求め福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるに当って、〔まさに施与を受けるにふさわしい人々〕のことを私に説いて下さい。先生!」
490 実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した〔全き人〕がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささけよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
491 一切の結び・縛めを断ち、自ら慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささけよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
492 一切の結び・縛めから解き放たれ、自ら慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
493 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを減しつくし、清らかな行いを修めている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
494 偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、我が物として執することなく、欲望をもたぬ人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
495 実に諸々の愛執に耽らず、既に激流をわたりおわって、我が物という執著なしに歩む人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
496 この世でもかの世でも、いかなる世界についても、移りかわる生存への妄執の存在しない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
497 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よく自ら制して、梭のように真直ぐな人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
498 欲望を離れ、諸々の感官をよく静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われることのない)人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
499 安らぎに帰して、貪欲を離れ、怒ることなく、この世で(生存の諸要素を)捨て去ってもはや(迷いの生存)に行く道のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
500 生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
501 自己を洲(拠り所)として世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解脱している人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
502 『これは(私の)最後の生存であり、もはや再び生を享けることはない』ということを、この世で如実にしっている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
503 ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ、落ち着いて気を着けていて、全きさとりに達し、多くの人々に帰依されている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。
504 (マーガがいった)、「実に私の質問はむだではありませんでした。尊き師は、まさに施与を受けるにふさわしい人々のことを、私に説いて下さいました。先生! あなたはこの世で全てのことがらを如実にしっておられます。あなたはこの理法を知っておられるからです。」
505 マーガ青年が(さらにつづけて)いった、「この世で施しの求めに応ずる在家の施主、福徳を求め福徳をめざして供物をささげる人が、他人に飲食を与えるに当って、どうしたならば祀りが成功成就するかということを私に説いて下さい。先生!」
506 尊き師(ブッダ)は答えた、「マーガよ。祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清らしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。彼はここに安立して邪悪を捨てる。
507 彼は貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起して、日夜つねに怠らず、無量の(慈しみの)心をあらゆる方角にみなぎらせる。」
508 (マーガがいった)、「誰が清らかとなり、解脱するのですか? 誰が縛せられるのですか? 何によってひとは自ら梵天界に至るのですか? 聖者よ、お尋ねしますが、私は知らないのですから、説いて下さい。尊き師は、私の〔あかし〕です。私は今梵天をまのあたり見たのです。真にあなたはわれわれにとっては梵天に等しいかただからです。光輝ある方よ。どうしたならば、梵天界に生まれるのでしょうか?」
509 尊き師は答えた、「マーガよ。三種の条件を具えた完全な祀りを実行するそのような人は、施与を受けるにふさわしい人々を喜ばせる。施しの求めに応ずる人が、このように正しく祀りを行うならば、梵天界に生まれる、と、私は説く。」
このように説かれたときに、マーガ青年は師にいった、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、或いは『眼ある人々は色や形を見るであろう』といって暗闇の中で灯火を掲げるように、ゴータマさま種々の仕方で真理を明らかにされました。だから、私はゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。ゴータマさまは私を在家信者として受け入れて下さい。今日から命の続く限り帰依いたします。」
【6、サビヤ】
私が聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)は王舎城の竹園林にある栗鼠飼養の所に住んでおられた。その時遍歴の行者サビヤに、昔の血縁者であるが(今は神となっている)一人の神が質問を発した、──「サビヤよ。〔道の人〕であろうとも、バラモンであろうとも、汝が質問したときに明確に答えることのできる人がいるならば、汝はその人のもとで清らかな行いを修めなさい」と。そこで遍歴の行者サビヤは、その神からそれらの質問を受けて、次の[六師]のもとに至って質問を発した。すなわちプーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリ、パクダ・カッチャーヤナ、ベッラーッティ族の子であるサンジャヤ、ナータ族の子であるニガタとであるが、彼は〔道の人〕或いはバラモンであり、衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められていた。
[しかるに]彼等は、遍歴の行者サビヤに質問されても、満足に答えることができなかった。そうして、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわしたのみならず、かえって遍歴の行者サビヤに反問した。そこで遍歴の行者サビヤはこのように考えた、「これらの〔道の人〕またはバラモンであられる方々は衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。彼等、すなわちプーラナ・カッサパからさらについにナータ族の子であるニガンタに至るまで人々は、私に質問されても、満足に答えることが出来なかった。満足に答えることができないで、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわにしたのみならず、私に反問した。さあ、私は低く劣った状態(在俗の状態)に戻って諸々の欲望を享楽することにしょう」と。
その時遍歴の行者サビヤはまたこのように考えた、「ここにおられる〔道の人〕ゴータマもまた衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。さあ、私は〔道の人〕ゴータマに近づいて、これらの質問を発することにしよう」と。
さらに遍歴の行者であるサビヤは次のように考えた、「ここにおられる〔道の人〕・バラモンがたは、年老いて、年長け、老いぼれて、年を重ね、老齢に達しているが、長老であり、経験を積み、出家してから既に久しく、衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。すなわちプーラナ・カッサパからさらにナータ族の子ニガンダに至るまでの人々であるが、彼等はね私に質問それても、満足に答えることができなかった。満足に答えられないで、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわしたのみならず、かえってそこで私に反問した。〔道の人〕ゴータマは私の発したこれらの質問に明確に答え得るであろうか。〔道の人〕ゴータマは生年も若いし、出家したのも新しいことだからである」と。
次いで遍歴の行者サビヤはこのように考えた、「〔道の人〕は若いからといって侮ってはならない。軽蔑してはならない。たとい彼が若い〔道の人〕であっても、彼は大神通があり、大威力がある。さあ、私は〔道の人〕ゴータマのもとに赴いて、この質問を発してみよう」と。
そこで遍歴の行者サビヤは王舎城に向かって順次に歩みを進め、王舎城の竹園林にある栗鼠飼養所におられる尊き師(ブッダ)のもとに赴いた。そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶の言葉を交わしたのち、彼は傍らに坐した。それから遍歴の行者サビヤは師に詩を以て呼びかけた。──
510 サビヤがいった、「疑いがあり、惑いがあるので、私は質問しょうと願って、ここに来ました。私のためにそれを解決して下さい。私が質問したならば、順次に、適切に、明確に答えて下さい。」
511 師は答えた、「サビヤよ。あなたは質問しようと願って、遠くからやって来ましたね。あなたのために、それを解決してあげましょう。あなたが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えましょう。
512 サビヤよ。何でも心の中で思っていることを、私に質問なさい。私は一つ一つ質問を解決してあげましょう。」
その時遍歴の行者であるサビヤはこのように考えた、「まことにすばらしいことだ。まことに珍しいことだ、──私が他の〔道の人〕たち、バラモンたちの処では機会さえも得られなかったのに、道の人ゴータマがこの機会を与えてくれた」と。彼は、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、師に質問した。
513 サビヤがいった、「〔修行僧〕とは何ものを得た人のことをいうのですか? 何によって〔温和な人〕となるのですか? どのようにしたならば、〔自己を制した人〕と呼ばれるのですか? どうして〔目ざめた人〕(ブッダ)と呼ばれるのですか? 先生! おたずねしますが、私に説明して下さい。」
514 師は答えた、「サビヤよ。自ら道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人、──彼が〔修行僧〕である。
515 あらゆることがらに関して平静であり、こころを落ち着け、全世界のうちで何ものをも害うことなく、流れをわたり、濁りなく、情欲の昂まり増すことのない〔道の人〕、──彼は〔温和な人〕である。
516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──彼は(自己を制した人)である。
517 あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、──彼を(目ざめた人)(ブッダ)という」
そこで、遍歴の行者であるサビヤは、師の説かれたことをよろこび、随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。
518 サビヤがいった、「何を得た人を〔バラモン〕と呼ぶのですか? 何によって〔道の人〕と呼ぶのですか? どうして〔沐浴をすませた者〕と呼ぶのですか? どうして〔竜〕と呼ぶのですか? 先生! おたずねしますが、私に説明して下さい。」
519 師が答えた、「サビヤよ。一切の悪を斥け、汚れなく、よく心をしずめ持って、自ら安立し、輪廻を超えて完全な者となり、こだわることのない人、──このような人は〔バラモン〕と呼ばれる。
520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、──このような人がきさにその故に〔道の人〕と呼ばれる。
521 全世界のうちで内面的にも外面的にも一切の罪悪を洗い落とし、時間に支配される神々と人間とのうちにありながら妄想分別におもむかない人、──彼を(沐浴をすませた者)と呼ぶ。
522 世間のうちにあっていかなる罪悪をもつくらず、一切の結び目・束縛を捨て去り、いかなることにもとらわれることなく解脱している人、──このような人はまさにその故に〔竜〕とよばける。」
そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。
523 サビヤがいった、「諸々の目ざめた人(ブッダ)は誰を〔田の勝者〕と呼ぶのですか? 何によって巧みなのですか? どうして〔賢者〕なのですか? どうして〔聖者〕と呼ばれるのですか? 先生! おたずねしますが、私に説明して下さい。」
524 師が答えた、「サビヤよ。天の田・梵天の田という一切の田を弁別して、一切の田の根本の束縛から離脱した人、──このような人がまさにその故に〔田の勝者〕と呼ばれるのである。
525 天の蔵・人の蔵・梵天の蔵なる一切の蔵を弁別して、一切の蔵の根本の束縛から離脱した人、──このような人がまさにその故に(巧みな人)とよばれるのである。
526 内面的にも外面的にも二つながらの白く浄らかなものを弁別して、清らかな知慧あり、黒と白(善悪業)を超越した人はまさにその故に(賢者)と呼ばれる。
527 全世界のうちで内面的にも外面的にも生邪の道理を知っていて、人間と神々の崇敬を受け、執著の網を超えた人、──彼は〔聖者〕である。」
そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。
528 サビヤがいった、「何を得た人を〔ヴェーダの達人〕とよぶのですか? 何によって〔知りつくした人〕となるのですか? いかにして〔勤め励む者〕となるのですか? 〔育ちの良い人〕とはそもそも何ですか? 先生! おたずねしますが、どうか私に説明して下さい。」
529 師が答えた、「サビヤよ、道の人ならびにバラモンどもの有する全てのヴェーダを弁別して、一切の感受したものに対する貪りを離れ、一切の感受を超えている人、←彼は〔ヴェーダの達人〕である。
530 内的には差別的〔妄想とそれにもとづく名称と形態〕とを究め知って、また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に〔知りつくした人〕と呼ばれるのである。
531 この世で一切の罪悪を離れ、地獄の責苦を超えて努め励む者、精励する賢者、──そのような人が〔勤め励む者〕と呼ばれるのである。
532 内面的にも外面的にも執著の根源である諸々の束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に〔育ちの良い人〕と呼ばれるのである。」
そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。
533 サビヤがいった、「何を得た人を〔学識ある人〕と呼ぶのですか? 何によって〔すぐれた人〕となるのですか? またいかにして〔行いの具わった人〕となるのですか? 〔遍歴行者〕とはそもそも何ですか? 先生! おたずねしますが、私に説明して下さい。」
534 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のないありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、〔学識のある人〕と呼ぶ。
535 諸々の汚れと執著の拠り所を断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、──彼を〔すぐれた人〕と呼ぶ。
536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──彼は〔行いの具わった人〕である。
537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと〔名称と形態〕(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──彼を〔遍歴の行者〕と呼ぶ。」
そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、座から起ち上って、上衣を一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌して、ふさわしい詩を以て目のあたり師を讃嘆した。
538 「智慧豊かな方よ。諸々の〔道の人〕の論争にとらわれた、名称と文字と表象とに基づいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたのたもうた。
539 あなたは苦しみを滅ぼし、彼岸に達せられた方です。あなたは真の人(拝まれる人)です。あなたは完全にさとりを開かれた方です。あなたは煩悩の汚れを滅ぼされた方だと思います。あなたは光輝あり、理解あり、智慧豊かな方です。苦しみを滅ぼした方よ。あなたは私を救って下さいました。
540 あなたは私に疑惑のあるのを知って、私の疑いをはらして下さいました。私はあなたに敬礼します。聖者の道の奥をきわめた人よ。心に荒みなき、太陽の末裔よ。あなたはやさしい方です。
541 私が昔抱いていた疑問をあなたははっきりと説き明して下さいました。眼ある方よ。聖者よ。まことにあなたは〔さとりを開いた人〕です。あなたは、妨げの覆いがありません。
542 あなたの悩み悶えは、全て破られ断たれています。あなたは清涼となり、身を制し、堅固で、誠実に行動する方です。
543 象の中の象王であり偉大な英雄であるあなたが説くときには、全て神々は、ナーラダ、パッバタの両[神群]と共に随喜します。
544 尊い方よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。神々を含めた全世界のうちで、あなたに比べられる人はおりません。
545 あなたは覚った人です。あなたは師です。あなたは悪魔の征服者です、賢者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、自ら[彼岸に]渡りおわり、またこの人々を渡すのです。
546 あなたは生存の要因を超越し、諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます、あなたは獅子です。何ものにもとらわれず、恐れおののきを捨てておられます。
547 麗しい百蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。サビヤは師を礼拝します。」
そこで、遍歴の行者サビヤは尊き師(ブッダ)の両足に頭をつけて礼して、言った、──「すばらしいことです、譬えば倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、或いは『眼ある人々は色や形を見るであろう』といって暗闇の中で灯火を掲げるように、ゴータマさま種々の仕方で真理を明らかにされました。ここで私はゴータマ(ブッダ)さまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。私は師のもとで出家したいのです。完全な戒律を受けたいのです。」
(師はいわれた)、「サビヤよ。かって異説の徒であった者が、この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、完全な戒律を受けようと望むならば、彼は四カ月の間別に住む。四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧は彼を出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせる。しかしこの場合は、人によって(期間の)差異のあることが認められる。」
「尊いお方さま。もしもかつて異説の徒であった者が、この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、完全な戒律を受けようと望むならば、彼は四カ月の間別に住み、四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧が彼を出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせるのであるならば、私は(四カ月ではなくて)、四年間別に住みましょう。そうして四年たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧は私を出家させて、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせて下さい。」
さて遍歴の行者サビヤは(直ちに)師のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、この長者サビヤは独りで他人から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、やがて無上の清らかな行いの究極──諸々の立派に人々はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──を現世において自らさとり、証し、具現して日を送った。
「生まれることは尽きた。清らかな行いは既に完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。
【7、セーラ】
私が聞いたところによると、──或るとき師は大勢の修行僧千二百五十人と共にアングッタラーパ[という地方]を遍歴して、アーバナと名づけるアングッタラーパの或る町に入られた。結髪の行者ケーニヤはこういうことを聞いた、「シャカ族の子である〔道の人〕ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、修行僧千二百五十人の大きなつどいと共に、アングッタラーパを遍歴して、アーバナに達した。そのゴータマさまには、次のような好い名声があとずれている。──すなわち、かの師は、真の人・さとりを開いた人・明知と行いを具えた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊い師であるといわれる。彼は、自らさとり、体得して、神々・悪魔・梵天を含むこの世界や〔道の人〕・バラモン・神々・人間を含む生けるものどもに教えを説く。
彼は、初めも善く、中ほども善く、終りも善く、意義も文字もよく具わっている教えを説き、完全円満で清らかな行いを説き明かす、と。ではそのような立派な尊敬さるべき人ら見えるのは幸せ、みごとな善いことだ。」
そこで結髪の行者ケーニヤは師のおられる処に赴いた。そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶の言葉を交わしたのち、彼は傍らに坐した結髪の行者ケーニヤに対して師は法に関する話を説いて、指導し、元気づけ、喜ばされた。結髪の行者ケーニヤは、師に法に関する話を説かれ、指導され、元気づけられ、喜ばされて、師にこのように言った、「ゴータマさまは修行僧の方々と共に、明日私のささげる食物をお受け下さい。」
そのように告げられて、師は結髪の行者ケーニヤに向かって言われた、「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」
結髪の行者ケーニヤは再び師に言った、「ゴータマさま。修行僧の方々は大勢で、千二百五十人もいるし、また私はバラモンがたを信奉していますが、しかしゴータマさまは修行僧の方々と共に、明日私のささげる食物をお受け下さい。」
師は結髪の行者ケーニヤに再び言われた、「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」
結髪の行者ケーニヤは三たび師に言った、「ゴータマさま。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいるし、また私はバラモンがたを信奉していますが、しかしゴータマさまは修行僧の方々と共に、明日私のささげる食物をお受け下さい。」師は沈黙によって承諾された。
そこで結髪の行者ケーニヤは、師が承諾されたのを知って、座から起って、自分の庵に赴いた。それから、友人・朋輩・近親・親族に告げていった、「友人・朋輩・近親・親族の皆さん。私の言葉をお聞きなさい。私は〔道の人〕ゴータマを修行僧の方々と共に、明日の食事に招待しました。だから皆さんは、身を動かして私に手伝って下さい。」
結髪の行者ケーニヤの友人・朋輩・近親・親族は、「承知しました」と、彼に答えて、或る者は竈の坑を掘り、或る者は薪を割り、或る者は器を洗い、或る者は水瓶を備えつけ、或る者は座席を設けた。また結髪の行者ケーニヤは自ら(白い帳を垂れた)円い集会場をしつらえた。
ところでその時セーラ・バラモンはアーバナに住んでいたが、彼は三ヴェーダの奥義に達し、語彙論・活用論・音韻論・語源論(第四のアタルヴァ・ヴェーダと)第五としての史詩に達し、語句と文法に通じ、順世論や偉人の観相に通達し、三百人の少年にヴェーダの聖句を教えていた。その時結髪の行者ケーニヤはセーラ・バラモンを信奉していた。
ときにセーラ・バラモンは三百人の少年に取り巻かれていたが、(長く坐っていたために生じた疲労を除くために)膝を伸ばす散歩をし、あちこち歩んでいたが、結髪の行者ケーニヤの庵に近づいた。そこでセーラ・バラモンは、ケーニヤの庵に属する結髪の行者たちが、或る者は竈の坑を掘り、或る者は薪を割り、或る者は器を洗い、或る者は水瓶を備えつけ、或る者は座席を設け、また結髪の行者ケーニヤは自ら円い集会場をしつらえているのを見た。見てから結髪の行者ケーニヤに問うた、「ケーニヤさんは息子の嫁取りがあるのでしょうか? 或いは息女の嫁入りがあるのでしょうか? 大きな祭祀が近く行われるのですか? 或いはマガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊と共に明日の食事に招待されたのですか?」
「セーラよ。私には息子の嫁取りがあるのでもなく、息女の嫁入りがあるのでもなく、マガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊と共に明日の食事に招かれているのでもありません。そうではなくて、私は近く大きな祭祀を行うことになっています。シャカ族の子・道の人ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、アングッタラーパ国を遊歩して、大勢の修行僧千二百五十人と共にアーバナに達しました。そのゴータマさまには次のような好い名声がおとずれている。──すなわち、かの師は、真の人・さとりを開いた人・明知と行いを具えた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊き師であるといわれる。私はあの方を修行僧らと共に明日の食事に招きました。」
「ケーニヤさん。あなたは彼を〔目ざめた人〕(ブッダ)と呼ぶのか?」
「セーラさん。私は彼を〔目ざめた人〕と呼びます。」
「ケーニヤさん。あなたは彼を〔目ざめた人〕と呼ぶのか?」
「セーラさん。私は彼を〔目ざめた人〕と呼びます。」
その時セーラ・バラモンは心に思った。「〔目ざめた人〕という語を聞くことは、世間においては難しいのである。ところでわれわれの聖典の中に偉人の相が三十二伝えられている。それを具えている偉人にはただ二つの途があるのみで、その他の途はありえない。[第一に]もしも彼が在家の生活を営むならば、彼は転輪王となり、正義を守る正義の王として四方を征服して、国土人民を安定させ、七宝を具有するに至る。すなわち彼は輪という宝・象という宝・馬という宝・珠という宝・資産者という宝・及び第七に指揮者という宝が現われるのである。また彼には千人以上の子があり、皆勇敢で雄々しく、外敵をうち砕く。彼は、四海の果てるに至るまで、この大地を武力によらず刀剣を用いずに、正義によって征服して支配する。[第二に]しかしながら、もしも彼が家から出て出家者となるならば、真の人・覚りを開いた人となり、世間における諸々の煩悩の覆いをとり除く」と。
「ケーニヤさん。では真の人・覚りを聞いた人であられるゴータマさまは、いまどこにおられるのですか?」
彼がこのように言ったときに、結髪の行者ケーニヤは、右腕を差し伸ばして、セーラ・バラモンに告げていった、「セーラさん。この方角に当って一帯の青い林があります。(そこにゴータマさまはおられるのです)。」
そこでセーラ・バラモンは三百人の少年と共に師のおられる処に赴いた。その時セーラ・バラモンはそれらの少年たちに告げていった、「君たちは(急がすに)小股に歩いて、響きを立てないで来なさい。諸々の尊き師は獅子のように独り歩む者であり、近づきがたいからです。そうして私が〔道の人〕ゴータマと話しているときに、君たちは途中で言葉を挿んではならない。君たちは私の話が終るのを待て。」
さてセーラ・バラモンは尊き師のおられる処に赴いた。そこで、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶の言葉を交わしたのち、彼は傍らに坐した。それから、セーラ・バラモンは師の身に三十二の〔偉人の相〕があるかどうかを探した。セーラ・バラモンは、師の身体に、ただ二つの相を除いて、三十二の偉人の相が殆んど具わっているのを見た。ただ二つの〔偉人の相〕に関しては、(それらがはたして師にあるかどうかを)彼は疑い惑い、(〔目ざめた人(ブッダ)〕)であるということを)信用せず、信仰しなかった。その二つとは体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相とである。
その時師は思った、「このセーラ・バラモンはわが身に三十二の偉人の相を殆んど見つけているが、ただ二つの相を見ていない。ただ体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相という二つの偉人の相に関しては、(それらがはたして私の身にあるかどうかを)彼は疑い惑い、(目ざめた人(ブッダ)であるということを)信用せず、信仰してしない」と。
そこで師は、セーラ・バラモンが師の体の膜の中におさめられた隠所を見得るような神通を示現した。次に師は舌を出し、舌で両耳孔を上下になめまわし、両耳孔を上下になめまわし、前の額を一面に舌で撫でた。
そこでセーラ・バラモンは思った、──「道の人ゴータマは三十二の偉人の相を完全に身に具えていて、不完全ではない。しかし私は、『彼がブッダであるか否か』ということをまだ知らない。ただ私は、年老い齢高く師またはその師であるバラモンたちが『諸々の〔尊敬さるべき人、完全な覚りを開いた人〕は、自分が讃嘆されるときには、自身を示現する』と語るのを聞いたことがある。さあ、私は、適当な詩を以て、〔道の人〕ゴータマ(ブッダ)をその面前において讃嘆しましょう」と。そこでセーラ・バラモンはふさわしい詩を以て尊き師をその面前において讃嘆した。──
548 「先生! あなたは身体が完全であり、よく輝き、生れも良く、見た目も美しい。黄金の色があり、歯は極めて白い。あなたは精力ある人です。
549 実に、生れの良い人の具えるすがた・形は、全て、偉人の相として、あなたの身体のうちにあります。
550 あなたは、眼が清らかに、容貌も美しく、(身体は)大きく、真っ直ぐで、光輝あり、〔道の人〕の群の中にあって、太陽のように輝いています。
551 あなたは見るも美しい修行者(比丘)で、その膚は黄金のようです。このように容色が優れているのに、どうして〔道の人〕となる必要がありましょうか。
552 あなたは転輪王(世界を支配する帝王)となって、戦車兵の主となり、四方を征服し、ジャンブ州(全インド)の支配者となるべきです。
553 クシャトリヤ(王侯たち)や地方の王どもは、あなたに忠誠を誓うでしょう。ゴータマ(ブッダ)よ。王の中の王としてね人類の帝王として、統治をなさって下さい。」
554 師(ブッダ)は答えた、「セーラよ。私は王ではありますが、無上の真理の王です。真理によって輪をまわすのです。──(だれも)反転しえない輪を。」
555 セーラ・バラモンがいった、「あなたは〔完全にさとった者〕であると、自ら称しておられます。ゴータマ(ブッダ)よ。あなたは『われは〔無上の真理の王〕であり、法によって輪をまわす』と説いておられます。
556 では、誰が、あなたの将軍なのですか? 師の相続者である弟子は、誰ですか? あなたがまわされたこの〔真理の輪〕を、誰が(あなたに)つづいてまわすのですか?」
557 師が答えた、「セーラよ。私がまわした輪、すなわち無上の〔真理の輪〕(法輪)を、サーリプッタがまわす。彼は〔全き人〕につづいて出現した人です。
558 私は、知らねばならぬことを既に知り、修むべきことを既に修め、断つべきことを既に断ってしまった。それ故に、私は〔さとった人〕(ブッダ)である。バラモンよ。
559 私に対する疑惑をなくせよ。バラモンよ。私を信ぜよ。諸々の〔さとりを開いた人〕に、しばしば見えることは、いとも難しい。
560 彼は(さとりを開いた人々)が、しばしば世に出現することは、そなたらにとって、いとも得がたいことであるが、私は、その〔さとった人〕なのである。バラモンよ、私は(煩悩の)矢を抜き去る最上の人である。
561 私は神聖な者であり、無比であり、悪魔の軍勢を撃破し、あらゆる敵を降服させて、何ものをも恐れることなしに喜ぶ。」
562 (セーラは弟子どもに告げていった)、──「君達よ。眼ある人の語るところを聞け。彼は(煩悩の)矢を断った人であり、偉大な健き人である。あたかも、獅子が林の中で吼えるようなものである。
563 神聖な者、無比なる者、悪魔の軍勢を撃破する者、を見ては、だれが信ずる心をいだかないであろうか。たとい、色の黒い種族の生れの者でも、(信ずるであろう)。
564 従おうと欲する者は、われにわれに従え。また従いたくない者は、去れ。私もすぐれた智慧ある人のもとで出家しましょう。」
565 (セーラの弟子どもが言った)、──「もしもこの〔完全にさとった人〕の教えを、 先生が喜ばれるのでしたら、私たちもまた、すぐれた智慧ある人のもとで、出家しましょう。」
566 (セーラは言った)、──「これら三百人のバラモンたちは、合掌してお願いしています。『先生! 私たちは、あなたのみもとで、清らかな行いを実践しましょう。』
567 師(ブッダ)が答えた──「セーラよ。清らかな行いが、みごとに説かれている。それは目のあたり、即時に果報をもたらす。怠りなく道を学ぶ人が、出家して(清らかな行いを修めるのは)空しくはない」
セーラ・バラモンは仲間と共に師のもとで出家して、完全な戒律を受けた。
ときに、結髪の行者ケーニヤは、その夜が過ぎてから、自分の庵で味のよい硬軟の食物を用意させて、師に時の来たことを告げて、「ゴータマ(ブッダ) さま。時間です。食事の用意ができました」と言った。そこで師は午前中に内衣を着け、重衣をきて、鉢を手にとって、結髪の行者ケーニヤの庵に赴いた。そうして、修行僧のつどいと共に、あらかじめ設けられた席についた。それから結髪の行者ケーニヤは、ブッダを初め修行僧らに、手ずから、味のよい硬軟の食物を給仕して、満足させ、あくまでもてなした。そこで結髪の行者ケーニヤは、師が食事を終り鉢から手を離したときに、自ら一つの低い座を占めて、傍らに坐した。そうして結髪の行者ケーニヤに、師は次の詩を以て、喜びの意を表した。──
568 火への供養は祭祀のうちで最上のものである。サーヴィトリー[讃歌]はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。
569 月は、諸々の星のうちで最上のものである。太陽は、輝くもののうちで最上のものである。修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとって最上のものである。
師はこれらの詩を唱えて結髪の行者ケーニヤに喜びの意を示して、座から起って、去って行かれた。
そこでセーラさんは、自分の仲間と共に、独りで他人から遠ざかり、怠ることなく、精励し専心していたが、まもなく──諸々の立派な人々がそれらを得るために正しく家を出て家なきに赴く目的であるところの──無上の清らかな行いの究極を現世において自らさとり、得し、具現していた。「(迷いの生存のうちに)生まれることは消滅した。清らかな行いは既に完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとったそしてセーラさんとその仲間とは、聖者の一人一人となった。
そののちセーラさんはその仲間と共に師のおられる処に赴いた。そうして、衣を一方の(左の)肩にかけて[右肩を洗わして]、師に向かって合掌し、次の詩を以て師に呼びかけた。──
570 「先生! 眼ある方よ。今から八日以前に、われらはあなたに帰依しましたが、七日のあいだに、われらはあなたの教えの中で身を整えました。
571 あなたは覚った方(ブッダ)です。あなたは師です。あなたは悪魔を征服した聖者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、自ら渡りおわり、またこの人々を渡して下さいます。
572 あなたは生存の素因を超越し、諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます。あなたは執著することのない獅子のようです。恐れおののきを捨てておられます。
573 これら三百人の修行僧は、合掌して立っています。健き人よ、足をお伸ばし下さい。諸々の竜(行者)をして師を拝ませましょう。」
【8、矢】
574 この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるかも解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。
575 生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生ある者どもの定めは、このとうりである。
576 熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。彼等にはつねに死の怖れがある。
577 たとえば、陶工のつくった土の器が終りには全て破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとうりである。
578 若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、全て死に屈服してしまう。全ての者は必ず死に至る。
579 彼等は死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず親族もその親族を救わない。
580 見よ。見まもっている親族がとめどもなく悲嘆にくれているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。
581 このように世間の人々は死と老いとによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。
582 汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両端を見きわめないで、わめいて、いたずらになき悲しむ。
583 迷妄に囚われて自己を害なっている人が、もしもなき悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。
584 泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただ彼にはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。
585 自ら自己を害いながら、身は痩せ醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。
586 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。
587 見よ。他の(生きている)人々はまた自分のつくった業にしたがって死んで行く。彼等生あるものどもは死に捕らえられて、この世で慄えおののいている。
588 ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊れて消え去るのは、このとうりである。世の成りゆくさまを見よ。
589 たとい人が百年生きようとも、或いはそれ以上生きようとも、終には親族の人々すら離れて、この世の生命を捨てるに至る。
590 だから(尊敬されるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「彼はもう私の力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。
591 たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように知慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起こったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。──譬えば風が綿を吹き払うように。
592 已が悲嘆と愛執と憂いとを除け。已が楽しみを求める人は、已が(煩悩の)矢を抜くべし。
593 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。
【9、ヴァーセッタ】
私が聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)はイッチャーナンガラ[村]のイッチャーナンガラ林に住んでおられた。その時、多くの著名な大富豪であるバラモンたちがイッチャーナンガラ村に住んでいた。すなわちチャンキンというバラモン、タールッカというバラモン、ポッカラサーティというバラモン、ジャーヌッソーニというバラモン、トーデーヤというバラモン及びその他の著名な大富豪であるバラモンたちであった。
その時ヴァーセッタとバーラドヴァーシャという二人の青年が(久しく坐していたために生じた疲労を除くために)膝を伸ばすためにそぞろ歩きをあちこちで行っていた。
彼等はたまたま次のような議論を始めた、「きみよ。どうしたらバラモンとなれるのですか?」
バーラドヴァーシャ青年は次のように言った。「きみよ。父かたについても母かたについても双方共に生れ(素姓)が良く、純粋な母胎に宿り、七世の祖先に至るまで血統に関しては未だかって爪弾きされたことなく、かって非難されたことがないならば、まさにこのことによってバラモンであるのである。」
ヴァーセッタ青年は次のように言った、「きみよ。ひとが戒律をまもり徳行を身に具えているならば、まさにこのことによってバラモンであるのである。」
[しかし]バーラドヴァーシャ青年はヴァーセッタ青年を説得することができなかったし、またヴァーセッタ青年はバーラドヴァーシャ青年を説得することができなかった。そこでヴァーセッタ青年はバーラドヴァーシャ青年に告げて言った、「バーラドヴァーシャよ。シャカ族の子である〔道の人〕ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、ここにイッチャーナンガラ[村]のイッチャーナンガラ林のうちに住んでいる。そのゴータマさまには次のような好い名声があとずれている。──すなわち、かの師は、尊敬さるべき人・目ざめた人・明知と行いとを具えた人・幸せな人。世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊き師であるといわれる。バーラドヴァーシャさん。さあ行こうよ。〔道の人〕ゴータマのいる処に行こう。そこへ行ったら、〔道の人〕ゴータマにこのことがらを尋ねよう。そうして〔道の人〕ゴータマがわれわれに解答してくれたとおりに、われわれはそれを承認しよう。」「そうしましょう」と、バーラドヴァーシャ青年はヴァーセッタ青年に答えた。
そこでヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年とは、師のいます処に赴いた。そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出についての挨拶の言葉を交したのち、彼は傍らに坐した。そこでヴァーセッタ・バラモンは次の詩を以て師に呼びかけた。──
594 「われら両人は三ヴェーダの学者であると、(師からも)認められ、自らも称しています。私はポッカラサーティの弟子であり、この人はタールッカの弟子です。
595 三ヴェーダに説かれていることがらを、われわれは完全に知っています。われわれはヴェーダの語句と文法とに精通し、ヴェーダ読誦については師に等しいのです。
596 ゴータマよ。そのわれわれが生れの如何を論議して、論争が起りました。『生れによってバラモンなのである』とバーラドヴァーシャは語りますが、私は『行為によってバラモンとなるのである』と言います。眼ある方よ。こういうわけなのだと了解して下さい。
597 われら両人は互いに相手を説得することができないのです。そこで、〔目ざめた人〕(ブッダ)としてひろく知られているあなたさまにたずねるために、やって来ました。
598 人々が満月に向って近づいて合掌し礼拝し敬うように、世人はゴータマを礼拝し敬います。
599 世間の眼として出現したもうたゴータマに、われらはおたずねします。生まれによってバラモンであるのでしょうか。或いは行為によってバラモンとなるのでしょうか? われわれには解りませんから、話して下さい、──われわれがバラモンの何たるかを知りうるように。」
600 師が答えた、「ヴェーダよ。そなたらのために、諸々の生物の生れ(種類の)区別を、順次にあるがままに説明してあげよう。それらの生れは、いろいろと異なっているからである。
601 草や木にも(種類の区別のあることを)知れ。しかし彼等は(「われは草である」とか、「我等は木である」とか)言い張ることはない。彼等の特徴は生まれに基づいている。彼等の生まれはいろいろと異なっているからである。
602 次に蛆虫や蟋蟀から蟻類に至るまでのものにも(種類の区別のあることを)知れ。彼等の特徴は生れに基づいているのである。彼等の生れは、いろいろと異っているからである。
603 小さいものでも、大きなものでも、四足獣にも、(種類の区別のあることを)知れ。彼等の特徴は生れに基づいているのである。彼等の生れは、いろいろと異っているからである。
604 腹を足としていて背の長い匍うものにも(種類の区別のあることを)知れ。彼等の特徴は生れに基づいている。彼等の生れは、いろいろと異っているからである。
605 次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。彼等の特徴は生れに基づいている。彼等の生れは、いろいろと異なっているからである。
606 次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。彼等の特徴は生れに基づいている。彼等の生れは、いろいろと異っているからである。
607 これらの生類には生まれにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない。
608 髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、
609 首についても、肩についても、腹についても、背についても、臀についても、胸についても、隠所についても、交合についても、
610 手についても、足についても、指についても、脛につていも、腿についても、容色についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生まれにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。
611 身を禀けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間の間ではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。
612 人間のうちで、牧牛によって生活する人があれば、彼は農夫であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
613 人間のうちで、種々の技能によって生活する人があれば、彼は職人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
614 人間のうちで売買をして生活する人があれば、彼は商人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
615 人間のうちで他人に使われて生活する者があれば、彼は傭人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
616 人間のうちで盗みをして生活する者があれば、彼は盗賊であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
617 人間のうちで武術によって生活する者があれば、彼は武士であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
618 人間のうちで司祭の職によって生活する者があれば、彼は司祭者であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
619 人間のうちで村や国を領有する者があれば、彼は王であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。
620 われは、(バラモン女の)胎から生まれ(バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。彼は(きみよ、といって呼びかける者)といわれる。彼は何か所有物の思いに囚われている。無一物であって執著のない人、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
621 全ての束縛を断ち切り、怖れることなく、執著を超越して、とらわれることのない人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
622 紐と革帯と綱とを、手綱ともども断ち切り、門をとざす閂(障礙)を減じて、目ざめた人(ブッダ)、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
623 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
624 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身を整え、最後の身体に達した人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
625 蓮葉の上の露のように、錐の尖の芥子のように、諸々の欲情に汚されない人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
626 既にこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれのない人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
627 明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的を達した人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
628 在家者・出家者のいずれとも交わらず、住家がなくて遍歴し、欲の少い人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
629 強く或いは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さず、また殺させることのない人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
630 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあって執著しない人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
631 芥子粒が錐の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
632 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実の言葉を発し、言葉によって何人の感情をも害することのない人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
633 この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうとも粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも、全て与えられていない物を取らない人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
634 現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、──彼を私はバラモンと呼ぶ。
635 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
636 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
637 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
638 この傷害・険道・輪廻(さまよい)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、執著がなくて、心安らかな人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
639 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
940 この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生活の尽きた人、──彼を私は〔バラモン〕と呼ぶ。
641 人間の絆を捨て、天界の絆を超え、全ての絆をはなれた人、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
642 〔快楽〕と〔不快〕とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った健き人、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
643 生きとし生ける者の生死を全て知り、執著なく、幸せな人、覚った人、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
644 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを減しつくした人、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
645 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、全て無一物で、何ものをも執著して取りおさえることのない人、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
646 牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望のない人・沐浴した者・覚った人(ブッダ)、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
647 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を減し尽くしに至った人、──彼を私は(バラモン)と呼ぶ。
648 世の中で名とし姓として付けられているものは、名称に過ぎない。(人の生まれた)その時その時に付けられて、約束の取り決めによって仮に設けられて伝えられているのである。
649 (姓名は、仮に付けられたものに過ぎないということを)知らない人々にとっては、誤った偏見が長い間ひそんでいる。知らない人々はわれらに告げていう、『生れによってバラモンなのである』と。
650 生まれによって(バラモン)となるのではない。生まれによって(バラモンならざる者)となるのでもない。行為によって(バラモン)なのである。行為によって(バラモンならざる者)なのである。
651 行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって傭人となるのである。
652 行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者ともなり、行為によって王ともなる。
653 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。彼等は縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。
654 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。−−進み行く車が轄に結ばれているように。
655 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、これによって〔バラモン〕となる。
これが最上のバラモンの境地である。
656 三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は、諸々の識者にとっては、梵天や帝釈[と見なされる]のである。ヴァーセッタよ。このとおりであると知れ。」
このように説かれたので、ヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年とは師に向って言った、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。ゴータマさま。譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、或いは『眼ある人々は色や形を見るように』といって暗夜に灯火を掲げるように、ゴータマさまは種々の仕方で理法を明らかにされました。いま私はゴータマさまと真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまは私たちを、在俗信者として受けいれて下さい。私たちは、今日から命の続く限り帰依いたします。」
【10、コーカーリヤ】
私か聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)は、サーヴァッティー市のジェータ林、〔孤独な人々に食を給する長者の園〕におられた。その時修行僧コーカーリヤは師のおられる処に赴いた。そうして、師に挨拶して、傍らに坐した。それから修行僧コーカーリヤは師に向っていった、「尊き師(ブッダ)よ。サーリプッタとモッガラーナとは邪念があります。悪い欲求に囚われています。」
そう言ったので、師(ブッダ)は修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、まあそういうな。サーリプッタとモッガラーナとを信じなさい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
修行僧コーカーリヤは再び師にいった、「尊き師よ。私は師を信じてお頼りしていますが、しかしサーリプッタとモッガラーナとは邪念があります。悪い欲求に囚われています。」
師は再び修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、サーリプッタとモッガラーナとを信じなすい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
修行僧コーカーリヤは三たび師にいった、「尊き師よ。私は師を信じてお頼りしていますが、しかしサーリプッタとモッガラーナとは邪念があります、悪い欲求に囚われています。」
師は三たび修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、サーリプッタとモッガラーナとを信じなすい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」
そこで修行僧コーカーリヤは座から起って、師に挨拶して、右まわりをして立ち去った。修行僧コーカーリヤが立ち去ってからまもなく、彼の全身に芥子粒ほどの腫物が出てきた。(初めは)芥子粒ほどであったものが、(次第に)小豆ほどになった。小豆ほどであったものが、大豆ほどになった。大豆ほどであったものが、棗の核ほどになった。棗の核ほどあったものが、棗の果実ほどになった。棗の果実ほどあったものが余甘子ほどになった。余甘子ほどであったものが、未熟な木爪の果実ほどになった。未熟な木爪の果実ほどであっものが、熟した木爪ほどになった。熟した木爪ほどになったものが破裂し、膿と血とが迸り出た。そこで修行僧コーカーリヤはその病苦のために死去した。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意を抱いていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれた。
その時サハー(老婆)世界の主・梵天は、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、師のおられる処に赴いた。そうして師に敬礼して傍らに立った。そこでサハー世界の王である梵天は師に告げていった。「尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意を抱いていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました。」サハー世界の主・梵天はこのように言った。このように言ってから、師に敬礼し、右まわりをして、その場で消え失せた。
さて、その夜が明けてから、師は、諸々の修行僧に告げて言われた、「諸々の修行僧らよ。昨夜サハー世界の主である梵天が、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、私のいる処に来た。それから私に敬礼して傍らに立った。さうしてサハー世界の主である梵天は、私に告げていった。『尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意を抱いていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました』と。サハー世界の主である梵天はこのように言った。そうして、師を敬礼し、右まわりして、その場で消え失せた。」
このように説かれたときに、一人の修行僧が師に告げていった、「尊いお方さま。紅蓮地獄における寿命の長さは、どれだけなのですか?」
「修行僧よ。紅蓮地獄における寿命は実に長い。それを、幾年であるとか、幾百年であるとか、幾千年であるとか、幾十万年であるとか、数えることは難しい。」
「尊いお方さま。しかし譬喩を以て説明することがでまるでしょう。」
「修行僧よ。それはできるのです」といって、師は言われた、「たとえば、コーサラ国の枡目ではかつて二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)があって、それを取り出すとしょう、ついで一人の人が百年を過ぎるごとに胡麻を一粒ずつ取り出すとしよう。その方法によって、コーサラ国の枡目ではかって二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)が速やかに尽きたとしても、一つのアッブタ地獄はまだ尽きるに至らない。二十のアッブダ地獄は一つのニラッブダ地獄[の時期]に等しい。二十のニラッブダ地獄は一つのアババ地獄[の時期]に等しい。二十のアババ地獄は一つのアハハ地獄[の時期]に等しい。二十のアハハ地獄は一つのアタタ地獄[の時期]に等しい。二十のアタタ地獄は一つの黄蓮地獄[の時期]に等しい。二十の黄蓮地獄は一つの白睡蓮地獄[の時期]に等しい。二十の白睡地獄は一つの青蓮地獄[の時期]に等しい。二十の青蓮地獄は一つの白蓮地獄[の時期]に等しい。二十の紅蓮地獄[の時期]に等しい。ところで修行僧コーカーリヤは、サーリプッタおよびモッガラーナに対して敵意を抱いていたので、紅蓮地獄に生まれたのである。」
師はこのように言われた。幸せな人である師は、このことを説いてから、さらに次のように言われた。──
657 人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。
658 毀るべき人を誉め、また誉むべき人を毀る者、──彼は口によって禍をかさね、その禍のゆえに福楽を受けることができない。
659 賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも、その不運はわずかなものである。しかし立派な聖者に対して悪意をいだく人の受ける不運は、まことに重いのである。
660 悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、十万と三十六のニラップダの[巨大な年数のあいだ]また五つのアッブダの[巨大な年数のあいだ]地獄に赴く。
661 嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながら゜私はしませんでした」と言う人もまた同じ。両者とも行為の卑劣な人々であり、死後にはおの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。
662 害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には、必ず悪(い報い)がもどってくる。風に逆らって微細な塵を撒き散らすようなものである。
663 種々なる貪欲に耽る者は、言葉で他人をそしる。──彼自身は、信仰心なく、ものおしみして、不親切で、けちで、やたらにかげ口を言うのだが。
664 口穢く、不実で、卑しい者よ。生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者よ。不劣を極め、不吉な、でき損いよ。この世であまりおしゃべりするな。お前は地獄に落ちる者だぞ。
665 お前は塵を播いて不利を招き、罪をつくりながら、諸々の善人を非難し、また多くの悪事をはたらいて、長いあいだ深い坑(地獄)に陥る。
666 けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。
667 (地獄に墜ちた者は)、鉄の串を突きさされる処に至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは、(昔つくった業に)ふさわしい当然なことである。
668 (地獄の獄卒どもは「捕えよ」「打て」などといって)、誰もやさしい言葉をかけることなく、(温顔をもって)向ってくることなく、頼りになってくれない。(地獄に墜ちた者どもは)、敷き拡げられた炭火の上に臥し、普く燃え盛る火炎の中に入る。
669 またそこでは(地獄の獄卒どもは)鉄の網をもって(地獄に墜ちた者どもを)からめとり、鉄槌をもって打つ。さらに真の暗黒である闇に至るが、その闇はあたかも霧のようにひろがっている。
670 また次に(地獄に堕ちた者どもは)火炎が普く燃え盛っている鋼製の釜にはいる。火の燃え盛るそれらの釜の中で永いあいだ煮られて、浮き沈みする。
671 また膿や血のまじった湯釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。彼がその釜の中でどちらの方角へ向って横たわろうとも、(膿と血とに)触れて汚される。
672 また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。出ようにも、つかむべき縁がない。その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。
673 また鋭い剣の葉のついた林があり、(地獄に墜ちた者どもが)その中に入ると、手足を切断される。(地獄の獄卒どもは)鉤を引っかけて舌をとらえ、引っ張りまわし、引っ張り廻しては叩きつける。
674 また次に(地獄に墜ちた者どもは)、超え難いヴェータラニー河に至る。その河の流れは鋭利な剃刀の刃である。愚かな輩は、悪い事をして罪を犯しては、そこに陥る。
675 そこには黒犬や斑犬や黒烏の群や野狐がいて、泣きさけぶ彼等を貪り食うて飽くことがない。また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄む。
676 罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、忽せにしてはならない。
677 紅蓮地獄に運び去られた者(の寿命の年数)は、荷車につんだ胡麻の数ほどある、と諸々の智者は計算した。すなわちそれは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。
678 ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄にとどまらなねばならない。それ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして、常に言葉とこころをつつしむべきである
【11、ナーラカ】
[ 序 ]
679 よろこび楽しんでいて清らかな衣をまとう三十の神々の群と帝釈天とが、恭しく衣をとって極めて讃嘆しているのを、アシタ仙は日中の休息のときに見た。
680 こころ喜び踊りあがっている神々を見て、ここに仙人は恭々しくこのことを問うた、
「神々の群が極めて満悦しているのは何故ですか?
どうしたわけで彼等は衣をとってそれを振り廻しているのですか?
681 たとえ阿修羅との戦いがあって、神々が勝ち阿修羅が敗れたときにもそのように身の毛の振るい立つぼど喜ぶことはありませんでした。どんな稀な出来事を見て神々は喜んでいるのですか?
682 彼は叫び、歌い、楽器を奏で、手を打ち、踊っています。須弥山の頂に住まわれるあなたがたに、私はおたずねします。尊き方々よ、私の疑いを速かに除いて下さい。」
683 (神々は答えて言った)、「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです、──シャカ族の村に、ルンビニーの聚落に。
だからわれらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。
684 生きとし生ける者の最上者、最高の人、牡牛のような人、生きとし生けるもののうちの最高の人(ブッダ)は、ゆがて〔仙人(のあつまる所)〕という名の林で(法)輪を回転するであろう。──猛き獅子が百獣にうち勝って吼えるように。」
685 仙人は(神々の)その声を聞いて急いで(人間世界に)降りてきた。その時スッドーダナ王の宮殿に近づいて、そこに坐して、シャカ族の人々に次のようにいった、
「王子はどこにいますか。私もまた会いたい。」
686 そこで諸々のシャカ族の人々は、その児を、アシタという(仙人)に見せた。──溶炉で巧みな金工が鍛えた黄金のようにきらめき幸福に光り輝く尊い児を。
687 火炎のように光り輝き、空行く星王(月)のように清らかで、雲を離れて照る秋の太陽のように輝く児を見て、歓喜を生じ、昴まく喜びでわくわくした。
688 神々は、多くの骨あり千の円輪ある傘蓋を空中にかざした。また黄金の柄のついた払子で[身体を]上下に扇いだ。
しかし払子や傘蓋を手にとっている者どもは見えなかった。
689 カンハシリ(アシタ)という結髪の仙人は、こころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。──その児は、頭の上に白い傘をかざされて白色がかった毛布の中にいて、黄金の飾りのようであった。
690 相好と呪文(ヴェーダ)に通曉している彼は、シャカ族の牡牛(のような立派な児)を抱きとって、(特相を)検べたが、心に歓喜して声を挙げた。──「これは無上の方です、人間のうちで最上の人です。」
691 ときに仙人は自分の行く末を憶うて、ふさぎこみ、涙を流した。仙人が泣くのを見て、シャカ族の人々は言った、──
「吾等の王子に障りがあるのでしょうか?」
392 シャカ族の人々が憂えているのを見て、仙人は言った、──
「私は、王子に不吉の相があるのを思いつづけているのではありません。また彼に障りはないでしょう。この方は凡庸ではありません。よく注意してあげて下さい。
393 この王子は最高のさとりに達するでしょう。この人は最上の清浄を見、多くの人々のためをはかり、あわれむが故に、法輪をまわすでしょう。この方の清らかな行いはひろく弘まるでしょう。
394 ところが、この世における私の余命はいくばくもありません。(この方がさとりを開かれるまえに)中途で私は死んでしまうでしょう。私は比なき力ある人の教えを聞かないでしょう。だから、私は、悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。」
695 かの清らかな修行僧(アシタ仙人)はシャカ族の人々に大きな喜びを起させて、宮廷から去っていった。彼は自分の甥(ナーラカ)をあわれんで、比なま力ある人の教えに従うようにすすめた。──
696 「もしもお前が後に『目ざめた人あり、さとりを開いて、真理の道を歩む』という声を聞くならば、その時そこへ行って彼の教えをたずね、その師のもとで清らかな行いを行え。」
697 その聖者は、人のためをはかる心あり、未来における最上の清らかな境地を予見していた。その聖者に教えられて、かねて諸々の善根を積んでいたナーラカは、勝利者(ブッダ)を待望しつつ、自らの感官をつつしみまもって暮らした。
698 〔すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう〕との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって、最上の人である仙人(ブッダ)に会って信仰の心を起し、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。
序文の詩句は終った。
699 [ナーラカは尊師にいった]、「アシタの告げたこの言葉はそのとおりであるということを了解しました。故に、ゴータマよ、一切の道理の通達者(ブッダ)であるあなたにおたずねします。
700 私は出家の身となり、托鉢の行を実践しようと願っているのですが、おたずねします。聖者よ、聖者の境地、最上の境地を説いて下さい」。
701 師(ブッダ)はいわれた、「私はあなたに聖者の境地を教えてあげよう。これは行いがたく、成就し難いものである。さあ、それをあなたに説いてあげようるしっかりとして、堅固であれ。
702 村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。(罵られても)こころに怒らないように注意し、(敬礼されても)冷静に、高ぶらずにふるまえ。
703 たとい園林のうちにあっても、火炎の燃え立つように種々のものが現れ出てくる。
婦女は聖者を誘惑する。婦女をして彼を誘惑させるな。
704 婬欲のことがらを離れ、さまざまの愛欲を捨てて、弱いものでも、強いものでも、諸々の生きものに対してね敵対することなく、愛著することもない。
705 『彼も私と同様であり、私も彼と同様である』と思って、わがみに引きくらべて、(生きるものを)殺してはならなぬ。また他人をして殺させてはならない。
706 凡夫は欲望と貪りと執著しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。
707 腹をへらして、食物を節し、小欲であって、貪ることなかれ。彼は貪り食う欲望に厭きて、無欲であり、安らぎに帰している。
708 その聖者は托鉢にまわり歩いてから、林の畔におもむき、樹の根もとにとどまって座につくべきである。
709 彼は思慮深く、瞑想に専念し、林の畔で楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いに自ら満足すべきである。
710 ついで夜が明けたならば、村里の畔に去るべきである。(信徒から)招待を受けても、また村から食物をもらってきても、決して喜んではならない。
711 聖者は、村に行ったならば、家々を荒々しくガサツに廻ってはならない。話をするな。わざわざ策して食を求める言葉を発してはならない。
712 『(施しの食べ物を)得たのは善かった』『得なかったのもまた善かった』と思って、全き人はいずれの場合にも平然として還ってくる。あたかも(果実を求めて)樹のもとに赴いた人が、(果実を得ても得なくても、平然として)帰ってくるようなものである。
713 彼は鉢を手にして歩き廻り、唖者ではないのに唖者と思われるようにするためだ。施物が少なかったらとて軽んじてはならぬ。施してくれる人を侮ってはならない。
714 道の人(ブッダ)は高く或いは低い種々の道を説き明かしたもうた。重ねて彼岸に至ることはないが、一度で彼岸に至ることもない。
715 (輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、彼は煩悶が存在はない。」
716 師がいわれた、
「「あなたに聖者の道を説こう。──(食をとるには)剃刀の刃の譬えのように用心せよ。舌で上口蓋を抑え、腹については自ら食を節すべし。
717 心が沈んでしまってはいけない。またやたらに多くのことを考えてはいけない。腥い臭気なく、こだわることなく、清らかな行いを究極の理想とせよ。
718 独り坐することと〔道の人〕に奉仕することを学べ。聖者の道は独り居ることであると説かれている。独り居てこそ楽しめるであろう。
719 そうすれば彼は十方に光輝くであろう。欲望を捨てて瞑想している諸々の賢者の名声を聞いたならば、我が教えを聞く者はますます恥を知り、信仰を起すべきである。
720 そのことを深い淵の河水と浅瀬の河水とについて知れ。河低の浅い小川の水は音を立てて流れるが、大河の水は音を立てないで静かに流れる。
721 欠けている足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く静かである。愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである。
722 〔道の人〕が理法に叶い意義あることを多く語るのは、自ら知って教えを説くのである。
723 しかし自ら知って己れを制し、自ら知っているのに多くのことを語らないならば、彼は聖者として聖者の行に叶う。彼は聖者として聖者の行を体得した。」
【12、二種の観察】
私が聞いたところによると、──或るとき尊師はサーヴァッティーの[郊外にある]東園にあるミガーラ(長者)の母の宮殿のうちにとどまっておられた。その時尊師(ブッダ)はその定期的集会(布薩)の日、十五日、満月の夜に、修行僧(比丘)の仲間に囲まれて屋外に住しておられた。さて尊師は仲間が沈黙しているのを見まわして、彼等に告げていわれた、──
修行僧たちよ。善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理がある。そなたたちが、『善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは、何故であるか』と、もしも誰かに問われたならば、彼に対しては次のように答えねばならぬ。──『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。しからば、そなたたちのいう二種とは何であるか、というならば、『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが、一つの観察[法]である。『これは苦しみの消滅に至る道である』というのが、第二の観察[法]である。修行僧たちよ。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。
──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。──
尊師はこのように告げられた。そえして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。
724 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、また苦しみの全て残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、──
725 彼等は心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。彼等は(輪廻を)終滅させることができない。彼は実に生と老いとを受ける。
726 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみの全て残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、──
727 彼等は、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。彼等は(輪廻を)終滅させることができる。彼等は生と老いとを受けることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て素因に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。
728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することがでまるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『どんな苦しみが生ずるのでも、全て無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存にもどらないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。
730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなれけばならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て潜在的形成力に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種(の観察法)を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
731 およそ苦しみが生ずるのは、全て潜在的形成力を縁(原因)として起るのである。諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。
732 「苦しみは潜在的形成力の縁から起るものである」と、この災いを知って、一切の潜在的形成力が消滅し、(欲など)相を止めたならば、苦しみは消滅する。このことを如実に知って、
733 正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て識別作用(識)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら識別作用が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待される。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はそらにまた次のように説かれた。
734 およそ苦しみが生ずるのは、全て識別作用に縁って起るのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということはあり得ない。
735 「苦しみは識別作用に縁って起るのである」と、この禍いを知って、識別作用を静まらせたならば、修行者は、快をむさぼることなく、安らぎに帰しているのである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て接触に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら接触が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待される。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
736 接触にとらわれ、生存の流れにおし流され、邪道を歩む人々は、束縛の消滅は遠いかなたにある。
737 しかし接触を熟知し理解して、平安を楽しむ人々は、実に接触がほろびるが故に、快を感ずることなく、安らぎに帰している。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て感受に縁って起るものである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待される。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
738 楽であろうと、苦であろうと、悲苦悲楽であろうとも、内的にも外的にも、およそ感受されたものは全て、
739 「これは苦しみである」と知って、滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅することを認め、このようにしてそれらの本性を識知する。諸々の感受が消滅するが故に、修行僧は快を感ずることにく、安らぎに帰している。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、妄執(愛執)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら妄執が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せに師はさらにまた次のように説かれた。
740 妄執を友としている人は、この状態からの状態へと永い間流転して、輪廻を超えることができない。
741 妄執は苦しみの起る原因である、とこの禍いを知って、妄執を離れて、執著することなく、よく気を付けて、修行僧は遍歴すべきである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て執著に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の執著が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
742 執著に縁って生存が起る。生存せる者は苦しみを受ける。生れた者は死ぬ。これが苦しみの起る原因である。
743 それ故に諸々の賢者は、執著が消滅するが故に、正しく知って、生まれの消滅したことを熟知して、再び迷いの生存にもどることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て起動に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の起動が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
744 およそ苦しみが起るのは、全て起動を縁として起る。諸々の起動が消滅するならば、苦しみの生ずることもない。
745 「苦しみは起動の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の起動を捨て去って、起動のないことにおいて解脱し、
746 生存に対する妄執を断ち、心の静まった修行僧は、生をくり返す輪廻を超える。彼はもはや生存を受けることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て食料に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
747 およそ苦しみが起るのは、全て食料を縁として起る。諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。
748 「苦しみは食料の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の食料を熟知して、一切の食料にたよらない、
749 諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って、省察して(食料を)受用し、理法に住するヴェーダの達人は、もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、全て動揺に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
750 およそ苦しみが起るのは、全て動揺を縁として起る。諸々の動揺が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。
751 「苦しみは動揺の縁から起る」と、この禍いを知って、それ故に修行僧は(妄執の)動揺を捨て去って、諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執著で、よく気を付けて、遍歴すべきである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『従属するものは、たじろぐ。』というのが、一つの観察[法]である。『従属しない者は、たじろかない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
752 従属することのない人はたじろがない。しかし従属することのある人は、この状態からあの状態へと執著していて、輪廻を超えることがない。
753 「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って、修行僧は、従属することなく、執著することなく、よく気を付けて、遍歴すべきである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『物理的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』というのが、一つの観察[法]である。『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
754 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。
755 しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者〔これは真理である〕と考えたものを、諸々の聖者は〔これは虚妄である〕と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者〔これは虚妄である〕と考えたものを、諸々の聖者は〔これは真理である〕と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、〔名称と形態〕(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。
757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。
758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。彼等は実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。
「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしも誰かに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者〔これは安楽である〕と考えたものを、諸々の聖者は〔これは苦しみである〕と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者〔これは苦しみである〕と考えたものを、諸々の聖者は〔これは安楽である〕と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における〔さとり〕か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──
師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、──
760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。また、それらが滅びる場合には、彼等はそれを「苦しみ」であると等しく認めている。
761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。
762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。
763 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。善良な人々には開顕される。あたかも見る人々に光明のあるようなものである。理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。
764 生存の貪欲に囚われて、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。
765 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。
師(ブッダ)はこのように説かれた。修行僧たちは悦んで師の諸説を歓喜して迎えた。実にこの説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執著がなくなって、心が汚れから解脱した。
[二種の観察]まとめの句
真理(諦)と、生存の素因と、無名と、諸々の形成力と、第五に識別作用と、接触と、感受されるものと、妄執と、執著と、起動と、諸々の食と、動揺における震動と、物質的領域と、真理と苦とで、十六である。
〔大いなる章〕第三おわる
まとめの句
出家と、つとめはげむことと、みごとに説かれたことと、スンダリカと、マーガと、サビヤと、セーラと、矢と、ヴァーセッタと、コーカーリヤと、ナーラカと、二種の観察と──
これらの十二の経が「大いなる章」と言われる。