・・・・・・令和6年6月・・・・・・

坐禅用心記 全文⇒

「坐禅用心記」(3) 
  坐禅は、戒定慧に干かるものではありません。律「戒」・経「定」・論「慧」の三学を兼ねています。
  「戒というのは、これ防非止悪。坐禅は相対を観ない、計らない、万事を放下して、諸縁を休息して、仏法であるや世法ということを管せず、道情と世情を双べることすら忘じて、是非は無く善悪も無し。何の防止か之れ有らんや。此は是、心地無相戒なり。」
  「定は是、観想無余なり。坐禅は身心を脱落し、迷悟を捨離し、不変不動、不為不昧、痴の如く兀の如く、山の如く海の如く、動静の二相、了然として生せず、定にして定相無し、無定相なるが故に大定と名づくなり。
  「慧は是、簡択覚了なり。坐禅は所知自ら滅し、心識永く忘ず、通身慧眼にして、簡覚有ること無く、明らかに仏性を見て、本迷惑せず、意根を坐断し、廓然として瑩徹す、是、慧にして慧相無し、慧相無きが故に大慧と名づくなし。」(※智慧とは得がたいものであるから時代に応じて翻訳してねと言うてはる、それでも次を観ると、言葉より明らかに大切なことが書いてある。まさに百聞は一見にしかず、億万の文言は一行に円成する。)
  月を何をして言葉に残せようものか。ありのままを観てありのまま察する。ありのままを行じてありのままを受け入れる。ありのままになればもはや感謝しか残らない。この感謝という文字も、(感)或るがままの心・気持ちが(謝)消えてなくなる(無量であり無辺であり、徐々に全てが無くなる様相であるから色即是空と訳するが・ようするに、ありがとうと思うとき感じるときの心理を漢字は表しているわけで)この漢字を観じるためには、この宇宙、この地球がなければできなかったわけです。もとはパンゲヤといわれた一つの大陸のいまがいまの形をしているわけです。南閻より人の歴史のはじまり、日域この島より全世界に人々が行き渡り、中東、インド、スカンジナビア、アイルランド、エジプト、南北米、云々。思い思いに地域地域で使っている言葉。この思い(或って在る)、言葉(ツール)のおかげで、知識(ソフト)を得て物(ハード)を作り出せるのであって、霊性といい仏性という思いの根源がなければ、何もなかったわけです。坐禅は、生命人類が辿ってきた道のりの元に立ち戻り、この心を或って在る状態に戻す行いです。思い考えることを停止するのです。我々が学問と言っているものの正体は宗教であるし、宗教というものの正体は感謝の行であります。感謝の行を坐禅で行います。はじめ波のように妄想が起こります。次に寂静な凪のようになります。そして月が海辺に映るように、よかったことや喜びや悲しみが呼び覚まされ、心身のバランスを失って失ってきたものが整理され整頓されます。 


合掌


来月も予定しています。光泰九拝
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