坐禅用心記 (ざぜんようじんき)    洞谷沙門瑩山紹瑾 撰
大本山總持寺の御開山、常済大師瑩山紹瑾禅師が永光寺にて撰述。
金沢大乗寺住職 卍山道白和尚(1636〜1715)は『瑩山清規』開版(1681)の際、序文を撰し附属せしめた。

以下卍山道白和尚の序
 龍樹円月の相、本来欠缺無し。しかも一念雲興って性天を遮り、方寸霧涌いて心地を昧ます。則ち陰々晦々として長夜に殊ならず。これ皆、坐禅用心の失うところに係る。 この故に、我が曩祖瑩山大師、三昧の源を決し、言辞の海を翻し、この記一篇を撰述して、波乱を後昆に揚げ、もって用心の術を示すことかくの如くなり。もし人、柯をここに伐れば厥則を失うこと無し。それ性天の雲、心地の霧、蟾輝を舒べ、兔光を発し、朗々然として、縄牀角に掛かり、耀々として、蒲団上を照らす。いわゆる仏性の相、諸仏の体、提婆の饒舌を待たずに顕現するなり。
 予、たまたまこの記を得て、曩蔵するに忍びず。禅余に校勘して、乃ちこれを梓行す。蓋し、朗々耀々たるは、遍く十方を及尽し、十方を取尽し、もって縄牀角蒲団上になさしめんと欲す。これ、流通の心なり。
 延宝庚申 仏成道の日 加州椙樹林大乗護国禅寺 白卍山 和南して題す
 「坐禅用心記」 洞谷沙門瑩山紹瑾 撰
 
夫れ坐禅は直ちに人をして心地を開明し、本分に安住せしむ。是を本来の面目を露すと名づけ、亦本地の風光を現すと名づく。
 身心倶に脱落し、坐臥同じく遠離す。
 故に不思善・不思悪、能く凡聖を超越し、生仏の辺際を離却す。
 故に万事を休息す、及び諸縁を放下し、一切為さず六根作すこと無し。這箇は是、阿誰ぞ、曽て名を知らず、身と為すべきに非ず。慮を欲して慮を絶し、言わんと欲して言窮す。痴の如く兀の如く、山高く海深く、頂を露さず、底を見ず。
 縁に対せずして照らす、眼、雲外に明らかなり。不思量にして通ず、宗、黙説に朗らかなり。
 乾坤を坐断し、全身独露す。没量の大人は大死人の如く、一翳の眼を遮る無く、一塵の足に受くる無し。何れの処には塵埃有らん、何物か遮障を為さん。
 清水、本と表裏無く、虚空終に内外無し。玲瓏明白、自照霊然たり。
 色空未だ分れず、境智何ぞ立せん。従来共に住して、歴劫名無し。
 三祖大師且く名づけて心と為し、龍樹尊者、仮に名づけて身と為す。仏性の相を現じ、諸仏の体を表す。此の円月の相は、欠くること無く余ること無し。此の心に即するは、便ち是れ仏なり。
 自己の光明、古に騰り今に輝く。龍樹の変相を得て、諸仏の三昧を成ず。
 心、本と二相無く、身、更に相像を異にす。唯心と唯身と、異と同とを兼ねるを説かず。心変じて身と成り、身露れて相分る。
 一波纔に動けば万波随って来たり、心識才かに起れば万法競い来る。
 所謂、四大・五蘊、遂に和合し、四支・五根、忽ちに現成す。以て三十六物・十二因縁、造(遊)作遷流し、展転相続す。但、衆法を以て合成して有り。
 所以に心は海水の如く、身は波浪の如し。海水の外一点の波無きが如し、波浪の外、一滴の水無きが如し。水波別無く、動静異ならず。故に云う、生死去来真実の人、四大五蘊不壊の身と。

 今、坐禅は、正に仏性海に入り、即ち諸仏の体を標す。本有妙浄の明心、頓に現前し、本来一段の光明、終に円照せん。海水、都て増減無く、波浪も亦、退転無し。是を以て、諸仏は一大事因縁の為に世に出現し、直ちに衆生をして、仏の知見に開示悟入せしめ給う。
 而も寂静無漏の妙術有り、是を坐禅と謂う、即ち是れ諸仏自受用三昧なり、又、三昧王三昧と謂う。若し一時も此の三昧に安住すれば、則ち直ちに心地を開明す。良に知る、仏道の正門なりと。
 其れ心地を開明せんと欲せば、雑知・雑解を放捨し、世法・仏法を抛下し、一切の妄情を断絶せば、一真実心現成し、迷雲収まり晴れて、心月新たに明らかならん。
 仏の言く「聞思は猶お門外に処するが如く、坐禅は正に家に還って穏坐す」と。
 誠なる哉、夫の聞思の若きは、諸見未だ休せず、心地猶滞す、故に門外に処するが如し。
 只箇の坐禅は、一切休歇し、処として通ぜずということ無し、故に家に還って穏坐するに似たり。
 而も五蓋の煩悩は皆、無明従り起こる。無明は己を明らめざるなり、坐禅は是、己を明らむるなり。縦い五蓋を断ずと雖も、未だ無明を断ぜざれば、是、仏祖に非ず。若し無明を断ぜんと欲せば、坐禅弁道、最も是、秘訣なり。

 古人云く「妄息めば寂生じ、寂生ぜば智現じ、智現ずれば真を見る」と。若し妄心を尽くさんと欲せば、須らく善悪の思いを休すべし、又須らく一切の縁務、都来放捨して、心に思無く、身に事無し。是、第一の用心なり。
 妄縁尽くるの時、妄心、随って滅す。妄心、若し滅すれば、不変の体、現ず、了了として常に知る、寂滅の法に非ず、動作の法に非ず。
 然して有ゆる技芸・術道・医方・占相、皆、まさに遠離すべし、況んや歌舞・伎楽・諠諍・戯論・名相・利養は、悉く之に近づくべからず。
 頌詩・歌詠の類は、自ら浄心の因縁たりと雖も、而も好んで営むこと莫れ。文章筆硯は擲下して用いず、是、道者の勝躅なり、是、調心の至要なり。
 美服と垢衣とは、倶に著用すべからず。美服は貪を生じ、又は盗賊の畏れ有り。故に道者の障難と為る。
 若し因縁有り、若し人の施与する有りとも、而も受けざるは、古来の嘉蹤なり。
 縦い本より之有りとも、又照管せざれ、盗賊劫奪すとも追尋し悋惜すべからず。
 垢衣と旧衣とは浣洗補治して、垢膩を去って浄潔ならしめ、之を著用すべし。垢膩を去らざれば、身冷えて病発す、又障道の因縁と為るなり。
 然も身命を管せずと雖も、衣足らず食足らず睡眠足らず、是を三不足と名づく、皆、退墮の因縁なり。
 一切の生物、堅物、乃至損物、不浄食は、皆、之を食すべからず。腹中鳴動し、身心熱悩して、打坐に煩い有り。
 一切の美食、耽著すべからず、但だ身心に煩い有るのみに非ず、貪念未だ免れざる所なり。
 食は祇だ気を支うるを取って、味を嗜むべからず。或いは飽食して打坐するは、発病の因縁なり。大小の食後、輙ち坐することを得ざれ。暫く少時を経て、乃ち坐すべきに堪えたり。
 凡そ比丘僧は必ず食を節量すべし、節量食は、謂く分を涯るなり。三分の中、二分を食し、一分を余す。一切の風薬、胡麻、薯蕷等は常に之を服すべし。是、調身の要術なり。
 凡そ坐禅の時は、牆壁・禅椅及び屏障等に靠倚すべからず。又風の烈しき処に当たって打坐すること莫れ、高顕の処に登って打坐すること莫れ、皆、発病の因縁なり。
 若し坐禅の時、身或いは熱きが如く或いは寒きが如く、或いは渋るが如く或いは滑かなるが如く、或いは堅きが如く或いは柔かなるが如く、或いは重きが如く或いは軽きが如く、或いは驚覚するが如くなるは、皆、息の不調なるが如し、必ず之を調うべし。
 調息の法、暫く口を開き張り、長息なるは則ち長きに任せ、短息なるは則ち短きに任せ、漸漸に之を調え、稍稍に之に随う。
 覚触来る時、自然に調適す、而して後に鼻息は通ずるに任せて通ずべし。
 心若しくは或いは沈むが如く或いは浮くが如し、或いは朦なるが如し或いは利なるが如く、或うは室外通見し、或いは身中通見し、或いは仏身を見、或いは菩薩を見、或いは知見を起こし、或いは経論に通利す、是の如き等種種の奇特、種種の異相は、悉く是、念息不調の病なり。
 若し病有る時、心を両趺の上に安んじて坐す。
 心、若し昏沈する時は、心を髪際眉間に安んず。心、若し散乱する時、心を鼻端丹田〈丹田は臍下一寸五分を謂うなり〉に安んず。
 居常に坐する時は、心を左掌の中に安んず。若し坐久しき時は、必ずしも心を安んぜずと雖も、心、自ら散乱せざるなり。  
 復、古教の如きは、照心の家訓なりと雖も、多く之を見、之を書し、之を聞くべからず。多きときは則ち皆乱心の因縁なり。凡そ身心を疲労するは、悉く発病の因縁なり。
 火難・水難・風難・賊難、及び海辺、酒肆、婬房、寡女、処女、伎楽の辺に、并びに打坐すること莫れ。国王・大臣・権勢の家、多欲・名聞・戯論の人も、亦近づいて之に住することを得ざれ。
 大仏事・大造営は、最も善事なりと雖も、坐禅を専らにする人は、之を修すべからず。
 好んで説法教化することを得ざれ、散心乱念、是れより起こる。多衆を好楽し弟子を貪求することを得ざれ。多行・多学することを得ざれ。
 極明・極暗・極寒・極熱、乃至遊人・戯女の処、并びに打坐すること莫れ。
 叢林の中、善知識の処、深山幽谷、之に依止すべし。緑水青山、是、経行の処、渓辺樹下、是、澄心の処なり。
 無常を観ずること忘るるべからず、是、探道の心を励ますなり。
 坐褥、須らく厚く敷くべし、打坐は安楽なり。
 道場、須らく浄潔なるべし、而かも常に焼香・献華す、則ち護法善神、及び仏菩薩、影向守護するなり。
 若し仏菩薩、及び羅漢像を安置すれば、一切の悪魔鬼魅、其の便を得ざるなり。
 常に大慈大悲に住して、坐禅無量の功徳を、一切衆生に回向せよ。憍慢・我慢・法慢を生ずること莫れ。此は是、外道・凡夫の法なり。誓って煩悩を断じ、誓って菩提を証せんことを念じ、祇管に打坐して一切為さず、是、参禅の要術なり。
 常に目を濯い足を洗って、身心閑静にして、威儀整斉なるべし。応に世情を捨て、道情に執すること莫れ。
 法は慳むべからずと雖も、然も請わざれば説くこと莫れ。三請を守って四実に従い、十たび言わんと欲して九たび休し去り、口辺醭生じ、臘月の扇の如く、風鈴の虚空に懸りて四方の風を問わざるが如くなるは、是、道人の風標なり。
 只法を以て人に貪らざれ、道を以て己に貢らざれ、便ち是、第一の用心なり。

 夫れ坐禅は、教行証に干かるに非ず、而して此の三徳を兼ねる。
 謂わく証は、悟を待って則と為すは、是れ坐禅の心にあらず。
 行は、真履実践を以てするは、是れ坐禅の心にあらず。
 教は、断悪修善を以てするは、是れ坐禅の心にあらず。
 禅中、縦い教を立てるも而かも居常の教に非ず。
 謂く直指単伝の道は、挙体全く説話、語本章句を没し、意尽き理窮まる処、一言十方を尽くし、絲毫も未だ挙揚せず、是、豈に仏祖真正の教にあらざらんや。
 或いは行を談ずと雖も、又無為の行なり。
 謂く身に所作無く、口に密誦無く、心に尋思無く、六根自ら清浄にして、一切染汚せず、声聞の十六行に非ず、縁覚の十二行に非ず、菩薩の六度万行に非ず。
 一切為さず、故に名づけて仏と為す。只、諸仏の自受用三昧に安住して、菩薩の四安楽行に遊戯す。
 是、豈に仏祖深妙の行にあらざらんや。
 或いは証を説くと雖も、無証にして証す。是、三昧王三昧、無生智発現三昧、一切智発現三昧、自然智発現三昧、如来智慧開発明門、大安楽行法門の所発なり。
 聖凡の格式を超え、迷悟の情量を出づ。是、豈に本有大覚の証ならざらんや。
 又坐禅は、戒定慧に干かるに非ず、而して此の三学を兼ねる。
 謂わく戒は、是れ防非止悪、坐禅は挙体無二と観ず、万事を抛下して、諸縁を休息して、仏法世法を管せず、道情世情双べ忘じて、是非無く善悪無し。何の防止か之れ有らんや。此は是、心地無相戒なり。
 定は是、観想無余なり。坐禅は身心を脱落し、迷悟を捨離し、不変不動、不為不昧、痴の如く兀の如く、山の如く海の如く、動静の二相、了然として生せず、定にして定相無し、無定相なるが故に大定と名づくなり。
 慧は是、簡択覚了なり。坐禅は所知自ら滅し、心識永く忘ず、通身慧眼にして、簡覚有ること無く、明らかに仏性を見て、本迷惑せず、意根を坐断し、廓然として瑩徹す、是、慧にして慧相無し、慧相無きが故に大慧と名づくなし。
 諸仏の教門、一代の所説、戒定慧の中に総べ収めざるは無し。
 今坐禅は戒として持せざるは無く、定として修せざるは無く、慧として通ぜざるは無く、降魔成道、転輪涅槃、皆、此の力に依る、神通妙用、放光説法、尽く打坐に在るなり。
 且つ参禅は、亦、坐禅なり。
 坐禅せんと欲せば、先ず静処宜しく、茵褥は須く厚く敷くべし、風煙をして入らしむること勿れ、雨露をして侵さしむること勿れ。
 膝を容るるの地を護持し、打坐の処を清潔にせよ。
 昔人、金剛座に坐し、盤石の上に坐するの蹤跡有りと雖も、亦、坐物有らざる無し。
 坐処は当応に昼は明らかならず、夜は暗からず。冬暖夏冷、是、其の術なり。
 心意識を放捨し、念想観を休息し、作仏を図ること勿れ、是非を管すること勿れ。
 光陰を護惜して、頭燃を救うが如くせよ。如来の端坐、少林の面壁、打成一片にて、都て他事無し。石霜は枯木に擬し、太白は坐睡を責む。
 焼香・礼拝・念仏・修懺・看経・持課を用いず、祇管に打坐して始めて得てん。
 大抵坐禅の時は、袈裟を搭すべし〈開定の前、後夜と晡時とを除く〉、蒲団〈経亘一尺二寸、周囲三尺六寸〉を略すること莫れ。
 全く趺坐を支うるに非ず、跏趺の半ば自り、後は脊骨の下に至る、是、仏祖の坐法なり。
 或いは結跏趺坐し、或いは半跏趺坐す。結跏法は、先ず右足を左髀の上に置き、以て左足を右髀の上に置け、而して寛く衣物を繋けて〈内衣は紐を帯ぶ〉、整斉ならしめよ。
 次に右手を以て左足の上に安んじ、左手を以て右手の上に安んじ、両手の大指は相拄えて身に近づけよ、拄指の対頭は当に臍に対して安ずべし。
 正身端坐して、左に側ち右に傾き前に躬り後に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と、鼻と臍とは、必ず倶に相対す、舌は上の腭を拄え、息は鼻従り通じ、唇歯相い著け、眼は須らく正に開くべし。張らず微ならず。
 是の如く調身し已って、欠気安息す。所謂、口を開き気を吐くこと一両息するなり。次に須く坐定して身を揺すること七八度して、麁自り細に至り、兀兀として端坐するなり。
 此に於いて思量箇不思量底、如何思量、謂く非思量、是、乃ち坐禅の要法なり。直に須く煩悩を破断し、菩提を親証すべし。
 若し定より起たんと欲せば、先ず両手を両膝の上に仰ぎ安んじながら、身を揺すること七八度して、細自り麁に至り、口を開いて気を吐き、両手を伸ばして地を捺え、軽々に座を起ち、徐々と行歩し、須く順転順行すべし。  
 坐中若し昏睡来たらば、常に応に身を揺かし或いは目を張り、又、心を頂上髪際眉間に安ずべし。
 猶、未だ醒めざる時は、手を引いて応に目を拭い或いは身を摩すべし。猶、未だ醒めざる時は、座を起って経行すべし。
 正に順行を要す。順行して若し一百許歩に及べば、昏睡必ず醒めん。
 而して経行の法は、一息恒に半歩なり。行くも亦、行かざるが如く、寂静にして動かず。
 是の如く経行すれば猶、未だ醒めざる時、或いは目を濯い頂を冷やし、或いは菩薩戒の序を誦し。種種に方便して、睡眠せしむること勿れ。
 当に生死事大無常迅速なるに、道眼未だ明らかならず、昏睡、何ぞ為さんと観ずべし。
 昏睡頻りに来たらば、応に発願して云うべし、業習、已に厚し、故に今、睡眠蓋を被る、昏蒙何れの時か醒めん、願くは仏祖大悲を垂れて、我が昏重の苦を抜きたまえ、と。
 心若し散乱する時は、心を鼻端丹田に安じ、出入の息を数えよ(しばしば、息を出入せよ)。
 猶、未だ休まざる時は、須く一則の公案を提撕挙覚すべし。
 謂く、是れ何物か恁麼に来る、狗子無仏性、雲門の須弥山、趙州の栢樹子等の没滋味の談、是、其の所応なり。猶、未だ休せざる時、一息截断、両眼永閉の端的に向かって、打坐工夫し、或いは胞胎未生、不起一念已前に向かって、行履工夫せば、二空勿ち生じ、散心必ず歇まん。
 定より起つの後、不思量にして威儀現ずる時は、見成則ち公案なり、不回互にして修証を成ずる時は、公案即ち見成なり。
 朕兆以前の消息、空劫那畔の因縁、仏々祖々の霊機枢要は、唯だ此の一事なり。
 直に須らく休し去り歇し去り、冷湫湫地にし去り、一念万年にし去り、寒灰枯木にし去り、古廟香炉にし去り、一條白練にし去るべし。
 至祷至祷
  坐禅用心記 終


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