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第32回 栃木県梅花流詠讃歌奉詠大会
⇒師範による新亡精霊供養ご和讃

11月21日(金) 於鬼怒川・あさやホテル
全超寺梅花講は、「大本山永平寺二祖懐奘禅師讃仰御和讃・御詠歌」を奉詠致しました。

- 第23回栃木県梅花流詠讃歌奉詠大会 記念法話/概要 -

「徹通義介禅師 700回御遠忌の年によせて」

全超寺住職  黒田光泰

  昨日は、皆様方、大変緊張の中、各講の登壇奉詠を務められまして、お疲れの中にも充実感をお持ちのことと思います。十年以上も毎年、もっとも間近で皆様のお唱えの声や所作を拝見し、この五感で皆様の様子を感じながら、聴かせて戴いています。皆様の奉詠を一番近くで見学させていただいて、梅花を学ぶものとして感じることがあります。緊張で震えている方、初心者で隣の方に手ほどきを受けている方、大会の雰囲気にすっかり慣れていて堂々とされている方、鈴鉦を間違って鳴らしてしまい恐縮している方など様々ですが、どなたも精いっぱいの奉詠をされていること、まっすぐに取り組んでいる様子が昨日も確かに感じられました。ありがとうございました。
 
  奉詠大会は順位を競うものではありません。それぞれの講が、互いの講の奉詠を認め合い讃え合う、皆様方が梅花流詠讃歌と御縁を頂き学び合うことを幸せと感じて喜び、今日こうして日頃の勉道精進を賞賛し、共にこの会場にいることを喜び感謝しあう、同行同修の喜びの集いです。
 実はこの喜びの心が、今回の大会のテーマであり、所長老師があいさつで述べられた「喜心(きしん)」なのです。仏法に出会い、共に修行していることを喜ぶ心こそが「喜心」です。
 
 道元禅師は、喜心についてこう示されています。
 「いわゆる喜心とは、喜悦の心なり」(『典座教訓』)と。
 仏法に出会い、それを修行できる喜び、そして感謝する心が「喜心」なのです。
 
 また、道元禅師はこうも言っています。
 「修行をするものについて、その長所や短所を問題にしてはいけない。また、相手の修行の進みぐあいによって態度を変えてはいけない。自分のひとりよがりで他人を価値判断して、それが間違っていないことがあろうか。得意になって他人を批判する人に限って、その批判がそっくりその人に当てはまる場合が多いものです。
 年老いた先輩と、まだ修行を始めたばかりの後輩とでは、姿や形も異なっているし、知恵のある賢いものもいる。しかし、人格の完成を目指して修行に励んでいるという点においては、全く変わりはない。」(『典座教訓』)
  
 そして(『禅苑清規』を引用して、)「僧は凡聖なく、十方に通会す」(修行僧は優れているとか、劣っているとかが問題ではなく、人格の完成を目指して修行するというその一点において、価値がある)(『典座教訓』)と示されています。
 
 他人の悪口を声高に言う人がいます。初めは「そうなのか」と思って聞いています。二度目に同じ話を聞くと、「またその話か」となり、三度も聞かされるとウンザリして「もう、いい加減にしてくれ」と思います。道元禅師が言われるように、人の批判がそっくりその人に当てはまることが多いように思います。悪口を言っている人は、必ず陰で同じ悪口を言われているものです。
 
  また、反対にいつも人に感謝をしている人がいます。私は幼稚園の園長として、毎日多くの子供たちや保護者の方と接しています。幼稚園の保護者の中に、いつも会うたび感謝の言葉を口にされ、私にも、担任にも、そして子供の友達の保護者にも「ありがとう」の感謝の言葉を話される人がいます。
  見ていると、その人の周りにはたくさんのお友達がいて、いつもニコニコ笑顔で談笑しています。子ども達もニコニコ笑顔です。感謝の心は、感謝の輪となって広がり、その人の周りに水面には、石を落とした時に出来る波紋のように感謝の輪が広がっていくでしょう。
 
  今大会のテーマ「喜心」は、自らがその喜びや喜びの感謝の輪の中心となり、喜心の心を広げていく「行」のことなのです。自分の自分だけの喜び感謝だけでなく、回りに向かって周りの人々に喜びや感謝を行っていくことが、本当の喜心です。
 
  さて、御詠歌をお唱えする時に、「こころを込めてお唱えしましょう」と先生方がよく言われます。では、皆さんにお尋ねします、「こころを込めるとはどうゆうことでしょうか?」
  
  わたしはこう思っています。心を漢字で書くと、それは自分それぞれ個人の心を意味します。しかし、「こころ」とひらがなで書くと、もっと広い意味に広がっていきます。「命」もそうです。命を漢字で書くと個人の人間個体の命であり、肉体をもった一人ひとりの命なのです。しかし、ひらがなで「いのち」と書くと違ってきます。つながりをもった大きなものとなります。自分も含めて、繋がりあっている大きなものです。
  ですから、「こころを込めてお唱えします」ということは、お唱えの中に、自分一人よがりでなく、歌詞の意味を深く考え、回りの人を意識して、思いやりや慈悲のこころを持ってお唱えすることがその意味だと思っています。
  
  喜心のこころも、自分一人の心ではなく、喜びを広げ繋いでいく「喜び感謝するこころ」の行ないなのです。
 
 道元禅師は、「喜心」のほかに「老心」と「大心」の三つのこころを示されています。
 
  「老心(ろうしん)」とは、子供を思う父母の心のことです。親は、ただひたすら我が子の健やかな成長を願います。自分の寒いことも忘れ、自分が暑いことも忘れて子供を寒さや暑さから守ろうとする。この心こそ、純粋で一番心がこもっている。また、その心をいつも持ち続けようとして行っている人であってこそ初めて「老心」が身に付くと示されています。
 
  「大心(だいしん)」とは、大きな山のようにどっしりと落ち着いた心であり、また海のように広々として、一方に偏ったり、とらわれたりすることのない心です。個々の違いに心を乱すことなく、全体を見通すという観点から、心の中に大の字を書き、大の意味を知って、本当に言わんとするところを考えることが大切です。この大の字を常に持って、広く寛容なこころで人に接することを示しています。
 
  この道元禅師の示された三つのこころこそ、曹洞宗の大切な教えであり、このこころによって現在の曹洞宗の発展があるのです。この道元禅師の示されたこころを終世大切に実践し、さらに弟子の螢山禅師に伝えた方が第三代の徹通義介禅師です。
 
 今年は、当にその徹通義介禅師の700回御遠忌の歳に当ります。
 
 いまから700年前の延慶2(1308)年10月14日(旧暦9月14日)、徹通義介禅師が遷化されました。お歳は数え91歳という長命でした。義介禅師は、永平寺の道元禅師の愛弟子で、道元禅師から法を受け継いだ懐奘禅師から法を受け永平寺の第三世となられ、その後加賀(現在は石川県金沢市長坂)に大乗寺を開きました。そして、その弟子には総持寺を開かれ、曹洞宗の教えを広くひろめられた螢山禅師がおられます。
 
 正当の700回の御遠忌という御縁もあり、本日は徹通義介禅師の生涯とその教えについてお話をさせて頂き、縁につながるものとして感謝報恩の思いで、自らの学びとしたいと思います。
 
 わたくし事ですが、去る9月13日に石川県輪島の総持寺祖院の御征忌に拝登し、本堂で礼拝しお参りをさせて戴きました。お参りの後、その足で福井の大本山永平寺に参拝し、その日は福井で宿泊し、翌朝、義介禅師の正当のご命日(9月14日)に金沢の大乗寺にお参りさせていただきました。
 
 大乗寺にお参りした当日は、10月14日に行われる御開山・義介禅師の御征忌のちょうど1ヶ月前で、(菊の花の宴)「菊花の宴」の法話とコンサートが午後に開催され、その準備で山内は慌ただしく忙しそうでした。ご住職の東隆真老師は総持寺祖院の焼香師として出かけられていて、お会い出来ませんでしたが、本堂には、義介禅師の頂相(ちんそう)といって在りし日の義介禅師の肖像画の掛け軸が掲げられており、軸の前にはお香がたかれ、幸いにも有難くお参りをすることができました。その姿は、室町時代に描かれたものだそうですが、曲禄に腰掛けて、右手に払子を持ち、左上方を見上げているお姿で、柔和なお顔で生涯質素を旨とされた禅師をよく現わしています。
 大乗寺では、道元禅師と懐奘禅師そして御開山の義介禅師を三大尊として奉っています。
 本堂でのお参りの後、境内の義介禅師のお墓に参り、墓前でお参りをさせて頂きました。
 
 江戸時代に面山瑞方(めんざんずいほう)というお坊さんがいて、義介禅師のことをその弟子たちにこう言っています。
 「もしも、徹通義介禅師が短命であったなら、道元禅師の伝えた仏法の正しい流れは無くなってしまったかも知れない。 ほそい、ほそい一本の糸のような道元禅師の仏法が、懐奘禅師、義介禅師を介して、螢山禅師にようやく繋がったのじゃ。危ういかな、危ういかな。」
 
 これから、その言葉の意味を重く受け止めながら、義介禅師の生涯を学びたいと思います
 
 義介禅師は、今から790年ほど前の承久元年(1219)6月15日に越前吉田郡稲津保、現在の福井県福井市稲津(いなづ)町に藤原一門の子として生まれました。義介禅師が生まれた年は、鎌倉幕府の3代将軍・源実朝(さねとも)が、北条の陰謀により暗殺され、源氏にとってかわって北条義時(よしとき)が幕府の実権を握った混乱した時代でした。
 
 義介さまは、幼い頃より仏教の基礎を学び育ちました。13歳の時に今の福井市にあった波著寺(はじゃくじ)に登り、達磨宗第三祖の懐鑑(えかん)和尚について出家しました。その時に、義鑑(ぎかん)と名づけられ、翌年14歳の時に比叡山に登って僧侶としての戒を受けました。
 
 当時の波著寺は、達磨宗という禅宗の一派でした。
 
 達磨宗とは、達磨大師の教えに基づく宗派です。
 その達磨宗の教えとは、「仏と衆生(人々)とは、ひとつである」ということです。
 「仏は衆生であり、衆生は仏である。ですから、この私も仏であり、この私の心も仏に他ならないのです。私の心だけではなく、この世のすべてのものが、仏なのだ」と教えています。
 
 では、「その心とは何なのか。 このことを明らかにし、この心を信じるところに、あらゆる罪が消え去り、福徳を得ることができる。全てのわざわいが取り除かれて、大いなる喜びを得ることができ、現在のしあわせを確かなものとすることができ、未来のしあわせを得られるのだ」と、説いています。
 この「すべてのものは仏であり、さとりの姿そのままである」という教えは、本覚法門の流れに沿いますが、これには疑問がありました。「すべてがそのまま仏であり、そのまま悟りの姿であるなら、特別に修業などする必要などないのではないか」という疑問です。このことは、この後に説明しますが、義介さまはこの達磨宗の教えのもとで、ひたすら厳しい修行を行っていました。
 
 やがて、30歳を過ぎ、31歳とも33歳とも伝えられていますが、義介さまはその優れた能力と努力が認められて、第三祖の懐鑑の許しを得て、達磨宗の第四祖となられました。
 
 少し時代が戻りますが、義介さま21歳のころ、京都に新しい禅の教えを人々に広めている道元というひとの噂が伝わってきました。
 当時の達磨宗には、やがて道元禅師に仕え、法を受け永平寺の第二代目となられた懐奘さまもおられました。懐奘さまは、達磨宗の教えこそ最高の禅の教えと信じて、修行をなさっていましたが、道元禅師のうわさを聞き、どれほどの者かと思い道元禅師のもとを訪ねて論戦を挑みます。
 
 懐奘さまは道元禅師に向かって「座禅は悟りを得るための修行であり、座禅をして悟りを得ることが正しい禅の教えである」と言います。
 すると、道元禅師は「いや、そうではない。座禅は悟りを得るための修行ではなく、座禅をすることが悟りである」と示します。
 
 懐奘さまは、もう何年も座禅を続けておられました。それは、座禅によって悟りを得ようとして、座禅は悟りを得るための手段として続けていたのです。それに対し、道元禅師は、「修行と悟りとは、一体であり、修行している中に悟りが現れており、悟りのあるところには修行が行われている」と示されています。座禅は目的ではなく、悟りそのものなのです。そして、これこそがお釈迦様以来、正しく伝えられた教えなのだと。
 
  先ほど「すべてがそのまま仏であり、悟りの姿そのままであるなら、特別に修業などする必要などないのではないか」という疑問に対して、「悟りは修行の中に現れ、修行がなければ仏や悟りは現れないのである」と、道元禅師に示され、懐奘さまは目からうろこの思いを持たれました。
  
 この後、懐奘さまは道元禅師のもとに弟子入りをするのです。
 
 義介さまも23歳の時に、懐奘さまの勧めで道元禅師を訪ねています。
 このころに、道元禅師は京都の宇治・深草に興聖寺を建て、そこには道元禅師に教えを頂くたくさんの人々が集まってきていました。義介さまも、しばらく興聖寺にとどまり、道元禅師とともに修行を行いました。
 
 お釈迦様は悟りをひらかれましたが、その修行が座禅であり、座禅の修行を行うことが、お釈迦様の悟りを自らの体で体現することなのです。
 
 道元禅師の人柄に接し、またその教えに共感した義介さまは、13歳で出家してより10年間、達磨宗に身を置きましたが、道元禅師のもとに弟子入りすることにしました。
 
 1243年に道元禅師は、越前の山裾に入り、波多野氏の帰依を受けて、翌年いまの永平寺を建てます。
 その当時、25歳の義介さまは、永平寺にあって、典座(てんぞ)という役を担当します。典座とは、修行僧の食事を調理する台所係です。台所も修行僧にとっては重要な修行の道場です。経を読み、座禅を行うことだけが仏道の修行ではありません。
 桶を担いで、八丁(約900m)の山坂道を日に何度も往復することも毎日のつとめであり、修行でした。永平寺の草創期にあっては、道元禅師にとって、義介さまは懐奘さまとともになくてはならない大きな存在となっていました。
 
 やがて、建長4年(1252)の秋、53歳となられた道元禅師は、重い病の床につきました。義介さまはじめ弟子たちは、毎日親身な看護を続けましたが一向に良くなる気配はありません。
 
 翌年、建長5年の7月に懐奘さまの、京には優れた医者もいるし、良い薬もあるという申し出もあって、道元禅師は京都で養生することに決めます。その病床の中で、道元禅師は懐奘さまに「このたび永平寺を離れ京に往けば、こののち再び永平寺に戻れないかも知れない。その時はこの永平寺は懐奘に託すので、後を頼む」と申されました。
 
 また、義介さまには「そなたは一生懸命修行を行ってはいるが、少し老婆心が足りぬ、厳しさは必要であるが、厳しすぎても人はついて来ない。徹底した親切心を持つように心がけなさい」と示されました。「老婆心」とは「老心」であり、先に申し上げた通り、子供を思う父母の心のことです。親がただひたすら自分のことはさておいても我が子の健やかな成長を願う心です。
 このお示しを受け、義介さまは「涙をおさえて、かしこまるのみ」(『永平開山御遺言記録』)と申されています。そして、「この道元禅師のいさめの言葉を、終世忘れず心(意)に留めます」と誓っています。この後、生涯にわたり、義介さまは相手を思いやる親切心をもって人々に接することを心掛けたようです。
 
 8月5日、道元禅師は養生のため、永平寺を離れ京都に向かいました。
 道元禅師には、懐奘さまはじめ数人の弟子たちが付き添い、義介さまは、永平寺の留守を任されて、木の芽峠(きのめとうげ)で一行を見送りました。
 
 「草の葉に  首途(かどで)せる身の  木の芽山 (きのめやま) 雲の路ある 心地(こころぢ)こそすれ」
  道元禅師が永平寺を離れ、最期に京都に向かった時に読んだ歌です。
 
  「こうして永平寺を離れ、草の茂る木の芽山から見る眼下の雲は、永平寺につながる道のように見える、出来るなら今すぐにもその上を通ってすぐにでも永平寺に行きたい気持ちだ」と、 永平寺を強く思う気持ちを詠われました。
 
 京に着き、俗弟子の屋敷に落ち着いた道元禅師は、手厚い看護のもと養生を続けました。しかし、病気は一向に回復せず、建長5年(1253)8月28日に54歳で遷化されました。
 
  道元禅師が亡くなられ、懐奘さまは道元禅師のお言葉に従い、永平寺の第二代の住職となられました。しかし、道元禅師というすぐれた指導者を失い、永平寺の緊張感がゆるみ、修行にも以前のような活力がなくなってしまいました。
 
  そこで、懐奘さまは義介さまに指示します。
 「このままでは道元禅師に申し訳ない、急ぎ現状を分析し、新しい体制を確立しなければならない。そのため、京都や鎌倉に行き、さらには宋(中国)に渡り、あらゆる資料を調べ集めてきて欲しい」と。
 義介さまは、鎌倉や京都に行き、建仁寺、東福寺、寿福寺、建長寺などの寺院を巡り、正元元年(1259)に宋に渡り、道元禅師の足跡をたどって多くの禅寺を視察して歩きました。そこで禅宗寺院の建築様式や伽藍の配置、年間の行事や修行生活、さらには禅の教えを調べ学んできました。4年間の視察を終え、帰国した義介さまは、すぐさま永平寺に戻られ、永平寺に山門を建て、二つの廊下を創り伽藍を整備し、三尊仏や土地神を奉り、春夏秋冬の四節の礼儀を整え、修行生活の規則を新しくしました。こうして懐奘さまのもと、義介さまの努力が実り、永平寺を活性化することができたのでした。
   
  こののち、文永4年(1267)義介禅師は49歳の時、永平寺第三代住職となられました。
 しかし、このころから永平寺に居る仲間の僧侶たちの中に、義介禅師を批判し追い出そうとする動きが目立ち始めました。義介禅師は能力もあり、運営の実務にも優れ、何事にも積極的な気質でしたが、その義介さまをねたむ気持ちと、達磨宗の第四代の法を受け継いでいる義介さまは、道元禅師の純粋な後継者ではないという批判でした。
  
 しかしながら、達磨宗の法を継いだから純粋ではないという義介禅師に対する批判は不穏当です。道元禅師も明全和尚から法を継いで臨済宗黄竜派(おうりゅうは)の第10世となり、重ねて如淨禅師からも法を継いでいます。義介禅師をあげつらうなら、道元禅師も純粋という訳にはいかないのです。
 
  一説には、義介禅師は少し世間じみていて、それゆえ道元禅師からは直接印可証明を頂けなかったとも言われています。しかし、その卓越した感性や運営能力、そして指導力や実行力は皆が認めるものでした。それゆえの、ねたみも大きかったのかもしれません。
 
 永平寺の中では、こうした派閥の対立が激しくなりましたが、義介禅師は悩みながらも、住職として毅然とした態度で務められていました。
  義介禅師を支えていたものは、道元禅師の教えである「怠らない修行こそもっとも尊いものであり、修行の中にのみ悟りは現れていく」というものでした。しかし、住職となられた6年後ついに、義介禅師は永平寺住職をしりぞきました。
 
  永平寺にいる間、義介禅師は、永平寺のふもとに「養母堂」を建てて、年老いた母親を呼びよせ、21年もの間、母親の介護をされたそうです。養母堂は、永平寺山内の霊梅院という説や、現在の駐車場にあった霊山院との説もあり、その場所は定かではありませんが、その孝養のお心には敬意もうしあげます。
 
 そして、70歳になろうという時、まだ20歳であった螢山さまを伴い、永平寺を去ります。その後、加賀(石川県金沢市)に富樫家を開基として、真言宗の寺院を改め、大乗寺を開かれました。
 大乗寺に住職として6年勤めた後は、弟子の螢山禅師に2代目住職を譲り、今から700年前、旧暦の9月14日、現在の10月14日に91歳で遷化されました。
 
 義介禅師の最後の言葉は次のようなものです。
  「七顛八倒 九十一年(くじゅういちねん) 芦花(るか)、雪を帯び 午夜(ごや)の月 円なり」
 「あちらへ転がり、こちらに転がった91年の生涯であった。しかし、芦の花は雪をかぶり、真夜中の月はまんまるだ。」
 
 苦悩も多く、悩み苦しみ、幾多のお寺を回られました。ついには、永平寺を去り、金沢の大乗寺に落ち着き、曹洞宗の教化発展の指導者となる螢山禅師を育て上げました。その最期は満月の様な欠けることない充実した心持ちで遷化されました。終世常に道元禅師の教えを胸に、慈悲の心掛けを大切にして、人々を教化された御生涯でした。
 
 道元禅師は、しきりに「貧を学べ」(『隋聞記』)と教えられました。
 
 螢山禅師は、義介禅師のひととなりをこのように記しています。
 「義介禅師は、僧侶として清潔そのもの、貧をもって家風とした。それゆえ、自分も貧を学んで、その跡を継いでいきたい」(『徹通義介禅師奉喪記』)と。
 自らの決意を込めて申されています。 
 
 「貧を学ぶとは、自分を反省し、自分を捨てて、仏法の大海に全身を投ずること」(『隋聞記』)です。
 
 こののち、義介禅師の想いを継いだ螢山禅師は、総持寺や永光寺(ようこうじ)といったお寺を建て、沢山のすぐれた弟子を育てられました。そして、この弟子たちが全国に散り、曹洞宗の教えが日本中、津々浦々まで広く伝わっていったのです。
 
 相手を思いやるこころがなければ、人は集まりません。道元禅師の教えである三つの心「喜心」「老心」「大心」をこころとし、自らの実践でその教えを伝えられました。
 義介禅師の離れた永平寺は、諸堂が荒れて、次々と修行僧も去り、人心も離れ、仏法は弘まるこことなく、義介禅師が整備された伽藍も荒廃し修行も十分にできる環境ではなかったようです。
 
 義介禅師のあと、永平寺の住職となった義演さまからの法の流れは、絶滅に等しく、現在の曹洞宗の教えの系図は、義介禅師から螢山禅師を経て伝わっているものがほとんどなのです。
 面山和尚が道元禅師、懐奘禅師、そして義介禅師に、義介禅師から螢山禅師に、「ほそい ほそい 一本の糸のようなつながりである。あやうい あやうい」と漏らしたことがよく判ります。
 
 もしも義介禅師が短命であり、その教えが螢山禅師に伝わらなかったとしたなら、現在の曹洞宗の姿は、別のものになっていたと思います。
 このように、義介禅師は曹洞宗にとりまして、大変大きな大きな働きを成されました。宗門の発展の礎となる螢山禅師を育てられ、諸国を巡り、中国にも参じ永平寺の伽藍を整備し、修行の規範を整えられ、正に中興に値する働きをなさった偉大な方でした。
 
 義介禅師は、「貧をもって家風とされた」方で、常に自分を反省し、自分を捨てて仏法を行じられた方でした。
 また、道元禅師の示された教えである三つの心「喜心」「老心」「大心」をこころとし、身をもってお伝えくだされました。私たちはその生涯や教えを深く学び、学んだ教えを生活の中で実現していかなければなりません。
 
 この義介禅師の700回の御遠忌の年にあたり、そのお働きと教えに敬意と感謝を申し上げます。
 
 最後にお願いがあります。
 梅花流詠讃歌は、所作やお唱えで仏の教えを学びますが、何より大切なのはその教えを正しく学び、それぞれの生活の中で自らが実践し行っていくことです。所作やお唱えを学ぶだけではありません。その歌詞の意味する教えを学び、お唱えするのです。その為には、歌詞の意味を正しく理解して欲しいと思います。
 
 今から2200年前のことです。中国に文恵君(ぶんけいくん)という王様がいて、その食事係に庖丁(ほうてい)という料理の名人がいました。その腕前は、他に比べるものがないほど、素晴らしかったそうです。
  ある時に、庖丁は王様の前で牛を料理して見せました。手の動き、足の運びなど、身のこなしは実に見事で、肉を切る響きは音楽の様で王様が感心していると、庖丁は次のように言いました。
  
 「腕の良い料理人でも、筋を切ったりして、一年で包丁を替えるでしょう。普通の料理人なら、骨に歯を当ててしまい、一月で折れてしまいます。しかし、私は19年も使っていて、数千頭の牛を料理しましたが、刃こぼれひとつありません。それは、骨と肉の間には必ず隙間があり、そこに刃を入れ、決して無理をしないからです」
  庖丁は自分の腕のよさを自慢したのではありません。
  「私は技を問題にするのではなく、牛の本質を研究し見抜こうと努力して来ました」と説明しました。
  何事も、そのものの本質を見抜き、理解することが肝要でしょう。庖丁もはじめから名人だったのではなく、牛の体を研究し、刃を入れる要領をつかむのに3年かかり、さらに何年も工夫し努力したそうです。すべては用いる人の心にかかっているのでしょう。探究する心が技を磨き、技能を高めていくのでしょう。取り組む心の大切さを思います。
 
  これは、荘周(そうしゅう)の書いた『荘子(そうじ)』に載っている話です。庖丁の「庖」は料理人のことで、「丁」は人の名前です。料理に用いる刃物を包丁(庖丁)というのはこの話に由来するそうです。
 
 この話のように梅花流詠讃歌を学ぶ時は、表面的な所作やお唱えを学ぶことも大切なことですが、その歌詞の意味を正しく理解し、本質を考えて学ぶことがなにより大切だと思います。
  
 歌詞の意味は、各講の先生方にご指導頂ければと思いますが、各自がさらに意味の理解を深めるためには、その歌詞を何度も何度もお唱えの前に声に出して読んでみることがいいでしょう。お唱えする前に読んでいると、自然と言葉と一緒にその意味が体の中にしみこんでいくと思います。
 何度も声に出して、何度も読んでみる。次第にお唱えも変わってきます。
 師範の一人として、この機会にお願い致します。
 
  義介禅師の700回の御遠忌に当たり、義介禅師のご遺徳を讃え、感謝申し上げまして、義介禅師の愛弟子であり、その教えを受け継いだ螢山禅師讃仰の御詠歌「太祖常済大師螢山禅師讃仰の御詠歌」を敬意と報恩感謝のお心でお唱え致します。
 
 「とことわに 人を渡して 今もなお 禅師の慈悲は 世を照らすなり」
 「常にそしていつまでも、人々を救い渡した禅師の慈悲のこころは、今もなお、この世の中を太陽のごとく、月のごとく照らし続けていてくれています」という、解釈になります。
 
  この御詠歌は、螢山禅師を讃え仰ぐものですが、螢山禅師を通した先に、螢山禅師に正しい仏法を伝えられた義介禅師がおられます。法のともしびは、義介禅師より螢山禅師に確実に伝わり、そのみ教えが今日の曹洞宗の教えの本流となっていることを知らなければなりません。ですから、この御詠歌は、義介禅師の実践されたお働きを讃嘆するものでもあると私は思うのです。
 
 いついつまでも、禅師の慈悲の心が、広く世の中を照らし導いて下さることを念じて、この御詠歌を、平塚泰延先生にお唱え願います。平塚先生は、行も学も県下随一と思っています。どうか皆様方、姿勢を整えられ、どうぞ敬意と報恩感謝のお心で清聴願います。
  
 「願わくは この功徳をもって あまねく一切に及ぼし われらと衆生と 皆共に 仏道を 成ぜんことを」

合掌

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