・・・・・・平成28年03月・・・・・・

阿難尊者あなんそんじゃ
 阿難尊者は、お釈迦さまの実の従兄弟で、侍者じしゃ(おそばつき)として25年もの間ひたすら随従され、弟子12人の中で常にお釈迦さまの説法を間近で聴聞され、よく質問され、その記憶力が抜群だったことから「多聞たもん第一」と称されました。お釈迦さま滅後に第一結集という教典編纂のための会議が開催されることになりましたが、阿難はまだ悟りが開けておらず、出席資格である阿羅漢あらかん(修行を修了した者)ではありませんでした。しかし会議には記憶力のずば抜けた多聞第一と言われる阿難の出席は是が非でも欠かせません。ついに彼は頑張って阿羅漢の悟りを開き、会議の場では説法回想を担当されて余人の及ばない貢献をされたのです。教典の多くの冒頭は「如是我聞にょぜがもん」とか「我聞如是がもんにょぜ」から始まっていますが、この「我」とは阿難のことだと伝えられています。
 阿難はお釈迦さまの従兄弟であるといいました。お釈迦さまが成道じょうどう(おさとり)された日の未明に叔父である斛飯かくぼんに第二子が誕生されたのです。お釈迦さまの父君の浄飯王じょうぼんおうは「慶喜(めでたい)」という意味の「アーナンダ」(阿難)という名を付けさせたのです。「名は体を表す」とはよく言いますが、彼は生まれつき美男子であり、誰からも「愛でられる」存在でした。特に女性の心を虜にさせるほどでした。そこで、お釈迦さまは、阿難に限っては肌の露出を少なくするように指導されたと伝えられます。彼はまた美男子であるばかりではなく情にも厚く、お釈迦さまの養母の願いを聴き入れて、お釈迦さまに懇願して当時まだ許されていなかった女性の出家(比丘尼)の道を開いた功労者とも伝えられています。教団の中でも阿難に対しての信奉は大きなもので、後々の仏教教団は、阿難を師と仰ぐ人達によって大きく発展したといわれています。お釈迦さまが80歳の夏安居げあんごのとき、諸国を飢饉が襲いました。このような時に教団が一箇所に固まっていたのでは共倒れになってしまうということで、お釈迦さまは一時的に解散命令を出し、ご自身は阿難と二人で過ごすことになりました。お釈迦さまの弟子として、お釈迦さまの最期まで阿難尊者は常に傍らに沿い続け、お釈迦さまの教えを聴き続けた最高の証人だったと言えるでしょう。そして、やがてそんな阿難尊者も最期は教化の情熱を失い、残念なことにガンジス河の真ん中で自らの神通力で起こした炎に身を投じてしまうのです。

合掌


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