・・・・・・平成27年9月・・・・・・

凡聖ぼんしょうなし
典座教訓てんぞきょうくん』には、
衆僧の得失を見るべからず、衆僧の老少を顧みるべからず。おのれすらなおおのれ落処らくしょを知らず、かれもいかでか佗の落処を識ることを得んや。自の非を以て佗の非となす、あに誤らざらんや。・・・・有智も愚蒙も僧宗はこれ同じ。また、昨は非なるも今は是なり、聖と凡と誰か知らん。『禅苑清規ぜんえんしんぎ』に云う、「僧は凡聖なく、十方に通会す」
と、示されています。
 丁寧に読んでみましょう。
 修行僧について、その長所や短所を問題にしてはいけない。また、修行の進み具合によって態度を変えることもいけない。自分のことでさえも、本当に解りきっていないのに、他人がどんな人間であるかを知ることなどできないでしょう。自分のひとりよがりで他人を価値判断して、どうして間違わないことがあろうか。得意になって他を批判する人に限って、そうした批判の内容がそっくりその人自身に当てはまることが多いものです。・・・知恵のある賢い者も、そうでない者もいる。しかし、人格の感性を目指して修行に励んでいるという点においては、全く変わりはない。また、昨日までは間違っていても、今日は正しいということがある。悟っているとか迷いの中にいるとかの絶対的な違いは誰にも分からない。『禅苑清規』には、「修行僧は、優れているとか劣っているとかが問題ではなく、人格の完成をめざして修行するという一点において、価値がある」と説かれています。
 外見や年齢によって人を判断したり、差別することがあってはならないのです。もちろん、これは修行僧にのみ当てはまることではなく、普遍的な真実として日々の生活の中で心得ていなければなりません。

合掌


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