「絶望なし」
中村久子さんという方がいました。1897年(明治30年)11月25日、岐阜県高山町で出生。2歳の時に左足の甲に起こした凍傷が左手、右手、右足と移り、凍傷の影響による高熱と手足が真黒に焼ける痛みと苦しみに昼夜の別なく襲われ、3歳の時にこの凍傷が元で脱疽となります。手術すべきか否か、幾度となく親族会議が行われたが、決断を下さないうちに、左手が手首からポロリと崩れ落ちたという。その後右手は手首、左足は膝とかかとの中間、右足はかかとから切断する。幾度も両手両足を切断し3歳の幼さで闘病生活が始まります。7歳の時に、父・栄太郎がこの世を去り、激動の生活の中、彼女を支えてくれたのは祖母ゆきと母あやでした。祖母と母の厳しくも愛情のある子育てのお蔭で、久子さんは文字や編み物を出来るようにまでなっていきます。
1916年(大正5年)、20歳になった久子さんは、地元高山を離れ、上京し一人暮らしを始めました。その後、母は再婚しますが、義父から虐待され、間もなく久子さんは自立するために、身売りされる形で見世物小屋で、「だるま娘」の名で働くようになり、両手の無い体での裁縫や編み物を見せる芸を披露し、生きていきます。やがて、縁あって結婚し、娘らを儲けて、祖母の死や夫の死という不幸に見舞われながらも、決してくじける事なく、子供たちを養い気丈に働き続け、1934年(昭和9年)にようやく興行界から去った。久子さんは見世物小屋で働き始めた時「恩恵にすがって生きれば甘えから抜け出せない。一人で生きていかなければ」と決意し、生涯を通じて国による障害者の制度による保障を受けることは無かった。
1937年(昭和12年)4月17日、41歳の久子さんは東京日比谷公会堂で、ヘレン・ケラーと出会っています。久子さんはその時に、口を使って作った日本人形をケラーに贈り、ケラーは久子さんを、「私より不幸な人、私より偉大な人」と賞賛しています。50歳頃より、執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始め、全国の身障者および健常者に大きな生きる力と光を与えていきます。久子さんは講演で全国を回る中で自分の奇異な生い立ちを語るとともに、自分の体について少しも恨む言葉を言うことが無く、むしろ障害のおかげで強く生きられる機会を貰ったとして「『無手無足』は仏より賜った身体、生かされている喜びと尊さ(を感じる)」と感謝の言葉を述べ、「人間は肉体のみで生きるのではなく、心で生きるのだ」と語っています。1950年(昭和25年)54歳の時、高山身障者福祉会が発足し初代会長に就任し、64歳の時、厚生大臣賞を受賞しました。そして、1968年(昭和43年)3月19日、脳溢血により高山市天満町の自宅において波乱に満ちた生涯に幕を閉じます。享年72歳。遺言により遺体は、娘の富子らによって検体されました。
幾度もの苦難を乗り越えて自分で生き抜いてきた久子さんは以下の言葉を残しています。
「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」
合掌
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