・・・・・・平成23年7月・・・・・・
喜心
 道元禅師は「喜心(きしん)」と云う言葉を示されています。「喜心」とは、喜悦の心です。何事でも、つとめる以上は喜んでしようというのです。何をするにも、ぶつぶつ文句を言いながら、いやいやするのではない。しなければならないことなら、喜悦の心をもって、積極的に進んでする。「喜心」は、何をするにも、喜びの心をもって当たれという実践・実行の指針です。
 この「喜心」という言葉は、道元禅師の『典座教訓(てんぞきょうくん)』と云う本の終わりに説かれている言葉で、「典座」は寺院の食事を司る役職で炊事係のこと。『典座教訓』は、その炊事係の心得を述べたものです。禅の修行では、通常、座禅や読教などが重要と想われがちですが、道元禅師は炊事係の「典座」を特に大切な役職と位置づけました。
 インド以来の伝統では、僧侶の食事は自分たちでは作らず、托鉢によって在家の供養を受けるだけでしたが、仏教が中国に至り、やがて僧団を支える経済的基盤も変わり、寺院が自給自足をはじめたところから「典座」という役職が生れます。実は道元禅師も、中国に行かれるまでは、炊事が立派なひとつの修行であるという認識は持っていなかったのです。中国に留学され、典座を勤める中国の僧侶に出逢い、炊事が、座禅や読教、学問と同様に大切な修行であることを教えられ、大きな衝撃を受けます。そして、雑用とも思われる炊事を、修行の中で最も大切な修行の一つに位置付け『典座教訓』を著します。
 考えてみると、人間は食事を摂らないで生きることはできない。仏行を行じる身体にとって、食事も座禅や読教などと同じく尊重されても不思議はなく、食事を作るのも、人のいのちが養われるのを思えば、こんな重要な仕事はない。ですから、どうせ働くなら、嫌なことでも喜んでつとめる。喜んで働く。すると、生き方が変わり、人生が変わっていくのです。
 「喜心」について道元禅師は次のように説いています。「わたしが、もし天上界に天人として生れていたならば、そこは苦しみがなく快楽の満ち満ちた世界といわれるから、快楽を追い回して、ほかのことに心を向ける暇がないであろう。仏教を学ぼうともせず修行をしようともせず、まして仏・法・僧の三宝に捧げる食事を作るなどということはなかったであろう」と。
 天上の世界は、苦がなく快楽が満ちているから、苦労のある人間界よりも、天上界の方が幸せだといえるかもしれないが、その苦労があるからこそ、自己の生き方を省察し、仏の教えを求め、仏行を行じる契機となる。むしろ苦労があることで、前向きに進み、努力をする。そして努力をするなら喜んでつとめる「喜心」という喜悦の心をもつ。この心によって人生が転換するのです。
 「喜心」を実践すると、何事も「ありがたい」と感謝の心が現れてくるでしょう。しかし、それは全面肯定であっても、自己の思考や判断を持ち、是非分別を失うことが無く、まして人生の責任回避であってはなりません。「喜心」は、喜んで自己の人生をいきること。どんな人生をも受け止め、受け入れることです。自分自身の責任に於いて受領し、受止めたからには前向きに「喜んでつとめる」生き方をしたいものです。

合掌


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