「利休」
(自己の理解の整理を含めて「千利休」について考えてみました。)
「千利休」の名前は有名ですが、本名は「宗易(そうえき)」、一般に広く知られた「利休」の名は、禁中 茶会にあたって町人の身分では参内できないために天皇より与えられた号です。名前の考案者は、諸説ありますが大徳寺のいずれかの住持の考案と言われています。
「利休」の名はその人生の終焉での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは「宗易」として送っています。そして、利休の高弟の記録「山上宗二記」によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し61歳(本能寺の変の年)から、利休独自の茶の湯を始めました。つまり、死までの10年間が利休の「わび茶」の完成期だったということになります。
新古今集(実際は新古今和歌集には見当たらない)の藤原家隆の歌に、「花をのみ まつらん人に やまざとの ゆきまの草の 春をみせばや」とあり、この句が利休の茶の真髄を表わしているとされています。表面的な華やかさを否定し、本質の質実の美を求めたのでしょう。
利休は茶室の普請においても画期的な変革を行っています。それは草庵茶室の創出で、それまで4畳半を最小としていた茶室に、庶民の間でしか行われていなかった3畳、2畳の茶室を採りいれ、躙り口(潜り)や下地窓、土壁、五(四)尺床などを工夫しました。
なかでも特筆されるべきは「窓」の採用です。師の紹鷗まで茶室の採光は縁側に設けられた2枚引きあるいは4枚引きの障子による「一方光線」により行われていたのを、利休は茶室を一旦土壁で囲いそこに必要に応じて窓を開けるという手法を取りました(「囲い」の誕生)。
このことにより茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らし、逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になります。後には天窓や風呂先窓なども工夫され一層自在な採光が可能となっていきます。設計の自由度は飛躍的に増し、小間の空間は無限ともいえるバリエーションを獲得することとなったのです。
利休の茶室に見られる近代的とも言える合理性と自由さは、単に数奇屋建築にとどまらず、現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしています。
また「露地」も利休の業績として忘れてはなりません。それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間としました。このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言えます。
「利休」の号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いようです。「名利」とは、名聞(みょうもん)・名誉と利養(お金、財産)のことで、「名誉や財に執着しない」との意味ですが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)というのが由来だと考えられています。
「利休」はその号のように、名利を求める雑念を捨て、ひとつ茶道に生きようとしました。ひとつの道を究めるには、あるいは自分の生を純粋にまっとうするには、名利や財を求める心を捨て去る要心が大切なのでしょう。
合掌 |
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