罣礙(けいげ)なし
『般若心経』に「心無罣礙(しんむけいげ)」こころに罣礙なしとあります。
「罣(けい)」とは魚を捕る網のことで、「礙(げ)」とはひっかかることです。つまり、罣礙なしとは「網にひっかからない」「拘束されないで自由自在に動きまわる」ことです。
心が何かに覆われると、周りがみえなくなってしまいます。
突然の霧におそわれると、遠くの山々はもちろん、近くの木々もさらには隣の人も見えなくなり、もっと霧に覆われると、自分の手も見えなくなってしまいます。
心が悲しみや苦しみ、悩みの霧に覆われると、先を見ることも今の自分自身を見極めることさえもできなくなってしまいます。
罣礙なく生きていければいいのですが、前に一歩も進むこともできない、後ろに戻ることもできない、人生にはそういう時が時々訪れます。「あっけらかん」と、こだわらずに生きることは難しいことです。
友松圓諦さんの言葉が教えてくれます。
「ちょっと足を踏み外して、自分で転んでも、相当なケガをする。自分がやったことだからさほどに騒がない。自分一人で泣きべそかいて、それで納まってしまうのである。ところが、それが他人の足にひっかかって転んだりする。かっとして因縁をつける。何も相手は転がそうとして足を出したのではない。ほんのちょっとしたはずみである。お互いに詫び合ってすませばすむこと、何も騒ぎ立てることはあるまい。どうせ人混みの中をお互いに歩くのである。触り、触られ、触り、触られるのはあたりまえのことではあるまいか。
勝つ時は勝ったでいい。いばることではない。相手があまり強くなかったからである。負けたら負けたで仕方がない。相手がちょっと強かったにすぎない」
「石ころ」 金子みすず
きのうは子供を ころばせて きょうもお馬を つまづかす、あしたは誰が とおるやら。
田舎のみちの 石ころは、赤い夕日に けろりんかん。
つまづく石があっても、何かにつまづいても、そんなの「けろりんかん」と赤い夕日を見て生きていきたいものです。
合掌
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