歎異抄(たんにしょう) 後序2「なくなく筆を染めて」
【原文】
③聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。まことに、われもひともそらごとをのみ申しあひ候ふなかに、ひとついたましきことの候ふなり。そのゆゑは、念仏申すについて、信心の趣をもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとの口をふさぎ、相論をたたんがために、まつたく仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、あさましく歎き存じ候ふなり。このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきことに候ふ。
④これさらにわたくしのことばにあらずといへども、経釈の往く路もしらず、法文の浅深をこころえわけたることも候はねば、さだめてをかしきことにてこそ候はめども、古親鸞の仰せごと候ひし趣、百分が一つ、かたはしばかりをもおもひいでまゐらせて、書きつけ候ふなり。かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて「歎異抄」といふべし。外見あるべからず。
【現代語訳】
③親鸞聖人がつねづね仰せになっていたことですが、「阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか」と、しみじみとお話しになっておられました。そのことを今またあらためて考えてみますと、善導大師の、「自分は現に、深く重い罪悪をかかえて迷いの世界にさまよい続けている凡夫であり、果てしない過去の世から今に至るまで、いつもこの迷いの世界に沈み、つねに生れ変り死に変りし続けてきたのであって、そこから脱け出る縁などない身であると知れ」という尊いお言葉と、少しも違ってはおりません。そうしてみると、もったいないことに、親鸞聖人がご自身のこととしてお話しになったのは、わたしどもが、自分の罪悪がどれほど深く重いものかも知らず、如来のご恩がどれほど高く尊いものかも知らずに、迷いの世界に沈んでいるのを気づかせるためであったのです。本当にわたしどもは、如来のご恩がどれほど尊いかを問うこともなく、いつもお互いに善いとか悪いとか、そればかりをいいあっております。親鸞聖人は、「何が善であり何が悪であるのか、そのどちらもわたしはまったく知らない。なぜなら、如来がそのおこころで善とお思いになるほどに善を知り尽したのであれば、善を知ったといえるであろうし、また如来が悪とお思いになるほどに悪を知り尽したのであれば、悪を知ったといえるからである。しかしながら、わたしどもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り変る世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つない。その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである」と仰せになりました。本当に、わたしも他の人もみなむなしいことばかりをいいあっておりますが、とりわけ心の痛むことが一つあります。それは、念仏することについて、お互いに信心のあり方を論じあい、また他の人に説き聞かせるとき、相手にものをいわせず、議論をやめさせるために、親鸞聖人がまったく仰せになっていないことまで聖人の仰せであるといい張ることです。まことに情なく、やりきれない思いです。これまで述べてきたことを十分にわきまえ、心得ていただきたいことと思います。
④これらは決してわたし一人の勝手な言葉ではありませんが、経典や祖師方の書かれたものに説かれた道理も知らず、仏の教えの深い意味を十分に心得ているわけでもありませんから、きっとおかしなものになっていることでしょう。けれども、今は亡き親鸞聖人が仰せになっておられたことの百分の一ほど、ほんのわずかばかりを思い出して、ここに書き記したのです。幸いにも念仏する身となりながら、ただちに真実の浄土へ往生しないで、方便の浄土にとどまるのは、何と悲しいことでしょう。同じ念仏の行者の中で、信心の異なることがないように、涙にくれながら筆をとり、これを書いたのです。「歎異抄」と名づけておきます。
同じ教えを受けた人以外には見せないでください。

合掌
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