・・・・・・令和5年8月・・・・・・

歎異抄(たんにしょう)
後序「なくなく筆を染めて」


【原文】
①右条々は、みなもつて信心の異なるよりことおこり候ふか。故聖人(親鸞)の御物語に、法然聖人の御時、御弟子そのかずおはしけるなかに、おなじく御信心のひともすくなくおはしけるにこそ、親鸞、御同朋の御中にして御相論のこと候ひけり。そのゆゑは、「善信(親鸞)が信心も、聖人(法然)の御信心も一つなり」と仰せの候ひければ、勢観房・念仏房なんど申す御同朋達、もつてのほかにあらそひたまひて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、一つにはあるべきぞ」と候ひければ、「聖人の御智慧・才覚ひろくおはしますに、一つならんと申さばこそひがごとならめ。往生の信心においては、まつたく異なることなし、ただ一つなり」と御返答ありけれども、なほ「いかでかその義あらん」といふ疑難ありければ、詮ずるところ、聖人の御まへにて自他の是非を定むべきにて、この子細を申しあげければ、法然聖人の仰せには、「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。さればただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」と仰せ候ひしかば、当時の一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心に一つならぬ御ことも候ふらんとおぼえ候ふ。いづれもいづれも繰り言にて候へども、書きつけ候ふなり。
②露命わづかに枯草の身にかかりて候ふほどにこそ、あひともなはしめたまふひとびと〔の〕御不審をもうけたまはり、聖人(親鸞)の仰せの候ひし趣をも申しきかせまゐらせ候へども、閉眼ののちは、さこそしどけなきことどもにて候はんずらめと、歎き存じ候ひて、かくのごとくの義ども、仰せられあひ候ふひとびとにも、いひまよはされなんどせらるることの候はんときは、故聖人(親鸞)の御こころにあひかなひて御もちゐ候ふ御聖教どもを、よくよく御覧候ふべし。おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。大切の証文ども、少々ぬきいでまゐらせ候うて、目やすにして、この書に添へまゐらせて候ふなり。
③聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそれほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。まことに、われもひともそらごとをのみ申しあひ候ふなかに、ひとついたましきことの候ふなり。そのゆゑは、念仏申すについて、信心の趣をもたがひに問答し、ひとにもいひきかするとき、ひとの口をふさぎ、相論をたたんがために、まつたく仰せにてなきことをも仰せとのみ申すこと、あさましく歎き存じ候ふなり。このむねをよくよくおもひとき、こころえらるべきことに候ふ。
④これさらにわたくしのことばにあらずといへども、経釈の往く路もしらず、法文の浅深をこころえわけたることも候はねば、さだめてをかしきことにてこそ候はめども、古親鸞の仰せごと候ひし趣、百分が一つ、かたはしばかりをもおもひいでまゐらせて、書きつけ候ふなり。かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて「歎異抄」といふべし。外見あるべからず。

流罪記録
後鳥羽院の御宇、法然聖人、他力本願念仏宗を興行す。時に、興福寺の僧侶、敵奏の上、御弟子のなか、狼藉子細あるよし、無実の風聞によりて罪科に処せらるる人数の事。
一 法然聖人ならびに御弟子七人、流罪。また御弟子四人、死罪におこなはるるなり。聖人(法然)は土佐国 [幡多] といふ所へ流罪、罪名藤井元彦男[云々]、生年七十六歳なり。
親鸞は越後国、罪名藤井善信[云々]、生年三十五歳なり。浄聞房 [備後国] 澄西禅光房 [伯耆国] 好覚房 [伊豆国] 行空法本房 [佐渡国]幸西成覚房・善恵房二人、同じく遠流に定まる。しかるに無動寺の善題大僧正、これを申しあづかると[云々]。遠流の人々、以上八人なりと[云々]。
死罪に行はるる人々
一番 西意善綽房
二番 性願房
三番 住蓮房
四番 安楽房
二位法印尊長の沙汰なり。
親鸞、僧儀を改めて俗名を賜ふ。よつて僧にあらず俗にあらず、しかるあひだ、禿の字をもつて姓となして、奏聞を経られをはんぬ。かの御申し状、いまに外記庁に納まると[云々]。流罪以後、愚禿親鸞と書かしめたまふなり。
[右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり。]

【現代語訳】
①これまで述べてきた誤った考えは、どれもみな真実の信心と異なっていることから生じたものかと思われます。今は亡き親鸞聖人からこのようなお話をうかがったことがあります。法然上人がおいでになったころ、そのお弟子は大勢おいでになりましたが、法然上人と同じく真実の信心をいただかれている方は少ししかおられなかったのでしょう。あるとき、親鸞聖人と同門のお弟子方との間で、信心をめぐって論じあわれたことがありました。といいますのは、親鸞聖人が、「この善信の信心も、法然上人のご信心も同じである」と仰せになりましたところ、勢観房、念仏房などの同門の方々が、意外なほどに反対なさって、「どうして法然上人のご信心と善信房の信心とが同じであるはずがあろうか」といわれたのです。そこで、「法然上人は智慧も学識も広くすぐれておられるから、それについてわたしが同じであると申すのなら、たしかに間違いであろう。しかし、浄土に往生させていただく信心については、少しも異なることはない。まったく同じである」とお答えになったのですが、それでもやはり、「どうしてそのようなわけがあろうか」と納得せずに非難されますので、結局、法然上人に直接お聞きして、どちらの主張が正しいかを決めようということになりました。そこで法然上人に、詳しい事情をお話ししたところ、「この源空の信心も如来からいただいた信心です。善信房の信心も如来よりいただかれた信心です。だからまったく同じ信心なのです。別の信心をいただいておられる人は、この源空が往生する浄土には、まさか往生なさることはありますまい」と法然上人が仰せになったということでありました。ですから今でも、同じ念仏の道を歩む人々の間で、親鸞聖人のご信心と異なっておられることもあるのだろうと思われます。どれもみな同じことの繰り返しではありますが、ここに書きつけておきました。
②枯れ草のように老い衰えたこの身に、露のようにはかない命がまだわずかに残っているうちは、念仏の道を歩まれる人々の疑問もうかがい、親鸞聖人が仰せになった教えのこともお話ししてお聞かせいたしますが、わたしが命を終えた後は、さぞかし多くの誤った考えが入り乱れることになるのではないかと、今から歎かわしく思われてなりません。ここに述べたような誤った考えをいいあっておられる人々の言葉に惑わされそうになったときには、今は亡き親鸞聖人がそのおこころにかなって用いておられたお聖教をよくよくご覧になるのがよいでしょう。聖教というものには、真実の教えと方便の教えとがまざりあっているのです。方便の教えは捨てて用いず、真実の教えをいただくことこそが、親鸞聖人のおこころなのです。くれぐれも注意して、決して聖教を読み誤ることがあってはなりません。そこで、大切な証拠の文となる親鸞聖人のお言葉を、少しではありますが抜き出して、箇条書きにしてこの書に添えさせていただいたのです。
③親鸞聖人がつねづね仰せになっていたことですが、「阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、何ともったいないことであろうか」と、しみじみとお話しになっておられました。そのことを今またあらためて考えてみますと、善導大師の、「自分は現に、深く重い罪悪をかかえて迷いの世界にさまよい続けている凡夫であり、果てしない過去の世から今に至るまで、いつもこの迷いの世界に沈み、つねに生れ変り死に変りし続けてきたのであって、そこから脱け出る縁などない身であると知れ」という尊いお言葉と、少しも違ってはおりません。そうしてみると、もったいないことに、親鸞聖人がご自身のこととしてお話しになったのは、わたしどもが、自分の罪悪がどれほど深く重いものかも知らず、如来のご恩がどれほど高く尊いものかも知らずに、迷いの世界に沈んでいるのを気づかせるためであったのです。本当にわたしどもは、如来のご恩がどれほど尊いかを問うこともなく、いつもお互いに善いとか悪いとか、そればかりをいいあっております。親鸞聖人は、「何が善であり何が悪であるのか、そのどちらもわたしはまったく知らない。なぜなら、如来がそのおこころで善とお思いになるほどに善を知り尽したのであれば、善を知ったといえるであろうし、また如来が悪とお思いになるほどに悪を知り尽したのであれば、悪を知ったといえるからである。しかしながら、わたしどもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り変る世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つない。その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである」と仰せになりました。本当に、わたしも他の人もみなむなしいことばかりをいいあっておりますが、とりわけ心の痛むことが一つあります。それは、念仏することについて、お互いに信心のあり方を論じあい、また他の人に説き聞かせるとき、相手にものをいわせず、議論をやめさせるために、親鸞聖人がまったく仰せになっていないことまで聖人の仰せであるといい張ることです。まことに情なく、やりきれない思いです。これまで述べてきたことを十分にわきまえ、心得ていただきたいことと思います。
④これらは決してわたし一人の勝手な言葉ではありませんが、経典や祖師方の書かれたものに説かれた道理も知らず、仏の教えの深い意味を十分に心得ているわけでもありませんから、きっとおかしなものになっていることでしょう。けれども、今は亡き親鸞聖人が仰せになっておられたことの百分の一ほど、ほんのわずかばかりを思い出して、ここに書き記したのです。幸いにも念仏する身となりながら、ただちに真実の浄土へ往生しないで、方便の浄土にとどまるのは、何と悲しいことでしょう。同じ念仏の行者の中で、信心の異なることがないように、涙にくれながら筆をとり、これを書いたのです。「歎異抄」と名づけておきます。
同じ教えを受けた人以外には見せないでください。
(流罪記録)
後鳥羽上皇の御治世のころ、法然上人は、他力本願念仏の一宗を興し、世にひろめられた。そのとき、興福寺の僧たちが、それは仏の教えに背くものであるとして朝廷に訴えた。そして、法然上人のお弟子のなかに無法な振舞いがあったという根も葉もないうわさによって、処罰された人々は次の通りである。
法然上人、およびそのお弟子の七人は流罪となり、また、お弟子の四人は死罪に処せられた。
法然上人は、土佐の国の幡多というところに流罪となり、罪人の名としては藤井元彦、男性などとあり、年齢は七十六歳であった。
親鸞は、越後の国に流罪となり、罪人の名としては藤井善信などとあり、年齢は三十五歳であった。
浄聞房は備後の国に、禅光房澄西は伯耆の国に、好覚房は伊豆の国に、法本房行空は佐渡の国に流罪となった。
成覚房幸西と善恵房の二人は、同じく流罪と決ったが、無動寺の慈鎮和尚が願い出て二人の身柄を引き受けたという。流罪に処せられた人々は、以上の八人であったという。
死罪に処せられた人々は、一、善綽房西意、二、性願房、三、住蓮房、四、安楽房であった。
これらの刑は、二位の法印尊長の裁定である。
親鸞は、流罪になったとき、僧籍を取り上げられて俗名を与えられた。そこで、僧侶でもなく俗人でもない身となったのである。これにより、禿の字を自分の姓として、朝廷に申し出て認められた。その書状が今も外記庁に納められているという。
このようなわけで流罪の後は、自分の名前を愚禿親鸞とお書きになるのである。
この『歎異抄』は、わが浄土真宗にとって大切な聖教である。仏の教えを聞く機縁が熟していないものには、安易にこの書を見せてはならない。



合掌


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