・・・・・・令和5年3月・・・・・・

歎異抄(たんにしょう)
第14章「滅罪と報恩の念仏」


【原文】
①一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしといふこと。この条は、十悪・五逆の罪人、日ごろ念仏を申さずして、命終のとき、はじめて善知識のをしへにて、一念申せば八十億劫の罪を滅し、十念申せば十八十億劫の重罪を滅して往生すといへり。これは十悪・五逆の軽重をしらせんがために、一念・十念といへるか、滅罪の利益なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。
②そのゆゑは、弥陀の光明に照らされまゐらするゆゑに、一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚の位にをさめしめたまひて、命終すれば、もろもろの煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまふなり。この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだ申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり。
③念仏申さんごとに、罪をほろぼさんと信ぜんは、すでにわれと罪を消して、往生せんとはげむにてこそ候ふなれ。もししからば、一生のあひだおもひとおもふこと、みな生死のきづなにあらざることなければ、いのち尽きんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしてをはらん。念仏申すことかたし。そのあひだの罪をば、いかがして滅すべきや。罪消えざれば、往生はかなふべからざるか。摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業ををかし、念仏申さずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。
④また念仏の申されんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがひても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそ候はめ。罪を滅せんとおもはんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにて候ふなり。

【現代語訳】
①一回念仏することで八十億劫もの間迷いの世界で苦しみ続けるほどの重い罪が消えると信じなければならないということについて。このことは、十悪や五逆などの重い罪を犯し、日ごろは念仏したことがない人であっても、まさに命を終えようとするときに、はじめて善知識の教えを受け、一回念仏すれば八十億劫もの間苦しみ続けるほどの重い罪が消え、十回念仏すればその十倍もの重い罪が消え去って、浄土に往生することができるといっているのです。これは、十悪や五逆の罪がどれほど重いものであるかを知らせるために、一回の念仏や十回の念仏といっていると思われますが、要するに念仏することによって罪を消し去る利益が得られるというのです。しかしそれは、わたしどもが信じるところには遠く及びません。
②それは次のようなことによるのです。わたしどもは阿弥陀仏の光明に照らされて、本願を信じる心がはじめておこるときに決してこわれることのない信心をいただくのですから、そのときすでに阿弥陀仏はこの身を正定聚の位につかせてくださるのであり、この世の命を終えれば、さまざまな煩悩や罪悪を転じて真実のさとりを開かせてくださるのです。もし、この大いなる慈悲の心からおこしてくださった本願がなかったなら、わたしどものようなあきれるほど罪深いものがどうして迷いの世界を離れることができるだろうかと考えて、一生のうちに称える念仏は、すべてみな如来の大いなる慈悲の心に対し、そのご恩に報い、そのお徳に感謝するものであると思わなければなりません。
③念仏するたびに自分の罪が消え去ると信じるのは、それこそ自分の力で罪を消し去って浄土に往生しようと努めることに他なりません。もしそうだとすれば、一生の間に心に思うことは、すべてみな自分を迷いの世界につなぎとめるものでしかないのですから、命の尽きるまでおこたることなく念仏し続けて、はじめて浄土に往生できることになります。ただし過去の世の行いの縁により、思い通りに生きられるものではないのですから、どのような思いがけない出来事にあうかもしれないし、また病気に悩まされ苦痛に責められて、心安らかになれないまま命を終えることもあるでしょう。そのときには念仏することができません。その間につくる罪はどのようにして消し去ることができるのでしょうか。罪は消え去らないのだから浄土に往生することはできないというのでしょうか。すべての衆生を光明の中に摂め取って決して捨てないという阿弥陀仏の本願を信じておまかせすれば、どのような思いがけないことがあって、罪深い行いをし、念仏することなく命が終ろうとも、速やかに浄土に往生することができるのです。また命が終ろうとするときに念仏することができるとしても、それはさとりを開くまさにその時が近づくにつれて、いよいよ阿弥陀仏にすべてをおまかせし、そのご恩に報いる念仏なのでありましょう。
④念仏して罪を消し去ろうと思うのは、自力にとらわれた心であり、命が終ろうとするときに阿弥陀仏を念じて心が乱れることなく往生しようと願う人の本意なのですから、それは本願他力の信心がないということなのです。



合掌


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