・・・・・・令和5年2月・・・・・・

歎異抄(たんにしょう)
第13章「業縁と本願」


【原文】
①弥陀の本願不思議におはしませばとて、悪をおそれざるは、また本願ぼこりとて、往生かなふべからずといふこと。この条、本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざるなり。
②よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人(親鸞)の仰せには、「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」と候ひき。
③またあるとき、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」と、仰せの候ひしあひだ、「さん候ふ」と、申し候ひしかば、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、かさねて仰せの候ひしあひだ、つつしんで領状申して候ひしかば、「たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、仰せ候ひしとき、「仰せにては候へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず候ふ」と、申して候ひしかば、「さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」と、仰せの候ひしかば、われらがこころのよきをばよしとおもひ、悪しきことをば悪しとおもひて、願の不思議にてたすけたまふといふことをしらざることを、仰せの候ひしなり。
④そのかみ邪見におちたるひとあつて、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこえ候ひしとき、御消息に、「薬あればとて、毒をこのむべからず」と、あそばされて候ふは、かの邪執をやめんがためなり。まつたく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。持戒持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきやと。かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられ候へ。さればとて、身にそなへざらん悪業は、よもつくられ候はじものを。
⑤また、「海・河に網をひき、釣をして、世をわたるものも、野山にししをかり、鳥をとりて、いのちをつぐともがらも、商ひをし、田畠をつくりて過ぐるひとも、ただおなじことなり」と。「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とこそ、聖人(親鸞)は仰せ候ひしに、当時は後世者ぶりして、よからんものばかり念仏申すべきやうに、あるいは道場にはりぶみをして、なんなんのことしたらんものをば、道場へ入るべからずなんどといふこと、ひとへに賢善精進の相を外にしめして、内には虚仮をいだけるものか。
⑥願にほこりてつくらん罪も、宿業のもよほすゆゑなり。されば善きことも悪しきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ、他力にては候へ。『唯信抄』にも、「弥陀いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なればすくはれがたしとおもふべき」と候ふぞかし。本願にほこるこころのあらんにつけてこそ、他力をたのむ信心も決定しぬべきことにて候へ。
⑦おほよそ悪業煩悩を断じ尽してのち、本願を信ぜんのみぞ、願にほこるおもひもなくてよかるべきに、煩悩を断じなば、すなはち仏に成り、仏のためには、五劫思惟の願、その詮なくやましまさん。
⑧本願ぼこりといましめらるるひとびとも、煩悩・不浄具足せられてこそ候うげなれ。それは願にほこらるるにあらずや。いかなる悪を本願ぼこりといふ、いかなる悪かほこらぬにて候ふべきぞや。かへりて、こころをさなきことか。

【現代語訳】
①阿弥陀仏の本願のはたらきが不可思議であるからといって、自分の犯す悪を恐れないのは、すなわち「本願ぼこり」であって、これもまた浄土に往生することができないということについて。このことは、本願を疑うことであり、また、この世における善も悪もすべて過去の世における行いによると心得ていないことなのです。
②善い心がおこるのも、過去の世の善い行いがそうさせるからです。悪いことを考え、それをしてしまうのも、過去の世の悪い行いがはたらきかけるからです。今は亡き親鸞聖人は、「うさぎや羊の毛の先についた塵ほどの小さな罪であっても、過去の世における行いによらないものはないと知るべきである」と仰せになりました。
③またあるとき聖人が、「唯円房はわたしのいうことを信じるか」と仰せになりました。そこで、「はい、信じます」と申しあげると、「それでは、わたしがいうことに背かないか」と、重ねて仰せになったので、つつしんでお受けすることを申しあげました。すると聖人は、「まず、人を千人殺してくれないか。そうすれば往生はたしかなものになるだろう」と仰せになったのです。そのとき、「聖人の仰せではありますが、わたしのようなものには一人として殺すことなどできるとは思えません」と申しあげたところ、「それでは、どうしてこの親鸞のいうことに背かないなどといったのか」と仰せになりました。続けて、「これでわかるであろう。どんなことでも自分の思い通りになるのなら、浄土に往生するために千人の人を殺せとわたしがいったときには、すぐに殺すことができるはずだ。けれども、思い通りに殺すことのできる縁がないから、一人も殺さないだけなのである。自分の心が善いから殺さないわけではない。また、殺すつもりがなくても、百人あるいは千人の人を殺すこともあるだろう」と仰せになったのです。このことはわたしどもが、自分の心が善いのは往生のためによいことであり、自分の心が悪いのは往生のために悪いことであると勝手に考え、本願の不可思議なはたらきによってお救いいただくということを知らないでいることについて、仰せになったのであります。
④かつて誤った考えにとらわれた人がいて、悪を犯したものをお救いくださるという本願であるからと、わざわざ悪を犯し、それを往生のための行いとしなくてはならないなどといい、しだいにそのよくないうわさが聞えてきました。そのとき聖人がお手紙に、「いくら薬があるからといって、好きこのんで毒を飲むものではない」とお書きになられましたのは、そのような誤った考えにとらわれているのをやめさせるためなのです。決して悪を犯すことが往生のさまたげになるというのではありません。「戒律を守って悪い行いをしない人だけが本願を信じることができるのなら、わたしどもはどうして迷いの世界を離れることができるだろうか」と、聖人は仰せになっています。このようなつまらないものであっても、阿弥陀仏の本願に出会わせていただいてこそ、本当にその本願をほこり甘えることができるのです。だからといって、まさか自分に縁のない悪い行いをすることなどできないでしょう。
⑤また聖人は、「海や河で網を引き、釣りをして暮しを立てる人も、野や山で獣を狩り、鳥を捕えて生活する人も、商売をし、田畑を耕して日々を送る人も、すべての人はみな同じことだ」と仰せになり、そして「人はだれでも、しかるべき縁がはたらけば、どのような行いもするものである」と仰せになったのです。それなのにこのごろは、いかにも来世の往生を願うもののように殊勝に振舞って、善人だけが念仏することができるかのように思い、あるときは念仏の道場に張紙をして、これこれのことをしたものを道場に入れてはならないなどという人がいますが、それこそ、外にはただ賢そうに善い行いに励む姿を見せ、内には嘘いつわりの心をいだいていることなのではないでしょうか。
⑥阿弥陀仏の本願をほこり、それに甘えてつくる罪も、過去の世の行いが縁となってはたらくことによるのです。だから、善い行いも悪い行いもすべて過去の世からの縁にまかせ、ただ本願のはたらきに身をゆだねるからこそ、他力なのであります。『唯信鈔』にも、「阿弥陀仏にどれほどの力がおありになると知った上で、自分は罪深い身であるから、とても救われないなどと思うのであろうか」と示されています。本願をほこる心があるからこそ、他力に身をゆだねる自分の信心もまさに定まっていると思われます。
⑦自分の罪悪や煩悩を滅し尽した後に本願を信じるというのであれば、本願をほこる思いもなくてよいでしょう。しかし、煩悩を滅したならそのまま仏になるのであり、そのようにすでに仏になったものには、五劫という長い間思いをめぐらしてたてられた阿弥陀仏の本願も、もはや意味のないものでありましょう。 ⑧本願ぼこりはよくないといましめる方々も、煩悩を身にそなえ、清らかでないように見受けられます。それは本願をほこり甘えておられることにはならないのでしょうか。どのような悪を本願ぼこりであるといい、どのような悪を本願ぼこりではないというのでしょうか。本願ぼこりはよくないというのは、むしろ考えがおさないのではないでしょうか。



合掌


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