・・・・・・令和5年1月・・・・・・

歎異抄(たんにしょう)
第12章「念仏して仏になる」


【原文】
①経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。この条、すこぶる不足言の義といひつべし。
②他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。
③一文不通にして、経釈の往く路もしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆゑに、易行といふ。学問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。あやまつて学問して名聞・利養のおもひに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんといふ証文も候ふべきや。
④当時、専修念仏のひとと聖道門のひと、法論をくはだてて、「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり」といふほどに、法敵も出できたり、謗法もおこる。これしかしながら、みづからわが法を破謗するにあらずや。たとひ諸門こぞりて、「念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさし、いやし」といふとも、さらにあらそはずして、「われらがごとく下根の凡夫、一文不通のものの、信ずればたすかるよし、うけたまはりて信じ候へば、さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには最上の法にてまします。たとひ自余の教法すぐれたりとも、みづからがためには器量およばざれば、つとめがたし。われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏の御本意にておはしませば、御さまたげあるべからず」とて、にくい気せずは、たれのひとかありて、あだをなすべきや。かつは諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべきよしの証文候ふにこそ。
⑤故聖人(親鸞)の仰せには、「この法をば信ずる衆生もあり、そしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられ候ふ。しかれば、往生はいよいよ一定とおもひたまふなり。あやまつてそしるひとの候はざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんともおぼえ候ひぬべけれ。かく申せばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとの疑をあらせじと、説きおかせたまふことを申すなり」とこそ候ひしか。
⑥今の世には、学文してひとのそしりをやめ、ひとへに論義問答むねとせんとかまへられ候ふにや。学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて生はいかがなんどあやぶまんひとにも、本願には善悪・浄穢なき趣をも説ききかせられ候はばこそ、学生のかひにても候はめ。たまたまなにごころもなく、本願に相応して念仏するひとをも、学文してこそなんどいひおどさるること、法の魔障なり、仏の怨敵なり。みづから他力の信心かくるのみならず、あやまつて他を迷はさんとす。
⑦つつしんでおそるべし、先師(親鸞)の御こころにそむくことを。かねてあはれむべし、弥陀の本願にあらざることを。

【現代語訳】
①経典や祖師方の書かれたものを読んだり学んだりすることのない人々は、浄土に往生できるかどうかわからないということについて。このことは、論じるまでもない誤った考えといわなければなりません。
②本願他力の真実の教えを説き明かされている聖教にはすべて、本願を信じて念仏すれば必ず仏になるということが示されています。浄土に往生するために、この他にどのような学問が必要だというのでしょうか。本当に、このことがわからないで迷っている人は、どのようにしてでも学問をして、本願のおこころを知るべきです。経典や祖師方の書かれたものを読んで学ぶにしても、その聖教の本意がわからないのでは、何とも気の毒なことです。
③文字の一つも知らず、経典などの筋道もわからない人々が、容易に称えることができるように成就された名号ですから、念仏を易行というのです。学問を主とするのは聖道門であり、難行といいます。学問をしても、それによって名誉や利益を得ようという誤った思いをいだく人は、この世の命を終えて浄土に往生することができるかどうか疑わしいということの証拠となる文もあるはずです。
④このごろは、念仏の道を歩む人々と聖道門の人々とが、お互いの教義についてことさらに議論し、「わたしの信じる教えこそがすぐれていて、他の人が信じている教えは劣っている」などというために、仏の教えに敵対する人も出てくるし、それを謗るというようなこともおこるのです。このようなことはそのまま、自分の信じる仏の教えを謗り、滅ぼすことになってしまうのではないでしょうか。たとえ他のさまざまな宗派の人々が口をそろえて、「念仏は力のない人のためのものであり、その教えは浅くてつまらない」といっても、少しもいい争うことなく、「わたしどものように自らさとる力もなく愚かであり、文字の一つも知らないものでも、本願を信じるだけで救われるということを、お聞かせいただいて信じておりますので、能力のすぐれている人々にはまったくつまらないものであっても、わたしどもにとってはこの上ない教えなのです。たとえ他の教えがすぐれていても、わたしにとっては力が及ばないので修行することができません。だれもがみな迷いの世界を離れることこそ、仏がたのおこころでありますから、わたしが念仏するのをさまたげないでください」といって、気にさわる態度をとらなければ、いったいだれが念仏のさまたげなどするでしょう。さらにまた、いい争いをすれば、そこにはさまざまな煩悩がおこるものであり、智慧ある人はそのような場から遠く離れるべきであるということの証拠となる文もあるのです。
⑤今は亡き親鸞聖人は、「この念仏の教えを信じる人もいれば、謗る人もいるだろうと、すでに釈尊がお説きになっています。わたしは現に信じておりますし、一方、他の人が謗ることもありますので、釈尊のお言葉はまことであったと知られます。だからこそ、往生はますます間違いないと思うのです。もしも念仏の教えを謗る人がいなかったなら、信じる人はいるのに、どうして謗る人はいないのだろうかと思ってしまうに違いありません。しかし、このように申したからといって、必ず人に謗られようというのではありません。釈尊は、信じる人と謗る人とがどちらもいるはずだとあらかじめ知っておいでになり、信じる人が疑いを持たないようにとお考えになって、すでにそれをお説きになっているということを申しているのです」と仰せになりました。
⑥このごろは、学問をして他の人が謗るのをやめさせ、議論し問答することこそ大切だと心がけておられるのでしょうか。学問をするのであれば、ますます深く如来のおこころを知り、本願の広大な慈悲のおこころを知って、自分のようなつまらないものは往生できないのではないかと心配している人にも、本願においては、善人か悪人か、心が清らかであるかないかといったわけへだてがないということを説き聞かせてこそ、学問をするものとしての値うちもあるでしょう。それなのに、たまたま何のはからいもなく本願のおこころにかなって念仏する人に、経典などを学んでこそ往生することができるなどといっておどすのは、教えをさまたげる悪魔や、仏に敵対するもののすることです。自分自身に他力の信心が欠けているだけでなく、誤って他の人をも迷わそうとしているのです。
⑦つつしんで恐れるべきです、親鸞聖人のおこころに背くことを。あわせて悲しむべきです、阿弥陀仏の本願のおこころにかなっていないことを。



合掌


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