「平常心(びょうじょうしん)」
「平常心是道」(びょうじょうしんこれどう)という言葉は特に有名ですが、無門関第十九則「平常是道」(びょうじょうぜどう)の公案から出ている禅語です。この意味は「ふだんの心が悟りである」ということで、では、その「ふだんの心」とは一体何かが、それが今回の主題です。
本則
南泉、因みに趙州問う、如何なるか是れ道。
泉云く、平常心是れ道。
州云く、環って趣向すべきや否や。
泉云く、向かわんと擬すれば即ち乖く。
州云く、擬せずんば争でか是れ道なるを知らん。
泉云く、道は知にも属せず、知は是れ妄覚、不知は是れ無記、若し真に不擬の道に達せば、猶大虚の廓然として洞豁なるが如し、豈に強いて是非す可けんや。
州云く、言下に頓悟す。
南泉は趙州が、「道とはどんなものですか」と尋ねたので、「ふだんの心が道である」と答えた。
趙州は問うた、「それをめざして修行してよろしいのでしょうか」 南泉は答えた、「めざそうとすると、すぐにそむく」 趙州、「めざさなかったら、どうしてそれが道だと知れましょう」
南泉、「道は知るとか、知らぬとかいうことに関わらない。知るというのは妄覚だ、知らぬというのは、無記だ。もしほんとに『めざすことのない道』に達したら、ちょうど虚空のようで、からりとして空である。そこを無理にああだこうだと云うことなどできない」
趙州は言下に悟った。
趙州禅師といえば、その悟境の透徹さと行持の清高さから、禅宗史上その存在感は別格です。趙州は十八才にして開悟されたといわれています。それからさらに二十年の修行をされ、六十才で出家され、この公案で徹底されたといわれています。この時七十三、四才だったとのことです。120歳まで生きられたといわれるまさに傑僧です。
ある時、趙州は師の南泉禅師に「(悟りの)道とは何ですか」と尋ねました。南泉はそれに対して「平常心是道」(ふだんの心が悟りへの道だ)と答えました。
趙州はさらに「ではそれをめざして修行すればよろしいでしょうか」と尋ねました。すると南泉は「めざそうとすると、すぐそむく」(そむくとは外れるということ)と答えました。
趙州はそれに対して「そんなことをおっしゃっても、それを目指して修行しなかったら、どうしてそれが道だと解るのでしょう」と尋ねました。なるほど当然の疑問です。
「悟り」という目標を目指して修行するのでなければ悟れないのではないかというのが趙州の疑問です。それに対して南泉は、道(悟り)は知るとか、知らぬとかいうことではない。知るというのは妄覚だと答えました。妄覚とは煩悩妄想のことです。つまり、悟りを「知る」(認識する)こと自体煩悩妄想だというのです。ここが一番大事なところです。まさにここがこの公案の勝負どころと言ってもよいでしょう。
それはその認識できない"ところ"がこの公案の答えだからです。そこを「無記」と言っているのです。
南泉はさらに説明して、「もし、真に疑いようのない道に達してみると、それは虚空のごとくああのこうの云うことのできない一切の分別の無いカラットしたところである」
「疑う余地のない道」とは、思慮分別、自我意識のまったく無い無我無心の"ところ"であり、「廓然として洞豁」、つまり「虚空のごとくああだこうだと説明のできない一切の分別の無いカラットしたところ」だと言うのです。さらに、そこは「豈に強いて是非す可けんや。」(ああだこうだというものは何も無いところ)だと言ったのです。
趙州はこの一言で悟ったのです。
さすが趙州です。師南泉の「虚空のごとくああだこうだと説明のできない一切の分別の無いカラットしたところ」「そこはああだこうだというものは何も無い」と言う言葉で即座に悟ってしまったのです。
それには恐らく南泉自身も驚いたことでしょう。しかしいくら悟ったとはいえまだまだ悟りには深さがあるのです。無門禅師は提唱の中で評しています。
「趙州、たとい悟り去るも、更に参ずること三十年して始めて得てん。」 悟りと言ってもまだまだ本物ではあるまい。本物の悟りを得るにはもっともっと修行してあと三十年は掛かるだろうと言っています。
趙州の悟ったものは「無心」です。「ああだこうだというものは何も無い」とは「一点の曇りもない心」で、「無心」のことです。この公案の狙いもまさに「無心」の実体を悟ることにあるのです。
「無心」の実体とは「あるがまま」です。笑っているときに、何故笑っているのか考えません。悲しいときに、「今自分は悲しんでいるな」とか思いません。腹が立っているとき、「今ここに腹を立てている自分がいる」などと考えません。「ただ可笑しい」「ただ悲しい」「ただ腹が立ち」「ただ楽しい」が「あるがまま」です。「悲しい」のも「可笑しい」のも「楽しい」のも、どんな心の状態であれ、それが「平常心」なのです。そしてその実体が"無心"だとすれば「平常心」そのままが「道」(さとり)だと悟れるのです。ですから「道」(さとり)は「あるがまま」の「そのもの」です。
「そのもの」ですから、"それ"を意識すれば即座に"分別"になってしまい、すなわち「道」(さとり)から外れてしまうのです。実体を悟るとは「そのもの」に成り切るということです。
合掌
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