「愚には及ばない」
「愚」を称する高名な僧侶の名を多く見ます。
良寛さんは「大愚良寛」という名前ですし、親鸞上人は自分を「愚禿」、愚かな坊主と称していました。
「愚」には、利口にはない超然とした尊さがあります。
『禅林句集』の中に、
「其知可及也 其愚不可及也(そのちやおよぶべし そのぐやおよぶべからず)」とあります。
別に「可及其智 不可及其愚(そのちにはおよぶべきも そのぐにはおよぶべからず)」といい、その意味は、「悟りに至っても、悟りを得たという自我が残っているうちはまだまだ真の悟りとは言えない。愚には及ばない。」
解りやすく言えば「利口にはなれても、バカになるのはむずかしい。」
畢竟のところ、「お前はその愚(バカ)になれるのか、どうだ?」という問いかけの意味を持った言葉です。
禅師が自分のことを「愚」(おろかもの)とか「大愚」(大馬鹿者)と称するのは、単純に自分を卑下したり謙遜していうのではありません。悟りを得たあとのしたり顔や、知恵や悟りを得た者がまきちらすおごりや慢心を戒める心の現れなのです。
才能のある者は、その才能に頼ることをやめられません。「策士、策に溺れる」といい、賢者もその知識に頼り、ついには失敗することもあるでしょう。悟りの境涯に達したとしても、なかなかその才を捨てることは出来ないものです。
悟りを得て、その悟りさえも忘れて「愚」に徹する、悟りの匂いすらしない「大愚」に徹する生き方に学びます。
合掌
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