「廃物希釈」
神仏分離令は、仏教排斥を意図したものではなかったのですが、江戸時代の厳しい寺請制度で、汚職の温床となっていた寺院に反感を持っていた庶民や、神道の復古を目指した一部の神職が中心になって全国各地で仏教排斥が始まります。寺請制度とは、江戸時代にキリスト教を排除する目的で、すべての人は寺院の檀家となり、寺院から寺請証文を受け取ることを強要した制度で汚職などが蔓延し、現在ある檀家制度は当時の寺請制度に始まったものです。寺の管理下にあった神社は、これまでの寺へのうっ憤から過激な行動に出て、仏堂、仏像、仏具等を焼き捨てる神社が出てきました。日吉神社、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮、金毘羅大権現等です。更に影響は各地で廃寺が進み、特に鹿児島、水戸、佐渡、富山、信州などが激しかったようです。これは当時の国学者や神道家の影響もあるのですが、寺院が幕府の宗教制度の一翼を担った中で、その反発が出てきたものとも言えます。壊滅的な被害にあった有名な寺としては奈良の興福寺で、中世の頃は最大の荘園を持ち、東大寺よりも大きく、伽藍、堂舎の規模は日本最大級で、金堂(本堂)が二つあったのは興福寺だけです。仏像、仏具の類も他を圧する量と質と言われ文化財の宝庫でした。しかし、伽藍は五重塔以外はほとんどすべて壊されてしまい、その五重塔も焼かれるところでしたが、類焼を恐れた住民の反対でそのまま残されたそうです。興福寺はその後復興しましたが、今日の規模に昔の面影はありません。もし廃仏毀釈運動がなかったら、どれほどの国宝が現存していたことでしょう。
薩摩藩では廃仏毀釈が徹底され、1616寺とも言われる寺院が廃寺となり、僧侶は還俗し、兵士になったものも多く、没収された財産や人員は、軍を強化するために回されたといわれます。美濃国では、苗木藩の寺院、仏像、仏壇はすべて破壊され、藩主の菩提寺も廃寺となりました。地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度に反感を持った民衆がこれに加わり、歴史的、文化的に価値のある多くの文物が失われたのです。仏教伝来から既に1400年近く経っていた明治維新といわれるこの時点に於いて、仏教という宗教及びその影響を受けた文化的、精神的諸要素は、既にこの美しい日本の風土と文化を創り上げ、人びとの心に浸み込んでいたのです。その意味では、新政権が起こした「廃仏毀釈」は、歴史上例をみない醜い日本文化の破壊活動で、日本全国で奈良朝以来のおびただしい数の貴重な仏像、仏具、寺院が破壊されたのです。明治政府は、その後「神仏分離」は廃仏ではないと布告しましたが、廃仏毀釈運動による被害は地域によっては凄まじいもので、中国の文化大革命、イスラム原理主義勢力タリバーンやイスラム国による破壊活動と似ています。
ところで、この「神仏分離」は、天皇家にはどのような影響を及ぼしたのでしょうか。内裏には歴代天皇、皇后の位牌が納められた仏堂があり、祖霊神を祀る神殿もあり、天皇家は神仏併せて信仰されていたのですが、「神仏分離」でお位牌は京都の泉湧寺に預けられました。泉湧寺には歴代天皇の陵墓がありますが、天皇家は仏教の信仰をお止めになり、信仰は伊勢神宮の神様だけになりました。それまで仏式だった天皇家の葬儀は明治天皇以来神式となり、戦後国家神道はなくなりましたが天皇家はそのまま神道です。しかし、1400年も続いた神仏習合の文化はそう簡単になくなることはなく、寺院と神社は物理的には分離されましたが、日本の家には今でもしっかり神棚と仏壇が祀られています。結論的には、日本人の宗教観の原点はすなわち「神仏習合」にあるといえるでしょう。
合掌
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