「正見2」
4月法話の「天上天下唯我独尊」という言葉が人間のモノサシだったら傲慢以外のなにものでもありませんが、お釈迦さまの言葉として、宇宙絶対の真理というモノサシによるものだからこそまさに「正見」なのです。「正見」の反対が「我見」「邪見」で、因果の道理も業報の道理も信じない自己中心的なよこしまな考えが「邪見」です。立場や都合によって逆転するような善悪こそまさに邪見です。「正見」は、どこまでも天地の道理に則った「是非」でなければなりません。
伝教大師最澄は、「発(おこ)し難くして忘れ易きはこれ善心なり」と語っておられます。この「善心」こそ「正見」から生まれた「私心」のないものです。主観的モノサシに捕われるのが「私心」です。
天地の道理に背むき自ら招く苦しみ、そんな苦しみや不幸に陥らないために「私心のない善心」を正見は説いています。その実践は極めて単純明解、只「悪いことはするな、善いことをせよ」です。
「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」
これは「七仏通誡の偈」(しちぶつつうかいのげ)と呼ばれるもので鳥窠道林禅師(八二四年寂)が、白楽天(八四六年寂)の問いに答えたと言われる有名な句です。
白楽天が道林禅師に「いかなるか仏法の大意」(仏教の基本は何ですか)と問われました。それに対し禅師は、「悪い事はするな、善いことをせよ」と答えたのです。
それに対し白楽天は、「そんなことは三歳の子供でも知っている」と返されたのです。それに禅師は、「三歳の子供でも知っていることを、八十の老翁が実行することはできない」と叱咤され、白楽天は拝謝して去ったといわれます。
道元禅師は、「早く自未得度先度佗(じみとくどせんどた)の心を發(おこ)すべし。その形陋(いや)しというとも、此心を發(おこ)せば、巳(すで)に一切衆生の導師なり、設(たと)い七歳の女流なりともすなわち四衆の導師なり、衆生の慈父なり、男女を論ずること勿(なか)れ。これ仏道極妙の法則なり」と垂示されています。
「私心のない菩提心を持った人であれば、たとえ僅か七歳ばかりの童女であろうとも、四衆の導師であり、慈父ともいうべきものである。そこに男女の差別などまったくない。これは仏道極妙の法則である」と喝破されています。「四衆」とは、比丘、比丘尼、優婆塞(在家の信士)、優婆夷(信女)のことです。菩提心を發した者は、老若男女、年齢に関係なく仏道修行の導師である。これは「仏道極妙の法則」であると断言されています。真実は時代によって変わるものではありません。立場や都合によって変わるものでもありません。「時代が違うから」とか、「立場上」から“持論”を主張される人がいますが、それらは「正見」とはいえません。
合掌
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