正 法 眼 蔵    唯仏与仏 (ゆいぶつよぶつ)  
唯仏与仏

  仏法は、人の知るべきにはあらず。このゆゑにむかしより、凡夫として仏法を悟るなし、二乗として仏法をきはむるなし。ひとり仏にさとらるるゆゑに、唯仏与仏、乃能究尽といふ。それをきはめ悟るとき、われながらも、かねてより悟るとはかくこそあらめとおもはるることはなきなり。たとひおぼゆれども、そのおぼゆるにたがはぬ悟りにてなきなり。悟りもおぼえしがごとくにてもなし。かくあれば、かねておもふ、そのようにたつべきにあらず。悟りぬるをりは、いかにありけるゆゑに悟りたりとおぼえぬなり。これにてかへりしるべし、悟りよりさきに、とかくおもひけるは、悟りのようにあらぬと。さきのさまざまおもふおもひのえうにあらざりけるは、おもひのまことにあしくして、そのちからのなきにてはなし。こしかたのおもひもさながら悟りにてありけるを、そのをりは、さかさまにせんとしけるゆゑに、ちからのなきとは、おもひもいひもするなり。えうにあらずとおぼゆることは、しるべきところ必ずあり。いはゆる、ちひさくはならじと恐れける。もし悟りよりさきのおもひをちからとして悟りのいでこんは、たのもしからぬ悟りにてありぬべし。悟りよりさきにちからとせず、はるかに越えて来れるゆゑに、悟りとは、ひとすぢにさとりのちからにのみたすけらる。まどひはなきものぞとも知るべし、さとりはなきことぞとも知るべし。無上菩提の人にてあるをり、これをほとけといふ。仏の無上菩提にてあるとき、これを無上菩提といふ。この道にあるときの面目、しらざらんはおろかなりぬべし。
  いはゆるその面目は、不染汚なり。不染汚とは、趣向なく、取舍なからんと、しひていとなみ、趣向にあらざらんところ、つくろひするにはあらぬなり。いかにも趣向せられず、取舍せられぬ不染汚のあるなり。たとへば、人にあふに、面目のいかやうなるとおぼえぬ、はなにも月にも今ひとつの光色おもひかさねず、はるはただはるながらの心、あきも又あきながらの美悪にて、のがるべきにあらぬを、われにあらざらんとするには、われなるにても、おもひしるべし。このはる、あきのこゑ、われならんとするにも、われにあらざるにても、かへりみるべし。われにつもれるにてもなし、今もわれにあるおもひにてもなきなり。その心は、今の四大五蘊、各各われとわれとすべきにてもあらず、たれとたどるべからず。しかあれば、花月のもよほす心のいろ、又われとすべきにあらぬをわれとおもふ。われにあらぬをわれとおもひ、さもあらばあれ、そむくべきかたの色も、おもむくべきかたのそめられぬべきもなしとてらす時、おのづから道にある行履もかくれざりける本来の面目なり。
  ふるき人のいはく、尽大地これ自己の法身にてあれども、法身にさへられざるべし。もし法身にさへられぬるには、いささか身を転ぜんとするにもかなはず。出身の道あるべし、いかなるか是れ諸人の出身の道と。もしこの出身のみちをいはざらんものは、法身のいのちも、たちまちにたえて、ながく苦海にしづみぬべし。かくのごとくとはんに、いかにといはんか、法身をもいけ、苦海にもしづまざるべきと。
  このときいふべし、尽大地、自己の法身なりと。
  もしこの道理にてあらん、尽大地自己の法身といふをりはいはれぬ。又いはれざらんとき、ふつといはぬとやこころうべき。いはぬ、いはぬ。
  古仏のいへる事あり。死のなかにいけることあり、いけるなかに死せることあり。死せるがつねに死せるあり、いけるがつねにいけるあり。これ人のしひてしかあらしむるにあらず、法のかくのごとくなるなり。
  しかあれば、法輪を転ずるをりも、かくのごとくのひかりあり、こゑあり。現身度生にもしかありとしるべし。これを無生の知見とはいふ。現身度生とは、度生現身にてありけるなり。度にむかひて現をたどらず、現をみるに度をあやしむことなかるべし。この度に、仏法はきはめつくせりと心うべし、とくべし、証ずべし。現にも身にも、度のごとくにありけると聞くなり、とくなり。これも現身度生のしかあらしめけるとなり。この旨を証じけるにぞ、得道のあしたより、涅槃のゆふべにいたるまで、一字をもとかざりけるとも、とかるることばの自在なりける。
  古仏云く、尽大地是れ真実人体なり、尽大地是れ解脱門なり、尽大地是れ毘盧一隻眼なり、尽大地是れ自己の法身なり。
  いはゆるこころは、真実とは、まことの身となり。尽大地を、われらがかりにあらざりけるまことしき身にてありけるとはしるべし。ひごろはなにとしてかしらざりけると問ふ人あらば、尽大地是れ真実人体といひつることを我れにかへせといふべし。又、尽大地是れ真実人体とは、かくのごとく知るともいふべし。
  又、尽大地これ解脱門とは、いかにもまつはれかがふることなきになづくるなり。尽大地のことばは、ときにもとしにも、心にもことばにも、したしくして、ひまなく親蜜なり。かぎりなく、ほとりなきを尽大地と云ふべきなり。この解脱門にいらんことをもとめ、いでんことをもとめんに、又うべからざるなり。なにとしてかかくのごとくなる。発問をかへりみるべし。あらぬところを尋ねばやとおもはんにも、かなふべからざるものなり。
  又、尽大地は是れ毘盧のひとつのまなこなりとは、仏はひとつのまなこといへる、かならずしも人のまなこのやうにあらんずるとはおもはざれ。人にも、目こそは二もあれ、まなこをいふときは、人眼とばかりいひて、二とも三ともいはぬなり。教をまなぶものの、仏眼といひ、法眼といひ、天眼などいふも、めにてありとはならはぬなり。目のやうにあらんとしれるをば、はかなきといふ。今はただ仏の眼ひとつにて、尽大地ありけるときくべし。千眼もあれ、万の眼もあれ、まづしばらく尽大地がそのなかのひとつにてあるとなり。かくおほかるなかに、ひとつぞと云ふもとがなし。又、仏にはただまなこはひとつのみありとしるもあやまらず。まなこはさまざまあるべきぞかし。三あるもあり、千眼あるもあり、八万四千ありと云ふ事もあれば、まなこのかくのごとくなりとききて、耳をおどろかさざるべし。又、尽大地はみづからが法身なりときくべし。みづからをしらん事をもとむるは、いけるもののさだまれる心なり。しかあれども、まことのみづからをばみるものまれなり、ひとり仏のみこれをしれり。その外の外道等は、いたづらにあらぬをのみわれとおもふなり。仏の云ふみづからは、則ち尽大地にてあるなり。しかあれば、みづからと知るも知らぬも、皆ともにおのれにあらぬ尽大地はなし。この時のことば、かのときの人にゆづるべし。

  むかし僧有りて古徳に問ふ、百千万境一時に来らん時、いかがすべき。
  古徳云く、莫管他(他を管ずること莫れ)。
  いふ心は、来らん事はさもあらばあれ、ともかくもうごかすべからずとなり。これすみやかなる仏法にてあり、境にてはなし。このことばをば炳誡とは心うべからず、諦実にてありと心得べし。いかにも管ずるかとすれば、管ぜられざりけるなり。

  ふるき仏の云く、山河大地と諸人と同じくむまれ、三世の諸仏と諸人と同じく行ひ来れり。
しかあればすなはち、一人むまるるをりに山河大地をみるに、この一人がむまれざりつるさきよりありける山河大地のうへに、いまひとへかさねてむまれいづるとみえず。しかあればとても、又ふるきことばのむなしかるべきにはあらず。いかにか心うべき。心えられずとて、さしおくべきにはあらねば、かならずこころうべし、とふべし。すでにとけることばにてあれば、きくべし。ききてはまた心うべきなり。
  これを心えんやうは、このむまるる一人がかたよりこの生をたづぬるに、この生と云ふことは、いかにあることと、はじめ、をはりあきらめける人はたれぞ。終りも始めも知らざれども、うまれきたれり。夫れただ山河大地のきはもしらざれども、ここをばみる、この処をばふみありくがごとし。生のごとくにあらぬ山河大地よと、うらむるおもひなかれ。山河大地をひとしき我が生なりといへりけりとあきらむべし。又三世諸仏はすでにおこなひて道をもなり、悟りもをはれり。この仏とわれとひとしとは、又いかにか心うべき。まづしばらく仏の行をこころうべし。仏の行は、尽大地とおなじくおこなひ、尽衆生ともにおこなふ。もし尽一切にあらぬは、いまだ仏の行にてはなし。
  しかあれば、心をおこすより、さとりをうるにいたるまで、かならず尽大地と尽衆生と、さとりもおこなひもするなり。これにいかにかうたがふおもひもあるべきに、しられぬおもひもまじるににたるを、あきらめんとて、かくのごとくのこゑのきこゆるも、人のようとはあやしまざるべし。これは、心うるをしへにては、三世の諸仏のこころをもおこしおこなふは、かならず、われらが身心をばもらさぬことわりのあるなりとしるべし。
  これをうたがひおもふは、すでに三世の諸仏をそしるなり。しづかにかへりみれば、われらが身心は、まことに三世の諸仏とおなじくおこなひける道理あり、発心しける道理もありぬべくみゆるなり。この身心のさき、のちをかへりみてらせば、尋ぬべき人のわれにあらず、人にあらざらんには、なにをとどこほる処としてか、三世にはへだたれりとおもはん。このおもひども、しかしながらわれにあらず。なにとしてかは、又三世の諸仏の本心の処行道のときをばさへんとはすべき。しばらく、道は知不知にはあらぬとはなづくべし。

  ふるき人の云く、撲落も他物にあらず、縦横これ論にあらず。山河および大地、すなはち全露法王身なり。
いまの人も、むかしの人のいへるがごとくならふべし。すでに法王の身にてあり、しかれば、撲落もことなるものにはあらざりけると心うる法王ありける。このこころは、山の地にあるがごとし、地の山をのせてあるににたり。心うるに、心えざりつるをりのきたりて心うる、さまたげず。又、心うるが、心えざりつるをやぶることもなくして、しかも心うると心えぬとの、はるのいろ、あきのこゑあり。それをも心えざりつるは、声おほきにして、ときけるその声、耳にいらず、耳、こゑのなかにあそびありきける。心うるは、こゑすでに耳に入りて三昧あらはるるをりにてあるべし。この、心うるはちひさく、心えぬはおほきにてありけるとも思はざるべし。わたくしにおもひえたる事にはあらねば、法王のかくのごとくなりけるとしるべし。法王のみとは、まなこも身のごとくにあり、心もみとひとしかるべし。心とみと、一毫の隔てなく、全露にてあるべし。光明にも説法にも、かみにいふがごとくに、法王身にてありと心うるなり。
  むかしより自いへることあり、いはゆる、うをにあらざればうをのこころをしらず、とりにあらざれば鳥のあとをたずねがたし。
このことわりをも、よく知れる人まれなり。人のうをの心をしらぬとのみおもへるは、あしくしれり。これを知るやうは、魚と魚とは、かならずあひたがひにその心を知るなり。人のやうにしらぬことはなくて、龍門をさかのぼらんとおもふにも、ともにしられ、同じく心をひとつにするなり。九浙をしのぐ心もかよひしらるるなり。これを、うをにあらぬはしることなし。
又鳥のそらを飛びぬるをば、いかにもことけだものは、このあしのあとをしり、このあとをみてたづぬることは、夢にもいまだおもひよらず。さありと知らねば、おもひよるためしもなし。しかあるを、鳥はよく、ちひさき鳥のいく百千むらがれすぎにける、これはおほきなる鳥のいくつらみなみにさり、きたに飛びにけるあとよと、かずかずにみるなり。車の跡の路にのこり、馬の跡の草にみゆるよりもかくれなし。鳥は鳥のあとを見るなり。
  このことわりは、仏にもあり。仏のいくよよにおこなひすぎにけるよとおもはれ、ちひさき仏、おほきなる仏、かずにもれぬるかずながらしるなり。仏にあらざるをりは、いかにも知られざる事なり。いかにしられざるぞといふ人もありぬべし。仏のまなこにてそのあとをみるべきがゆゑに、仏にあらぬは仏の眼をそなへず。仏のものかぞふるかずなり。しらねばすべて仏の路のあとをばたどりぬべし。このあと、もしめにみえば、仏にてあるやらんと、足のあとをもたくらぶべし。たくらぶる処に、仏のあともしられ、仏のあとの長短も浅深もしられ、わがあとのあきらめらるることは、仏のあとをはかるよりうるなり。このあとをうるを、仏法とはいふなるべし。

正法眼蔵 第三十八 唯仏与仏

弘安十一年季春晦日、於越州吉田縣志比荘、吉祥山永平寺知賓寮南軒書寫之

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