正 法 眼 蔵 | 優曇華 第六十四 |
優曇華 霊山百万衆前、世尊拈優曇華瞬目。于時摩訶迦葉、破顔微笑(霊山百万衆の前にして、世尊、優曇華を拈じて瞬目したまふ。時に摩訶迦葉、破顔微笑せり)。 世尊云、我有正法眼蔵涅槃妙心、付嘱摩訶迦葉(我に正法眼蔵涅槃妙心有り、摩訶迦葉に付嘱す)。 七仏諸仏はおなじく拈華来なり、これを向上の拈華と修証現成せるなり。直下の拈花と裂破開明せり。 しかあればすなはち、拈華裏の向上向下、自他表裡等、ともに渾華拈なり。華量仏量、心量身量なり。いく拈華も面面の嫡嫡なり。付嘱有在なり。世尊拈華来、なほ放下著いまだし。拈華世尊来、ときに嗣世尊なり。拈花時すなはち尽時のゆゑに同参世尊なり、同拈華なり。 いはゆる拈花といふは、花拈華なり。梅華春花、雪花蓮華等なり。いはくの梅花の五葉は参百六十余会なり、五千四十八卷なり、参乗十二分教なり、参賢十聖なり。これによりて参賢十聖およばざるなり。大蔵あり、奇特あり、これを華開世界起といふ。一華開五葉、結果自然成とは、渾身是己掛渾身なり。桃花をみて眼睛を打失し、翠竹をきくに耳処を不現ならしむる、拈花の而今なり。腰雪断臂、礼拝得髄する、花自開なり。石碓米白、夜半伝衣する、華已拈なり。これら世尊手裡の命根なり。 おほよそ拈華は世尊成道より已前にあり、世尊成道と同時なり、世尊成道よりものちにあり。これによりて、華成道なり。拈華はるかにこれらの時節を超越せり。諸仏諸祖の発心発足、修証保任、ともに拈華の春風を蝶舞するなり。しかあれば、いま瞿曇世尊、はなのなかに身をいれ、空のなかに身をかくせるによりて、鼻孔をとるべし、虚空をとれり、拈華と称ず。拈花は眼睛にて拈ず、心識にて拈ず、鼻孔にて拈ず、華拈にて拈ずるなり。 おほよそこの山かは天地、日月風雨、人畜草木のいろいろ、角角拈来せる、すなはちこれ拈優曇花なり。生死去来も、はなのいろいろなり、はなの光明なり。いまわれらが、かくのごとく参学する、拈華来なり。 仏言、譬如優曇花、一切皆愛楽(譬へば優曇花の如し、一切皆愛楽す)。 いはくの一切は、現身蔵身の仏祖なり、草木昆蟲の自有光明在なり。皆愛楽とは、面面の皮肉骨髄、いまし活発々地なり。 しかあればすなはち、一切はみな優曇華なり。かるがゆゑに、すなはちこれをまれなりといふ。 瞬目とは、樹下に打坐して明星に眼睛を換却せしときなり。このとき摩訶迦葉、破顔微笑するなり。顔容はやく破して拈華顔に換却せり。如来瞬目のときに、われらが眼睛はやく打失しきたれり。この如来瞬目、すなはち拈華なり。優曇華のこころづからひらくるなり。 拈花の正当恁麼時は、一切の瞿曇、一切の迦葉、一切の衆生、一切のわれら、ともに一隻の手をのべて、おなじく拈華すること、只今までもいまだやまざるなり。さらに手裡蔵身参昧あるがゆゑに、四大五陰といふなり。 我有は附嘱なり、附嘱は我有なり。附嘱はかならず我有に罣礙せらるるなり。我有は頂寧なり。その参学は、頂寧量を巴鼻して参学するなり。我有を拈じて附嘱に換却するとき、保任正法眼蔵なり。祖師西来、これ拈花来なり。拈華を弄精魂といふ。弄精魂とは、祗管打坐、脱落身心なり。仏となり祖となるを弄精魂といふ、著衣喫飯を弄精魂といふなり。おほよそ仏祖極則事、かならず弄精魂なり。仏殿に相見せられ、僧堂を相見する、はなにいろいろいよいよそなはり、いろにひかりますますかさなるなり。さらに僧堂いま板をとりて雲中に拍し、仏殿いま笙をふくんで水底にふく。到恁麼のとき、あやまりて梅華引を吹起せり。 いはゆる先師古仏いはく、瞿曇打失眼睛時、雪裡梅花只一枝。而今到処成荊棘、却笑春風繚乱吹。 (瞿曇眼睛を打失する時、雪裡の梅花只だ一枝なり。而今到処に荊棘を成す、却つて笑ふ春風の繚乱として吹くことを。) いま如来の眼睛あやまりて梅花となれり。梅花いま彌綸せる荊棘をなせり。如来は眼睛に蔵身し、眼睛は梅花に蔵身す、梅花は荊棘に蔵身せり。いまかへりて春風をふく。しかもかくのごとくなりといへども、桃花楽を慶快す。 先師天童古仏云、霊雲見処桃花開、天童見処桃花落(霊雲の見処は桃花開、天童の見処は桃花落なり)。 しるべし、桃花開は霊雲の見処なり、直至如今更不疑なり。桃花落は天童の見処なり。桃花のひらくるは春のかぜにもよほされ、桃花のおつるは春のかぜににくまる。たとひ春風ふかく桃花をにくむとも、桃花おちて身心脱落せん。 正法眼蔵 優曇華 第六十四 爾時寛元二年甲辰二月十二日在越宇吉峰精藍示衆 |