正 法 眼 蔵    葛 藤 (かっとう)  第三十八  
葛 藤

  釈迦牟尼仏の正法眼蔵無上菩提を証伝せること、霊山会には迦葉大士のみなり。嫡嫡正証二十八世、菩提達磨尊者にいたる。尊者みづから震旦国に祖儀して、正法眼蔵無上菩提を太祖正宗普覚大師に附嘱し、二祖とせり。 第二十八祖、はじめて震旦国に祖儀あるを初祖と称ず、第二十九祖を二祖と称ずるなり。すなはちこれ東土の俗なり。初祖かつて般若多羅尊者のみもとにして、仏訓道骨、まのあたり証伝しきたれり、根源をもて根源を証取しきたれり、枝葉の本とせるところなり。 おほよそ諸聖ともに葛藤の根源を截断する参学に趣向すといへども、葛藤をもて葛藤をきるを截断といふと参学せず、葛藤をもて葛藤をまつふとしらず。いかにいはんや葛藤をもて葛藤に嗣続することをしらんや。嗣法これ葛藤としれるまれなり、きけるものなし。道著せる、いまだあらず。証著せる、おほからんや。
  先師古仏云、胡蘆藤種纏胡蘆(胡蘆藤種、胡蘆を纏ふ)。 この示衆、かつて古今の諸方に見聞せざるところなり。はじめて先師ひとり道示せり。胡蘆藤の胡蘆藤をまつふは、仏祖の仏祖を参究し、仏祖の仏祖を証契するなり。たとへばこれ以心伝心なり。
  第二十八祖、謂門人云(第二十八祖、門人に謂て云く)、時将至矣、汝等盍言所得乎(時将に至りなんとす、汝等盍ぞ所得を言はざるや)。 時門人道副曰(時に門人道副曰く)、如我今所見、不執文字、不離文字、而為道用(我が今の所見の如きは、文字を執せず、文字を離れず、しかも道用をなす)。
  祖曰、汝得吾皮(汝、吾が皮を得たり)。
  尼総持曰、如我今所解、如慶喜見阿閦仏国、一見更不再見(我が今の所解の如きは、慶喜の阿閦仏国を見しに、一見して更に再見せざりしが如し)。
  祖曰、汝得吾肉(汝、吾が肉を得たり)。
  道育曰、四大本空、五陰非有、而我見処、無一法可得(四大本空なり、五陰有に非ず、しかも我が見処は、一法として得べき無し)。
  祖曰、汝得吾骨(汝、吾が骨を得たり)。
  最後慧可、礼三拝後、依位而立(最後に慧可、礼三拝して後、位に依つて立てり)。
  祖曰、汝得吾髄(汝、吾が髄を得たり)。
  果為二祖、伝法伝衣(果して二祖として、伝法伝衣せり)。
   いま参学すべし、初祖道の汝得吾皮肉骨髄は、祖道なり。門人四員、ともに得処あり、聞著あり。その聞著ならびに得処、ともに跳出身心の皮肉骨髄なり、脱落身心の皮肉骨髄なり。知見解会の一著子をもて、祖師を見聞すべきにあらざるなり。能所彼此の十現成にあらず。しかあるを、正伝なきともがらおもはく、四子各所解に親疎あるによりて、祖道また皮肉骨髄の浅深不同なり。皮肉は骨髄よりも疎なりとおもひ、二祖の見解すぐれたるによりて、得髄の印をえたりといふ。かくのごとくいふいひは、いまだかつて仏祖の参学なく、祖道の正伝あらざるなり。
  しるべし、祖道の皮肉骨髄は、浅深に非ざるなり。たとひ見解に殊劣ありとも、祖道は得吾なるのみなり。その宗旨は、得吾髄の為示、ならびに得吾骨の為示、ともに為人接人、拈草落草に足不足あらず。たとへば拈花のごとし、たとへば伝衣のごとし。四員のために道著するところ、はじめより一等なり。祖道は一等なりといへども、四解かならずしも一等なるべきにあらず。四解たとひ片片なりとも、祖道はただ祖道なり。
  おほよそ道著と見解と、かならずしも相委なるべからず。たとへば、祖師の四員の門人にしめすには、なんぢわが皮吾をえたりと道取するなり。もし二祖よりのち、百千人の門人あらんにも、百千道の説著あるべきなり。窮尽あるべからず。門人ただ四員あるがゆゑに、しばらく皮肉骨髄の四道取ありとも、のこりていまだ道取せず、道取すべき道取おほし。しるべし、たとひ二祖に為道せんにも、汝得吾皮と道取すべきなり。たとひ汝得吾皮なりとも、二祖として正法眼蔵を伝附すべきなり。得皮得髄の殊劣によれるにあらず。また道副道育総持等に為道せんにも、汝得吾髄と道取すべきなり。吾皮なりとも、伝法すべきなり。祖師の身心は、皮肉骨髄ともに祖師なり。髄はしたしく、皮はうときにあらず。 いま参学の眼目をそなへたらんに、汝得吾皮の印をうるは、祖師をうる参究なり。通身皮の祖師あり、通身肉の祖師あり、通身骨の祖師あり、通身髄の祖師あり。通身心の祖師あり、通身身の祖師あり、通心心の祖師あり。通祖師の祖師あり、通身得吾汝等の祖師あり。これらの祖師、ならびに現成して、百千の門人に為道せんとき、いまのごとく汝得吾皮と説著するなり。百千の説著、たとひ皮肉骨髄なりとも、傍観いたづらに皮肉骨髄の説著と活計すべきなり。もし祖師の会下に六七の門人あらば、汝得吾心の道著すべし、汝得吾身の道著すべし、汝得吾仏の道著すべし、汝得吾眼睛の道著すべし、汝得吾証の道著すべし。いはゆる汝は、祖なる時節あり、慧可なる時節あり、得の道理を審細に参究すべきなり。 しるべし、汝得吾あるべし、吾得汝あるべし、得吾汝あるべし、得汝吾あるべし。祖師の身心を参見するに、内外一如なるべからず、渾身は通身なるべからずといはば、仏祖現成の国土にあらず。皮をえたらんは、骨肉髄をえたるなり。骨肉髄をえたるは、皮肉面目をえたり。ただこれを尽十方界の真実体と曉了するのみならんや、さらに皮肉骨髄なり。このゆゑに得吾衣なり、汝得法なり。これによりて、道著も跳出の條條なり、師資同参す。聞著も跳出の條條なり、師資同参す。師資の同参究は仏祖の葛藤なり、仏祖の葛藤は皮肉骨髄の命脈なり。拈花瞬目、すなはち葛藤なり。破顔微笑、すなはち皮肉骨髄なり。 さらに参究すべし、葛藤種子すなはち脱体の力量あるによりて、葛藤を纏遶する枝葉花果ありて、囘互不囘互なるがゆゑに、仏祖現成し、公案現成するなり。 趙州真際大師示衆云、迦葉伝与阿難、且道、達磨伝与什麼人(迦葉、阿難に伝与せり、且く道ふべし、達磨什麼人にか伝与せる)。 因僧問、且如二祖得髄の如、又作麼生(且く二祖の得髄の如き、又作麼生)。 師云、莫謗二祖(二祖を謗ずること莫れ)。 師又云、達磨也有語、在外者得皮、在裡者得骨。且道、更在裏者得什麼(達磨也た語くこと有り、外に在る者は皮を得、裡に在る者は骨を得と。且く道ふべし、更に在裏の者は什麼をか得る)。 僧問、如何是得髄底道理(如何ならんか是れ得髄底の道理)。 師云、但識取皮、老僧者裡、髄也不立(但だ皮を識取すべし。老僧が者裡、髄も也た不立なり)。 僧問、如何是髄(如何ならんか是れ髄)。 師云、与麼即皮也摸未著(与麼ならば即ち、皮も也た摸未著なり)。 しかあればしるべし、皮也摸未著のときは、髄也摸未著なり。皮を摸得するは、髄もうるなり。与麼即皮也摸未著の道理を功夫すべし。如何是得髄底道理と問取するに、但識取皮、老僧遮裏、髄也不立と道取現成せり。識取皮のところ、髄也不立なるを、真箇の得髄底の道理とせり。かるがゆゑに、二祖得髄、又作麼生の問取現成せり。迦葉伝与阿難の時節を当観するに、阿難蔵身於迦葉なり、迦葉蔵身於阿難なり。しかあれども、伝与裏の相見時節には、換面目皮肉骨髄の行李をまぬかれざるなり。これによりて、且道、達磨伝与什麼人としめすなり。達磨すでに伝与するときは達磨なり、二祖すでに得髄するには達磨なり。この道理の参究によりて、仏法なほ今日にいたるまで仏法なり。もしかくのごとくならざらんは、仏法の今日にいたるにあらず。この道理、しづかに功夫参究して、自道取すべし、教他道取すべし。 在外者得皮、在裏者得骨、且道、更在裏者得什麼。 いまいふ外、いまいふ裏、その宗趣もとも端的なるべし。外を論ずるとき、皮肉骨髄ともに外あり。裏を論ずるとき、皮肉骨髄ともに裏あり。 しかあればすなはち、いま四員の達磨、ともに百千万の皮肉骨髄の向上を條條に参究せり。髄よりも向上あるべからずとおもふことなかれ。さらに三五枚の向上あるなり。 趙州古仏のいまの示衆、これ仏道なり。自余の臨濟徳山大潙雲門等のおよぶべからざるところ、いまだ夢見せざるところなり。いはんや道取あらんや。近来の杜撰の長老等、ありとだにもしらざるところなり。かれらに為説せば、驚怖すべし。 雪竇明覚禅師云、趙睦二州、是れ古仏なり。 しかあれば、古仏の道は仏法の証験なり。自己の曽道取なり。 雪峰真覚大師云、趙州古仏。 さきの仏祖も古仏の讃歎をもて讃歎す、のちの仏祖も古仏の讃歎をもて讃歎す。しりぬ、古今の向上に超越の古仏なりといふことを。 しかあれば、皮肉骨髄の葛藤する道理は、古仏の示衆する汝得吾の標準なり。この標格を功夫参究すべきなり。 また初祖は西帰するといふ、これ非なりと参学するなり。宋雲が所見かならずしも実なるべからず、宋雲いかでか祖師の去就をみん。ただ祖師帰寂ののち、熊耳山にをさめたてまつりぬるとならひしるを、正学とするなり。

正法眼蔵葛藤第三十八

爾時寛元元年癸卯七月七日

在雍州宇治郡観音導利興聖悪林寺示衆

寛元二年甲辰三月三日

在越州吉田郡吉峰寺侍司書寫 懐弉




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