正 法 眼 蔵 | 山水経 第二十九 |
山 水 経 而今の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成ぜり。空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱なり。山の諸功徳高広なるをもて、乗雲の道徳かならず山より通達す、順風の妙功さだめて山より透脱するなり。 大陽山楷和尚示衆云、青山常運歩、石女夜生兒。 山はそなはるべき功徳の虧闕することなし。このゆゑに常安住なり、常運歩なり。さの運歩の功徳、まさに審細に参学すべし。山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆゑに、人間の行歩におなじくみえざればとて、山の運歩をうたがふことなかれ。 いま仏祖の説道、すでに運歩を指示す、これその得本なり。常運歩の示衆を究弁すべし。運歩のゆゑに常なり。青山の運歩は其疾如風よりもすみやかなれども、山中人は不覚不知なり、山中とは世界裏の花開なり。山外人は不覚不知なり、山をみる眼目あらざる人は、不覚不知、不見不聞、這箇道理なり。もし山の運歩を疑著するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしられざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに青山の運歩をもしるべきなり。 青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず。いま青山の運歩を疑著せんことうべからず。いく法界を量局として青山を照鑑すべしとしらず。青山の運歩、および自己の運歩、あきらかに検点すべきなり。退歩歩退、ともに検点あるべし。 未朕兆の正当時、および空王那畔より、進歩退歩に、運歩しばらくもやまざること、検点すべし。運歩もし休することあらば、仏祖不出現なり。運歩もし窮極あらば、仏法不到今日ならん。進歩いまだやまず、退歩いまだやまず。進歩のとき退歩に乖向せず、退歩のとき進歩を乖向せず。この功徳を山流とし、流山とす。 青山も運歩を参究し、東山も水上行を参学するがゆゑに、この参学は山の参学なり。山の身心をあらためず、山の面目ながら廻途参学しきたれり。 青山は運歩不得なり、東山水上行不得なると、山を誹謗することなかれ。低下の見処のいやしきゆゑに、青山運歩の句をあやしむなり。小聞のつたなきによりて、流山の語をおどろくなり。いま流水の言も七通八達せずといへども、小見小聞に沈溺せるのみなり。 しかあれば、所積の功徳を挙せるを形名とし、命脈とせり。運歩あり、流行あり。山の山兒を生ずる時節あり、山の仏祖となる道理によりて、仏祖かくのごとく出現せるなり。 たとひ草木土石牆壁の見成する眼睛あらんときも、疑著にあらず、動著にあらず、全現成にあらず。たとひ七宝荘厳なりと見取せらるる時節現成すとも、実帰にあらず。たとひ諸仏行道の境界と見現成あるも、あながちの愛処にあらず。たとひ諸仏不思議の功徳と見現成の頂額をうとも、如実これのみにあらず。各各の見成は各各の依正なり、これらを仏祖の道業とするにあらず、一隅の管見なり。 転境転心は大聖の所呵なり、説心説性は仏祖の所不肯なり。見心見性は外道の活計なり、滞言滞句は解脱の道著にあらず。かくのごとくの境界を透脱せるあり、いはゆる青山常運歩なり、東山水上行なり。審細に参究すべし。 石女夜生兒は石女の生兒するときを夜といふ。おほよそ男石女石あり、非男女石あり。これよく天を補し、地を補す。天石あり、地石あり。俗のいふところなりといへども、人のしるところまれなるなり。生兒の道理しるべし。生兒のときは親子並化するか。兒の親となるを生兒現成と参学するのみならんや、親の兒となるときを生兒現成の修証なりと参学すべし、究徹すべし。 雲門匡真大師いはく、東山水上行。 この道現成の宗旨は、諸山は東山なり、一切の東山は水上行なり。このゆゑに、九山迷盧等現成せり、修証せり。これを東山といふ。しかあれども、雲門いかでか東山の皮肉骨髄、修証活計に透脱ならん。 いま現在大宋国に、杜撰のやから一類あり、いまは群をなせり。小実の撃不能なるところなり。かれらいはく、いまの東山水上行話、および南泉の鎌子話のごときは、無理会話なり。その意旨は、もろもろの念慮にかかはれる語話は仏祖の禅話にあらず。無理会話、これ仏祖の語話なり。かるがゆゑに、黄檗の行棒および臨濟の挙喝、これら理会およびがたく、念慮にかかはれず、これを朕兆未萌已前の大悟とするなり。先徳の方便、おほく葛藤断句をもちゐるといふは無理会なり。 かくのごとくいふやから、かつていまだ正師をみず、参学眼なし。いふにたらざる小獃子なり。宋土ちかく二三百年よりこのかた、かくのごとくの魔子六群禿子おほし。あはれむべし、仏祖の大道の廃するなり。これらが所解、なほ小乗声聞におよばず、外道よりもおろかなり。俗にあらず僧にあらず、人にあらず天にあらず、学仏道の畜生よりもおろかなり。禿子がいふ無理会話、なんぢのみ無理会なり、仏祖はしかあらず。なんぢに理会せられざればとて、仏祖の理会路を参学せざるべからず。たとひ畢竟じて無理会なるべくは、なんぢがいまいふ理会もあたるべからず。しかのごときのたぐひ、宋朝の諸方におほし。まのあたり見聞せしところなり。あはれむべし、かれら念慮の語句なることをしらず、語句の念慮を透脱することをしらず。在宋のとき、かれらをわらふに、かれら所陳なし、無語なりしのみなり。かれらがいまの無理会の邪計なるのみなり。たれかなんぢにをしふる、天真の師範なしといへども、自然の外道兒なり。 しるべし、この東山水上行は仏祖の骨髄なり。諸水は東山の脚下に現成せり。このゆゑに、諸山くもにのり、天をあゆむ。諸水の頂額は諸山なり、向上直下の行歩、ともに水上なり。諸山の脚尖よく諸水を行歩し、諸水を趯出せしむるゆゑに、運歩七縦八横なり、修証即不無なり。 水は強弱にあらず、濕乾にあらず、動静にあらず、冷煖にあらず、有無にあらず、迷悟にあらざるなり。こりては金剛よりもかたし、たれかこれをやぶらん。融しては乳水よりもやはらかなり、たれかこれをやぶらん。しかあればすなはち、現成所有の功徳をあやしむことあたはず。しばらく十方の水を十方にして著眼看すべき時節を参学すべし。人天の水をみるときのみの参学にあらず、水の水をみる参学あり、水の水を修証するがゆゑに。水の水を道著する参究あり、自己の自己に相逢する通路を現成せしむべし。他己の他己を参徹する活路を進退すべし、跳出すべし。 おほよそ山水をみること、種類にしたがひて不同あり。いはゆる水をみるに瓔珞とみるものあり。しかあれども瓔珞を水とみるにはあらず。われらがなにとみるかたちを、かれが水とすらん。かれが瓔珞はわれ水とみる。水を妙華とみるあり。しかあれど、花を水ともちゐるにあらず。鬼は水をもて猛火とみる、膿血とみる。龍魚は宮殿とみる、楼台とみる。あるいは七宝摩尼珠とみる、あるいは樹林牆壁とみる、あるいは清浄解脱の法性とみる、あるいは真実人体とみる。あるいは身相心性とみる。人間これを水とみる、殺活の因縁なり。すでに随類の所見不同なり、しばらくこれを疑著すべし。一境をみるに諸見しなじななりとやせん、諸象を一境なりと誤錯せりとやせん、功夫の頂額にさらに功夫すべし。しかあればすなはち、修証弁道も一般両般なるべからず、究竟の境界も千種万般なるべきなり。さらにこの宗旨を憶想するに、諸類の水たとひおほしといへども、本水なきがごとし、諸類の水なきがごとし。しかあれども、随類の諸水、それ心によらず身によらず、業より生ぜず、依自にあらず依他にあらず、依水の透脱あり。 しかあれば、水は地水火風空識等にあらず、水は青黄赤白黒等にあらず、色声香味触法等にあらざれども、地水火風空等の水、おのづから現成せり。かくのごとくなれば、而今の国土宮殿、なにものの能成所成とあきらめいはんことかたかるべし。空輪風輪にかかれると道著する、わがまことにあらず、他のまことにあらず。小見の測度を擬議するなり。かかれるところなくは住すべからずとおもふによりて、この道著するなり。 仏言、一切諸法畢竟解脱、無有所住(一切諸法は畢竟解脱なり、所住有ること無し)。 しるべし、解脱にして繋縛なしといへども諸法住位せり。しかあるに、人間の水をみるに、流注してとどまらざるとみる一途あり。その流に多般あり、これ人見の一端なり。いはゆる地を流通し、空を流通し、上方に流通し、下方に流通す。一曲にもながれ、九淵にもながる。のぼりて雲をなし、くだりてふちをなす。 文子曰、水之道、上天為雨露、下地為江河(水の道、天に上りては雨露を為す。地に下りては江河を為す)。 いま俗のいふところ、なほかくのごとし。仏祖の兒孫と称ぜんともがら、俗よりもくらからんは、もともはづべし。いはく、水の道は水の所知覚にあらざれども、水よく現行す。水の不知覚にあらざれども、水よく現行するなり。 上天為雨露といふ、しるべし、水はいくそばくの上天上方へものぼりて雨露をなすなり。雨露は世界にしたがふてしなじななり。水のいたらざるところあるといふは小乗声聞経なり、あるいは外道の邪教なり。水は火焔裏にもいたるなり、心念思量分別裏にもいたるなり、覚知仏性裏にもいたるなり。 下地為江河。しるべし、水の下地するとき、江河をなすなり。江河の精よく賢人となる。いま凡愚庸流のおもはくは、水はかならず江河海川にあるとおもへり。しかにはあらず、水のなかに江海をなせり。しかあれば、江海ならぬところにも水はあり、水の下地するとき、江海の功をなすのみなり。 また、水の江海をなしつるところなれば世界あるべからず、仏土あるべからずと学すべからず。一滴のなかにも無量の仏国土現成なり。しかあれば、仏土のなかに水あるにあらず、水裏に仏土あるにあらず。水の所在、すでに三際にかかはれず、法界にかかはれず。しかも、かくのごとくなりといへども、水現成の公案なり。 仏祖のいたるところには水かならずいたる。水のいたるところ、仏祖かならず現成するなり。これによりて、仏祖かならず水を拈じて身心とし、思量とせり。 しかあればすなはち、水はかみにのぼらずといふは、内外の典籍にあらず。水之道は、上下縦横に通達するなり。しかあるに、仏経のなかに、火風は上にのぼり、地水は下にくだる。この上下は、参学するところあり。いはゆる仏道の上下を参学するなり。いはゆる地水のゆくところを下とするなり。下を地水のゆくところとするにあらず。火風のゆくところは上なり。法界かならずしも上下四維の量にかかはるべからざれども、四大五大六大等の行処によりて、しばらく方隅法界を建立するのみなり。無想天はかみ、阿鼻獄はしもとせるにあらず。阿鼻も尽法界なり、無想も尽法界なり。 しかあるに、龍魚の水を宮殿とみるとき、人の宮殿をみるがごとくなるべし、さらにながれゆくと知見すべからず。もし傍観ありて、なんぢが宮殿は流水なりと為説せんときは、われらがいま山流の道著を聞著するがごとく、龍魚たちまちに驚疑すべきなり。さらに宮殿楼閣の欄堦露柱は、かくのごとくの説著ありと保任することもあらん。この料理、しづかにおもひきたり、おもひもてゆくべし。この邊表に透脱を学せざれば、凡夫の身心を解脱せるにあらず、仏祖の国土を究尽せるにあらず。凡夫の国土を究尽せるにあらず、凡夫の宮殿を究尽せるにあらず。 いま人間には、海のこころ、江のこころを、ふかく水と知見せりといへども、龍魚等、いかなるものをもて水と知見し、水と使用すといまだしらず。おろかにわが水と知見するを、いづれのたぐひも水にもちゐるらんと認ずることなかれ。いま学仏のともがら、水をならはんとき、ひとすぢに人間のみにはとどこほるべからず。すすみて仏道のみづを参学すべし。仏祖のもちゐるところの水は、われらこれをなにとか所見すると参学すべきなり、仏祖の屋裏また水ありや水なしやと参学すべきなり。 山は超古超今より大聖の所居なり。賢人聖人、ともに山を堂奥とせり、山を身心とせり。賢人聖人によりて山は現成せるなり。おほよそ山は、いくそばくの大聖大賢いりあつまれるらんとおぼゆれども、山はいりぬるよりこのかたは、一人にあふ一人もなきなり。ただ山の活計の現成するのみなり、さらにいりきたりつる蹤跡なほのこらず。世間にて山をのぞむ時節と、山中にて山にあふ時節と、頂額眼睛はるかにことなり。不流の憶想および不流の知見も、龍魚の知見と一齊なるべからず。人天の自界にところをうる、他類これを疑著し、あるいは疑著におよばず。しかあれば、山流の句を仏祖に学すべし、驚疑にまかすべからず。拈一はこれ流なり、拈一はこれ不流なり。一囘は流なり、一囘は不流なり。この参究なきがごときは、如来正法輪にあらず。 古仏いはく、欲得不招無間業、莫謗如来正法輪(無間の業を招かざることを得んと欲はば、、如来正法輪を謗ずること莫れ)。 この道を、皮肉骨髄に銘ずべし、身心依正に銘ずべし。空に銘ずべし、色に銘ずべし。若樹若石に銘ぜり、若田若里に銘ぜり。 おほよそ山は国界に属せりといへども、山を愛する人に属するなり。山かならず主を愛するとき、聖賢高徳やまにいるなり。聖賢やまにすむとき、やまこれに属するがゆゑに、樹石鬱茂なり、禽獣霊秀なり。これ聖賢の徳をかうぶらしむるゆゑなり。しるべし、山は賢をこのむ実あり、聖をこのむ実あり。 帝者おほく山に幸して賢人を拝し、大聖を拝問するは、古今の勝躅なり。このとき、師礼をもてうやまふ、民間の法に準ずることなし。聖化のおよぶところ、またく山賢を強為することなし。山の人間をはなれたること、しりぬべし。崆峒華封のそのかみ、黄帝これを拝請するに、膝行して広成にとふしなり。釈迦牟尼仏かつて父王の宮をいでて山へいれり。しかあれども、父王やまをうらみず、父王やまにありて太子ををしふるともがらをあやしまず。十二年の修道、おほく山にあり。法王の運啓も在山なり。まことに輪王なほ山を強為せず。しるべし、山は人間のさかひにあらず、上天のさかひにあらず、人慮の測度をもて山を知見すべからず。もし人間の流に比準せずは、たれか山流山不流等を疑著せん。 あるいはむかしよりの賢人聖人、ままに水にすむもあり。水にすむとき、魚をつるあり、人をつるあり、道をつるあり。これともに古来水中の風流なり。さらにすすみて自己をつるあるべし、釣をつるあるべし、釣につらるるあるべし、道につらるるあるべし。 むかし徳誠和尚、たちまちに薬山をはなれて江心にすみしすなはち、華亭江の賢聖をえたるなり。魚をつらざらんや、人をつらざらんや、水をつらざらんや、みづからをつらざらんや。人の徳誠をみることをうるは、徳誠なり。徳誠の人を接するは、人にあふなり。 世界に水ありいふのみにあらず、水界に世界あり。水中のかくのごとくあるのみにあらず、雲中にも有情世界あり、風中にも有情世界あり、火中にも有情世界あり、地中にも有情世界あり。法界中にも有情世界あり、一茎草中にも有情世界あり、一拄杖中にも有情世界あり。有情世界あるがごときは、そのところかならず仏祖世界あり。かくのごとくの道理、よくよく参学すべし。 しかあれば、水はこれ真龍の宮なり、流落にあらず。流のみなりと認ずるは、流のことば、水を謗ずるなり。たとへば非流と強為するがゆゑに。水は水の如是実相のみなり、水是水功徳なり、流にあらず。一水の流を参究し、不流を参究するに、万法の究尽たちまちに現成するなり。 山も宝にかくるる山あり、沢にかくるる山あり、空にかくるる山あり、山にかくるる山あり、蔵に蔵山する参学あり。 古仏云、山是山水是水。 この道取は、やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり。しかあれば、やまを参究すべし、山を参窮すれば山に功夫なり。 かくのごとくの山水、おのづから賢をなし、聖をなすなり。 正法眼蔵 山水経 第二十九 爾時 仁治元年 庚子 十月十八日 于時 在観音導利興聖宝林寺 示衆 |