正 法 眼 蔵 | 都 機 第二十 |
都 機 諸月の円成すること、前のみにあらず、後のみにあらず。円成の諸月なる、前のみにあらず、後のみにあらず。このゆゑに、釈迦牟尼仏言く、仏真法身、猶若虚空。応物現形、如水中月(仏の真法身は、猶ほ虚空の若し。物に応じて形を現はす、水中の月の如し)。いはゆる如水中月の如は水月なるべし。水如、月如、如中、中如なるべし。相似を如と道取するにあらず、如は是なり。仏真法身は虚空の猶若なり。この虚空は、猶若の仏真法身なり。仏真法身なるがゆゑに、尽地尽界、尽法尽現、みづから虚空なり。現成せる百草万像の猶若なる、しかしながら仏真法身なり、如水如月なり。月のときはかならず夜にあらず、夜かならずしも暗にあらず。ひとへに人間の小量にかかはることなかれ。日月なきところにも昼夜あるべし、日月は昼夜のためにあらず。日月ともに如なるがゆゑに、一月両月にあらず、千月万月にあらず。月の自己、たとひ一月両月の見解を保任すといふとも、これは月の見解なり、かならずしも仏道の道取にあらず、仏道の知見にあらず。しかあれば、昨夜たとひ月ありといふとも、今夜の月は昨月にあらず、今夜の月は初中後ともに今夜の月なりと参究すべし。月は月に相嗣するがゆゑに、月ありといへども新旧にあらず。 盤山宝積禅師云、心月孤円、光呑万象。光非照境、境亦非存。光境倶亡、復是何物(心月孤円、光、万象を呑めり。光、境を照らすに非ず、境亦た存ずるに非ず。光境倶に亡ず、復た是れ何物ぞ)。 いまいふところは、仏祖仏子、かならず心月あり。月を心とせるがゆゑに。月にあらざれば心にあらず、心にあらざる月なし。孤円といふは、虧闕せざるなり。両参にあらざるを万象といふ。万象これ月光にして万象にあらず。このゆゑに光呑万象なり。万象おのづから月光を呑尽せるがゆゑに、光の光を呑却するを、光呑万象といふなり。たとへば、月呑月なるべし、光呑月なるべし。ここをもて、光非照境、境亦非存と道取するなり。得恁麼なるゆゑに、応以仏身得度者のとき、即現仏身而為説法なり。応以普現色身得度者のとき、即現普現色身而為説法なり。これ月中の転法輪にあらずといふことなし。たとひ陰精陽精の光象するところ、火珠水珠の所成なりとも、即現現成なり。この心すなはち月なり、この月おのづから心なり。仏祖仏子の心を究理究事すること、かくのごとし。 古仏いはく、一心一切法、一切法一心。 しかあれば、心は一切法なり、一切法は心なり。心は月なるがゆゑに、月は月なるべし。心なる一切法、これことごとく月なるがゆゑに、遍界は遍月なり。通身ことごとく通月なり。たとひ直須万年の前後、いづれか月にあらざらん。いまの身心依正なる日面仏月面仏、おなじく月中なるべし。生死去来ともに月にあり。尽十方界は月中の上下左右なるべし。いまの日用、すなはち月中の明明百草頭なり、月中の明明祖師心なり。 舒州投子山慈濟大師、因僧問、月未円時如何(月未円なる時、如何)。 師云、呑却箇四箇(箇四箇を呑却す)。 僧云、円後如何(円なる後、如何)。 師云、吐却七箇八箇(七箇八箇を吐却す)。 いま参究するところは、未円なり、円後なり、ともにそれ月の造次なり。月に箇四箇あるなかに、未円の一枚あり。月に七箇八箇あるなかに、円後の一枚あり。呑却は参箇四箇なり。このとき、月未円時の見成なり。吐却は七箇八箇なり。このとき、円後の見成なり。月の月を呑却するに、箇四箇なり。呑却に月ありて現成す、月は呑却の見成なり。月の月を吐却するに、七箇八箇あり。吐却に月ありて現成す。月は吐却の現成なり。このゆゑに、呑却尽なり、吐却尽なり。尽地尽天吐却なり、蓋天蓋地呑却なり。呑自呑他すべし、吐自吐他すべし。 釈迦牟尼仏告金剛蔵菩薩言、譬如動目能搖湛水、又如定眼猶廻転火。雲駛月運、舟行岸移、亦復如是(釈迦牟尼仏、金剛蔵菩薩に告げて言はく、譬へば動目の能く湛水を搖がすが如く、又、定眼のなほ火を廻転せしむるが如し。雲駛れば月運り、舟行けば岸移る、亦復是の如し)。 いま仏演説の雲駛月運、舟行岸移、あきらめ参究すべし。倉卒に学すべからず、凡情に順ずべからず。しかあるに、この仏説を仏説のごとく見聞するものまれなり。もしよく仏説のごとく学習するといふは、円覚かならずしも身心にあらず、菩提涅槃にあらず、菩提涅槃かならずしも円覚にあらず、身心にあらざるなり。 いま如来道の雲駛月運、舟行岸移は、雲駛のとき、月運なり。舟行のとき、岸移なり。 いふ宗旨は、雲と月と、同時同道して同歩同運すること、始終にあらず、前後にあらず。舟と岸と、同時同道して同歩同運すること、起止にあらず、流転にあらず。たとひ人の行を学すとも、人の行は起止にあらず、起止の行は人にあらざるなり。起止を挙揚して人の行に比量することなかれ。雲の駛も月の運も、舟の行も岸の移も、みなかくのごとし。おろかに小量の見に局量することなかれ。雲の駛は東西南北をとはず、月の運は昼夜古今に休息なき宗旨、わすれざるべし。舟の行および岸の移、ともに世にかかはれず、よく世を使用するものなり。このゆゑに、直至如今飽不飢(直に如今に至るまで飽いて飢ゑず)なり。 しかあるを、愚人おもはくは、雲のはしるによりて、うごかざる月をうごくとみる、舟のゆくによりて、うつらざる岸をうつるとみゆると見解せり。もし愚人のいふがごとくならんは、いかでか如来の道ならん。仏法の宗旨、いまだ人天の小量にあらず。ただ不可量なりといへども、随機の修行あるのみなり。たれか舟岸を再撈摝せざらん、たれか雲月を急著眼看せざらん。 しるべし、如来道は、雲を什麼法に譬せず、月を什麼法に譬せず、舟を什麼法に譬せず、岸を什麼法に譬せざる道理、しづかに功夫参究すべきなり。月の一歩は如来の円覚なり、如来の円覚は月の運為なり。動止にあらず、進退にあらず。すでに月運は譬喩にあらざれば、孤円の性相なり。 しるべし、月の運度はたとひ駛なりとも、初中後にあらざるなり。このゆゑに第一月、第二月あるなり。第一、第二、おなじくこれ月なり。正好修行これ月なり、正好供養これ月なり、払袖便行これ月なり。円尖は去来の輪転にあらざるなり。去来輪転を使用し、使用せず、放行し、把定し、逞風流するがゆゑに、かくのごとくの諸月なるなり。 正法眼蔵都機第二十 仁治癸卯端月六日書于観音導利興聖宝林寺 沙門 寛元癸卯解制前日書寫之 懐弉 |