正 法 眼 蔵 | 仏 性 第三 |
仏 性 釈迦牟尼仏言、一切衆生 悉有仏性 如来常住 無有変易。 これ、われらが大師釈尊の師子吼の転法輪なりといへども、一切諸仏 一切祖師の頂額眼睛なり。参学しきたること、すでに二千一百九十年(当日本仁治二年辛丑歳)正嫡わづかに五十代(至先師天童浄和尚)、西天二十八代、代代住持しきたり、東地二十三世、世世住持しきたる。十方の仏祖、ともに住持せり。 世尊の道ふ一切衆生 悉有仏性、その宗旨いかん。是什麼物恁麼来の道転法輪なり。あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ。 悉有の言は衆生なり、群有也。すなはち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。単伝する皮肉骨髄のみにあらず、汝得吾皮肉骨髄なるがゆゑに。 しるべし、いま仏性に悉有せらるる有は、有無の有にあらず。悉有は仏語なり、仏舌なり。仏祖眼睛なり、衲僧鼻孔なり。悉有の言、さらに始有にあらず、本有にあらず、妙有等にあらず、いはんや縁有妄有ならんや。心境性相等にかかはれず。しかあればすなはち、衆生悉有の依正、しかしながら業増上力にあらず、妄縁起にあらず、法爾にあらず、神通修証にあらず。もし衆生の悉有、それ業増上および縁起法爾等ならんには、諸聖の証道および諸仏の菩提、仏祖の眼睛も、業増上力および縁起法爾なるべし。しかあらざるなり。尽界はすべて客塵なし、直下さらに第二人あらず、直截根源人未識、忙忙業識幾時休なるがゆゑに。妄縁起の有にあらず、徧界不曽蔵のゆゑに。徧界不曽蔵といふは、かならずしも満界是有といふにあらざるなり。徧界我有は外道の邪見なり。本有の有にあらず、亙古亙今のゆゑに。始起の有にあらず、不受一塵のゆゑに。條條の有にあらず、合取のゆゑに。無始有の有にあらず、是什麼物恁麼来のゆゑに。始起有の有にあらず、吾常心是道のゆゑに。まさにしるべし、悉有中に衆生快便難逢なり。悉有を会取することかくのごとくなれば、悉有それ透体脱落なり。 仏性の言をききて、学者おほく先尼外道の我のごとく邪計せり。それ、人にあはず、自己にあはず、師をみざるゆゑなり。いたづらに風火の動著する心意識を仏性の覚知覚了とおもへり。たれかいふ、仏性に覚知覚了ありと。覚者知者はたとひ諸仏なりとも、仏性は覚知覚了にあらざるなり。いはんや諸仏を覚者知者といふ覚知は、なんだちが云云の邪解を覚知とせず、風火の動静を覚知とするにあらず、ただ一両の仏面祖面、これ覚知なり。 往往に古老先徳、あるいは西天に往還し、あるいは人天を化導する、漢唐より宋朝にいたるまで、稻麻竹葦のごとくなる、おほく風火の動著を仏性の知覚とおもへる、あはれむべし、学道転疎なるによりて、いまの失誤あり。いま仏道の晩学初心、しかあるべからず。たとひ覚知を学習すとも、覚知は動著にあらざるなり。たとひ動著を学習すとも、動著は恁麼にあらざるなり。もし真箇の動著を会取することあらば、真箇の覚知覚了を会取すべきなり。仏と性と、彼に達し、此に達すなり。仏性かならず悉有なり、悉有は仏性なるがゆゑに。悉有は百雑砕にあらず、悉有は一條鉄にあらず。拈拳頭なるがゆゑに大小にあらず。すでに仏性といふ、諸聖と齊肩なるべからず、仏性と齊肩すべからず。 ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし。法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長し、枝葉花果もすことあり。果実さらに種子をはらめり。かくのごとく見解する、凡夫の情量なり。たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに條條の赤心なりと参究すべし。果裏に種子あり、種子みえざれども根茎等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝條大圍となれる、内外の論にあらず、古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉みな同生し同死し、同悉有なる仏性なるべし。 仏言はく、仏性の義を知らんと欲はば、まさに時節の因縁を観ずべし。時節若し至れば、仏性現前す。 いま仏性義をしらんとおもはばといふは、ただ知のみにあらず、行ぜんとおもはば、証せんとおもはば、とかんとおもはばとも、わすれんとおもはばともいふなり。かの説、行、証、忘、錯、不錯等も、しかしながら時節の因縁なり。時節の因縁を観ずるには、時節の因縁をもて観ずるなり、払子拄杖等をもて相観するなり。さらに有漏智、無漏智、本覚、始覚、無覚、正覚等の智をもちゐるには観ぜられざるなり。 当観といふは、能観所観にかかはれず、正観邪観等に準ずべきにあらず、これ当観なり。当観なるがゆゑに不自観なり、不他観なり、時節因縁漸なり、超越因縁なり。仏性漸なり、脱体仏性なり。仏仏漸なり、性性漸なり。 時節若至の道を、古今のやから往往におもはく、仏性の現前する時節の向後にあらんずるをまつなりとおもへり。かくのごとく修行しゆくところに、自然に仏性現前の時節にあふ。時節いたらざれば、参師問法するにも、弁道功夫するにも、現前せずといふ。恁麼見取して、いたづらに紅塵にかへり、むなしく雲漢をまぼる。かくのごとくのたぐひ、おそらくは天然外道の流類なり。いはゆる欲知仏性義は、たとへば当知仏性義といふなり。当観時節因縁といふは、当知時節因縁といふなり。いはゆる仏性をしらんとおもはば、しるべし、時節因縁これなり。時節若至といふは、すでに時節いたれり、なにの疑著すべきところかあらんとなり。疑著時節さもあらばあれ、還我仏性来なり。しるべし、時節若至は、十二時中不空過なり。若至は、既至といはんがごとし。時節若至すれば、仏性不至なり。しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり。あるいは其理自彰なり、おほよそ時節の若至せざる時節いまだあらず、仏性の現前せざる仏性あらざるなり。 第十二祖馬鳴尊者、第十三祖のために仏性海をとくにいはく、 山河大地、皆依建立、三昧六通、由茲発現。 しかあれば、この山河大地、みな仏性海なり。皆依建立といふは、建立せる正当恁麼時、これ山河大地なり。すでに皆依建立といふ、しるべし、仏性海のかたちはかくのごとし。さらに内外中間にかかはるべきにあらず。恁麼ならば、山河をみるは仏性をみるなり、仏性をみるは驢腮馬觜をみるなり。皆依は全依なり、依全なりと会取し不会取するなり。 三昧六通由茲発現。しるべし、諸三昧の発現来現、おなじく皆依仏性なり。全六通の由茲不由茲、ともに皆依仏性なり。六神通はただ阿笈摩教にいふ六神通にあらず。六といふは、前三三後三三を六神通波羅蜜といふ。しかあれば、六神通は明明百草頭、明明仏祖意なりと参究することなかれ。六神通に滞累せしむといへども、仏性海の朝宗に罣礙するものなり。 五祖大満禅師、蘄州黄梅人也。無父而生、童兒得道、乃栽松道者也。初在蘄州西山栽松、遇四祖出遊。告道者、吾欲伝法与汝、汝已年邁、若待汝再来、吾尚遅汝。 師、諾す。遂に周氏家の女に往いて托生す。因みに濁港の中に抛つ。神物護持して七日損せず。因みに收りて養へり。七歳に至るまで童兒たり、黄梅路上に四祖大医禅師に逢ふ。祖、師を見るに、是れ小兒なりと雖も、骨相奇秀、常の童に異なり。 祖見問して曰はく、汝何なる姓ぞ。 師答ふて曰く、姓は即ち有り、是れ常の姓にあらず。 祖曰、是れ何なる姓ぞ。 祖師答曰、是れ仏性。 祖曰、汝に仏性無し。 師答曰、仏性空なる故に、所以に無と言ふ。 祖、其の法器なるを識つて、侍者たらしめて、後に正法眼蔵を付す。黄梅東山に居して、大きに玄風を振ふ。 しかあればすなはち、祖師の道取を参究するに、四祖いはく、汝何性は、その宗旨あり。むかしは何国人の人あり、何姓の姓あり。なんぢは何姓と為説するなり。たとへば吾亦如是、汝亦如是と道取するがごとし。 五祖いはく、姓即有、不是常姓。 いはゆるは、有即姓は常姓にあらず、常姓は即有に不是なり。 四祖いはく是何姓は、何は是なり、是を何しきたれり。これ姓なり。何ならしむるは是のゆゑなり。是ならしむるは何の能なり。姓は是也、何也なり。これを蒿湯にも点ず、茶湯にも点ず、家常の茶飯ともするなり。 五祖いはく、是仏性。 いはくの宗旨は、是は仏性なりとなり。何のゆゑに仏なるなり。是は何姓のみに究取しきたらんや、是すでに不是のとき仏性なり。しかあればすなはち是は何なり、仏なりといへども、脱落しきたり、透脱しきたるに、かならず姓なり。その姓すなはち周なり。しかあれども、父にうけず祖にうけず、母氏に相似ならず、傍観に齊肩ならんや。 四祖いはく、汝無仏性。 いはゆる道取は、汝はたれにあらず、汝に一任すれども、無仏性なりと開演するなり。しるべし、学すべし、いまはいかなる時節にして無仏性なるぞ。仏頭にして無仏性なるか、仏向上にして無仏性なるか。七通を逼塞することなかれ、八達を摸索することなかれ。無仏性は一時の三昧なりと修習することもあり。仏性成仏のとき無仏性なるか、仏性発心のとき無仏性なるかと問取すべし、道取すべし。露柱をしても問取せしむべし、露柱にも問取すべし、仏性をしても問取せしむべし。 しかあればすなはち、無仏性の道、はるかに四祖の祖室よりきこゆるものなり。黄梅に見聞し、趙州に流通し、大潙に挙揚す。無仏性の道、かならず精進すべし、趑趄することなかれ。無仏性たどりぬべしといへども、何なる標準あり、汝なる時節あり、是なる投機あり、周なる同生あり、直趣なり。 五祖いはく、仏性空故、所以言無。 あきらかに道取す、空は無にあらず。仏性空を道取するに、半斤といはず、八両といはず、無と言取するなり。空なるゆゑに空といはず、無なるゆゑに無といはず、仏性空なるゆゑに無といふ。しかあれば、無の片片は空を道取する標榜なり、空は無を道取する力量なり。いはゆるの空は、色即是空の空にあらず。色即是空といふは、色を強為して空とするにあらず、空をわかちて色を作家せるにあらず。空是空の空なるべし。空是空の空といふは、空裏一片石なり。 しかあればすなはち、仏性無と仏性空と仏性有と、四祖五祖、問取道取。 震旦第六祖曹谿山大鑑禅師、そのかみ黄梅山に参ぜしはじめ、五祖とふ、なんぢいづれのところよりかきたれる。 六祖いはく、嶺南人なり。 五祖いはく、きたりてなにごとをかもとむる。 六いはく、作仏をもとむ。 五祖いはく、嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん。 この嶺南人無仏性といふ、嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありといふにあらず、嶺南人、無仏性となり。いかにしてか作仏せんといふは、いかなる作仏をか期するといふなり。 おほよそ仏性の道理、あきらむる先達すくなし。諸阿笈摩教および経論師のしるべきにあらず。 仏祖の兒孫のみ単伝するなり。仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり。この道理、よくよく参究功夫すべし。三二十年も功夫参学すべし。十聖三賢のあきらむるところにあらず。衆生有仏性、衆生無仏性と道取する、この道理なり。成仏以来に具足する法なりと参学する正的なり。かくのごとく学せざるは仏法にあらざるべし。かくのごとく学せずば、仏法あへて今日にいたるべからず。もしこの道理あきらめざるには、成仏をあきらめず、見聞せざるなり。このゆゑに、五祖は向他道するに、嶺南人無仏性と為道するなり。見仏聞法の最初に、難得難聞なるは、衆生無仏性なり。或従知識、或従経巻するに、きくことのよろこぶべきは衆生無仏性なり。一切衆生無仏性を、見聞覚知に参飽せざるものは、仏性いまだ見聞覚知せざるなり。六祖もはら作仏をもとむるに、五祖よく六祖を作仏せしむるに、他の道取なし、善巧なし。ただ嶺南人無仏性といふ。しるべし、無仏性の道取聞取、これ作仏の直道なりといふことを。しかあれば、無仏性の正当恁麼時すなはち作仏なり。無仏性いまだ見聞せず、道取せざるは、いまだ作仏せざるなり。 六祖いはく、人有南北なりとも、仏性無南北なり。この道取を挙して、句裏を功夫すべし。南北の言、まさに赤心に照顧すべし。六祖道得の句に宗旨あり。いはゆる人は作仏すとも、仏性は作仏すべからずといふ一隅の搆得あり。六祖これをしるやいなや。 四祖五祖の道取する無仏性の道得、はるかに得礙の力量ある一隅をうけて、迦葉仏および釈迦牟尼仏等の諸仏は、作仏し転法するに、悉有仏性と道取する力量あるなり。悉有の有、なんぞ無無の無に嗣法せざらん。しかあれば、無仏性の語、はるかに四祖五祖の室よりきこゆるなり。このとき、六祖その人ならば、この無仏性の語を功夫すべきなり。有無の無はしばらくおく、いかならんかこれ仏性と問取すべし、なにものかこれ仏性とたづぬべし。いまの人も、仏性とききぬれば、いかなるかこれ仏性と問取せず、仏性の有無等の義をいふがごとし、これ倉卒なり。しかあれば、諸無の無は、無仏性の無に学すべし。六祖の道取する人有南北、仏性無南北の道、ひさしく再三撈摝すべし、まさに撈波子に力量あるべきなり。六祖の道取する人有南北仏性無南北の道、しづかに拈放すべし。おろかなるやからおもはくは、人間には質礙すれば南北あれども、仏性は虚融にして南北の論におよばずと、六祖は道取せりけるかと推度するは、無分の愚蒙なるべし。この邪解を抛却して、直須勤学すべし。 六祖、門人行昌に示して云く、無常は即ち仏性なり、有常は即ち善悪一切諸法分別心なり。 いはゆる六祖道の無常は、外道二乗等の測度にあらず。二乗外道の鼻祖鼻末、それ無常なりといふとも、かれら窮尽すべからざるなり。しかあれば、無常のみづから無常を説著、行著、証著せんは、みな無常なるべし。今、自身を現ずるを以て得度すべき者には、即ち自身を現じて而も為に法を説くなり、これ仏性なり。さらに或現長法身、或現短法身なるべし。常聖これ無常なり、常凡これ無常なり。常凡聖ならんは、仏性なるべからず。小量の愚見なるべし、測度の管見なるべし。仏者小量身也、性者小量作也。このゆゑに六祖道取す、無常は仏性なり。 常者未転なり。未転といふは、たとひ能断と変ずとも、たとひ所断と化すれども、かならずしも去来の蹤跡にかかはれず、ゆゑに常なり。 しかあれば、草木叢林の無常なる、すなはち仏性なり。人物身心の無常なる、これ仏性なり。 国土山河の無常なる、これ仏性なるによりてなり。阿耨多羅三藐三菩提これ仏性なるがゆゑに無常なり、大般涅槃これ無常なるがゆゑに仏性なり。もろもろの二乗の小見および経論師の三蔵等は、この六祖の道を驚疑怖畏すべし。もし驚疑せんことは、魔外の類なり。 第十四祖龍樹尊者、梵に那伽閼刺樹那と云ふ。唐には龍樹また龍勝と云ふ、また龍猛と云ふ。 西天竺国の人なり。南天竺国に至る。彼の国の人、多く福業を信ず。尊者、為に妙法を説く。 聞く者、逓相に謂つて曰く、人の福業有る、世間第一なり。徒らに仏性を言ふ、誰か能く之を覩たる。 尊者曰、汝仏性を見んと欲はば、先づ須らく我慢を除くべし。 彼人曰、仏性大なりや小なりや。 尊者曰く、仏性大に非ず小に非ず、広に非ず狹に非ず、福無く報無く、不死不生なり。 彼、理の勝たることを聞いて、悉く初心を廻らす。 尊者、また坐上に自在身を現ずること、満月輪の如し。一切衆会、唯法音のみを聞いて、師相を覩ず。 彼の衆中に、長者子迦那提婆といふもの有り、衆会に謂ひて曰く、此の相を識るや否や。 衆会曰く、而今我等目に未だ見ざる所、耳に聞く所無く、心に識る所無く、身に住する所無し。 提婆曰く、此れは是れ尊者、仏性の相を現して、以て我等に示す。何を以てか之を知る。蓋し、無相三昧は形満月の如くなるを以てなり。仏性の義は廓然虚明なり 言ひ訖るに、輪相即ち隱る。また本座に居して、偈を説いて言く、 身に円月相を現じ、以て諸仏の体を表す、説法其の形無し、用辯は声色に非ず。 しるべし、真箇の用辯は声色の即現にあらず。真箇の説法は無其形なり。尊者かつてひろく仏性を為説する、不可数量なり。いまはしばらく一隅を略挙するなり。 汝欲見仏性、先須除我慢。この為説の宗旨、すごさず弁肯すべし。見はなきにあらず、その見これ除我慢なり。我もひとつにあらず、慢も多般なり、除法また万差なるべし。しかあれども、これらみな見仏性なり。眼見目覩にならふべし。 仏性非大非小等の道取、よのつねの凡夫二乗に例諸することなかれ。偏枯に仏性は広大ならんとのみおもへる、邪念をたくはへきたるなり。大にあらず小にあらざらん正当恁麼時の道取に罣礙せられん道理、いま聴取するがごとく思量すべきなり。思量なる聴取を使得するがゆゑに。 しばらく尊者の道著する偈を聞取すべし、いはゆる身現円月相、以表諸仏体なり。すでに諸仏体を以表しきたれる身現なるがゆゑに円月相なり。しかあれば、一切の長短方円、この身現に学習すべし。身と現とに転疎なるは、円月相にくらきのみにあらず、諸仏体にあらざるなり。愚者おもはく、尊者かりに化身を現ぜるを円月相といふとおもふは、仏道を相承せざる党類の邪念なり。いづれのところのいづれのときか、非身の他現ならん。まさにしるべし、このとき尊者は高座せるのみなり。身現の儀は、いまのたれ人も坐せるがごとくありしなり。この身、これ円月相現なり。身現は方円にあらず、有無にあらず、隱顯にあらず、八万四千蘊にあらず、ただ身現なり。円月相といふ、這裏是れ甚麼の処在ぞ、細と説き、麤と説く月なり。この身現は、先須除我慢なるがゆゑに、龍樹にあらず、諸仏体なり。以表するがゆゑに諸仏体を透脱す。しかあるがゆゑに、仏辺にかかはれず。仏性の満月を形如する虚明ありとも、円月相を排列するにあらず。いはんや用辯も声色にあらず、身現も色身にあらず、蘊処界にあらず。蘊処界に一似なりといへども以表なり、諸仏体なり。これ説法蘊なり、それ無其形なり。無其形さらに無相三昧なるとき身現なり。一衆いま円月相を望見すといへども、目所未見なるは、説法蘊の転機なり、現自在身の非声色なり。即隱、即現は、輪相の進歩退歩なり。復於座上現自在身の正当恁麼時は、一切衆会、唯聞法音するなり、不覩師相なるなり。 尊者の嫡嗣迦那提婆尊者、あきらかに満月相を識此し、円月相を識此し、身現を識此し、諸仏性を識此し、諸仏体を識此せり。入室瀉缾の衆たとひおほしといへども、提婆と齊肩ならざるべし。提婆は半座の尊なり、衆会の導師なり、全座の分座なり。正法眼蔵無上大法を正伝せること、霊山に摩訶迦葉尊者の座元なりしがごとし。龍樹未廻心のさき、外道の法にありしときの弟子おほかりしかども、みな謝遣しきたれり。龍樹すでに仏祖となれりしときは、ひとり提婆を附法の正嫡として、大法眼蔵を正伝す。これ無上仏道の単伝なり。しかあるに、僭偽の邪群、ままに自称すらく、われらも龍樹大士の法嗣なり。論をつくり義をあつむる、おほく龍樹の手をかれり、龍樹の造にあらず。むかしすてられし群徒の、人天を惑乱するなり。仏弟子はひとすぢに、提婆の所伝にあらざらんは、龍樹の道にあらずとしるべきなり。これ正信得及なり。しかあるに、偽なりとしりながら稟受するものおほかり。謗大般若の衆生の愚蒙、あはれみかなしむべし。 迦那提婆尊者、ちなみに龍樹尊者の身現をさして衆会につげていはく、此れは是れ尊者、仏性の相を現じて、以て我等に示すなり。何を以てか之れを知る。蓋し、無相三昧は形満月の如くなるを以てなり。仏性の義は、廓然として虚明なり。 いま天上人間、大千法界に流布せる仏法を見聞せる前後の皮袋、たれか道取せる、身現相は仏性なりと。大千界にはただ提婆尊者のみ道取せるなり。余者はただ、仏性は眼見耳聞心識等にあらずとのみ道取するなり。身現は仏性なりとしらざるゆゑに道取せざるなり。祖師のをしむにあらざれども、眼耳ふさがれて見聞することあたはざるなり。身識いまだおこらずして、了別することあたはざるなり。無相三昧の形如満月なるを望見し礼拝するに、目未所覩なり。 仏性之義、廓然虚明なり。 しかあれば身現の説仏性なる、虚明なり、廓然なり。説仏性の身現なる、以表諸仏体なり。いづれの一仏二仏か、この以表を仏体せざらん。仏体は身現なり、身現なる仏性あり。四大五蘊と道取し会取する仏量祖量も、かへりて身現の造次なり。すでに諸仏体といふ、蘊処界のかくのごとくなるなり。一切の功徳、この功徳なり。仏功徳はこの身現を究尽し、嚢括するなり。一切無量無辺の功徳の往来は、この身現の一造次なり。 しかあるに、龍樹提婆師資よりのち、三国の諸方にある前代後代、ままに仏学する人物、いまだ龍樹提婆のごとく道取せず。いくばくの経師論師等か、仏祖の道を蹉過する。大宋国むかしよりこの因縁を画せんとするに、身に画し心に画し、空に画し、壁に画することあたはず、いたづらに筆頭に画するに、法座上に如鏡なる一輪相を図して、いま龍樹の身現円月相とせり。すでに数百歳の霜華も開落して、人眼の金屑をなさんとすれども、あやまるといふ人なし。あはれむべし、万事の蹉跎たることかくのごときなる。もし身現円月相は一輪相なりと会取せば、真箇の画餅一枚なり。弄他せん、笑也笑殺人なるべし。かなしむべし、大宋一国の在家出家、いづれの一箇も、龍樹のことばをきかずしらず、提婆の道を通ぜずみざること。いはんや身現に親切ならんや。円月にくらし、満月を虧闕せり。これ稽古のおろそかなるなり、慕古いたらざるなり。古仏新仏、さらに真箇の身現にあうて、画餅を賞翫することなかれ。 しるべし、身現円月相の相を画せんには、法座上に身現相あるべし。揚眉瞬目それ端直なるべし。皮肉骨髄正法眼蔵、かならず兀坐すべきなり。破顔微笑つたはるべし、作仏作祖するがゆゑに。この画いまだ月相ならざるには、形如なし、説法せず、声色なし、用辯なきなり。もし身現をもとめば、円月相を図すべし。円月相を図せば、円月相を図すべし、身現円月相なるがゆゑに。円月相を画せんとき、満月相を図すべし、満月相を現すべし。しかあるを、身現を画せず、円月を画せず、満月相を画せず、諸仏体を図せず、以表を体せず、説法を図せず、いたづらに画餅一枚を図す、用て什麼にか作ん。これを急著眼看せん、たれか直至如今飽不飢ならん。月は円形なり、円は身現なり。円を学するに一枚銭のごとく学することなかれ、一枚餅に相似することなかれ。身相円月身なり、形如満月形なり。一枚銭、一枚餅は、円に学習すべし。 予、雲遊のそのかみ、大宋国にいたる、嘉定十六年癸未秋のころ、はじめて阿育王山広利禅寺にいたる。西廊の壁間に、西天東地三十三祖の変相を画せるをみる。このとき領覽なし。のちに悪慶元年乙酉夏安居のなかに、かさねていたるに、西蜀の成桂知客と、廊下を行歩するついでに、 予、知客にとふ。這箇は是れ什麼の変相ぞ。 知客いはく、龍樹の身現円月相なり。かく道取する顔色に鼻孔なし、声裏に語句なし。 予いはく、真箇に是れ一枚の画餅に相似せり。 ときに知客、大笑すといへども、笑裏に刀無く、画餅を破すること不得なり。 すなはち知客と予と、舍利殿および六殊勝地等にいたるあひだ、数番挙揚すれども、疑著するにもおよばず。おのづから下語する僧侶も、おほく都不是なり。 予いはく、堂頭にとふてみん。ときに堂頭は大光和尚なり。 知客いはく、他は鼻孔無し、対へ得じ。如何でか知ることを得ん。 ゆゑに光老にとはず。恁麼道取すれども、桂兄も会すべからず。聞説する皮袋も道取せるなし。前後の粥飯頭みるにあやしまず、あらためなほさず。又、画することうべからざらん法はすべて画せざるべし。画すべくは端直に画すべし。しかあるに、身現の円月相なる、かつて画せるなきなり。 おほよそ仏性は、いまの慮知念覚ならんと見解することさめざるによりて、有仏性の道にも、無仏性の道にも、通達の端を失せるがごとくなり。道取すべきと学習するもまれなり。しるべし、この疎怠は癈せるによりてなり。諸方の粥飯頭、すべて仏性といふ道得を、一生いはずしてやみぬるもあるなり。あるいはいふ、聴教のともがら仏性を談ず、参禅の雲衲はいふべからず。かくのごとくのやからは、真箇是畜生なり。なにといふ魔党の、わが仏如来の道にまじはりけがさんとするぞ。聴教といふことの仏道にあるか、参禅といふことの仏道にあるか。いまだ聴教参禅といふこと、仏道にはなしとしるべし。 杭州鹽官縣齊安国師は、馬祖下の尊宿なり。ちなみに衆にしめしていはく、一切衆生有仏性。 いはゆる一切衆生の言、すみやかに参究すべし。一切衆生、その業道依正ひとつにあらず、その見まちまちなり。凡夫外道、三乗五乗等、おのおのなるべし。いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆゑに。無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆゑに。しかあれば、心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。日月星辰これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。国師の道取する有仏性、それかくのごとし。もしかくのごとくにあらずは、仏道に道取する有仏性にあらざるなり。いま国師の道取する宗旨は、一切衆生有仏性のみなり。さらに衆生にあらざらんは、有仏性にあらざるべし。しばらく国師にとふべし、一切諸仏、有仏性なりや也無や。かくのごとく問取し、試験すべきなり。一切衆生即仏性といはず、一切衆生、有仏性といふと参学すべし。有仏性の有、まさに脱落すべし。脱落は一條鉄なり、一條鉄は鳥道なり。しかあれば、一切衆生有衆生なり。これその道理は、衆生を説透するのみにあらず、仏性をも説透するなり。国師たとひ会得を道得に承当せずとも、承当の期なきにあらず。今日の道得、いたづらに宗旨なきにあらず。又、自己に具する道理、いまだかならずしもみづから会得せざれども、四大五陰もあり、皮肉骨髄もあり。しかあるがごとく、道取も、一生に道取することもあり、道取にかかれる生生もあり。 大潙山大円禅師、あるとき衆にしめしていはく、一切衆生無仏性。 これをきく人天のなかに、よろこぶ大機あり、驚疑のたぐひなきにあらず。釈尊説道は一切衆生悉有仏性なり、大潙の説道は一切衆生無仏性なり。有無の言理、はるかにことなるべし、道得の当不、うたがひぬべし。しかあれども、一切衆生無仏性のみ仏道に長なり。鹽官有仏性の道、たとひ古仏とともに一隻の手をいだすににたりとも、なほこれ一條拄杖両人舁なるべし。 いま大潙はしかあらず、一條拄杖呑両人なるべし。いはんや国師は馬祖の子なり、大潙は馬祖の孫なり。しかあれども、法孫は、師翁の道に老大なり、法子は、師父の道に年少なり。いま大潙道の理致は、一切衆生無仏性を理致とせり。いまだ曠然縄墨外といはず。自家屋裏の経典、かくのごとくの受持あり。さらに摸索すべし、一切衆生なにとしてか仏性ならん、仏性あらん。 もし仏性あるは、これ魔党なるべし。魔子一枚を将来して、一切衆生にかさねんとす。仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり。衆生もとより仏性を具足せるにあらず。たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる宗旨なり。張公酒を喫すれば李公酔ふといふことなかれ。もしおのづから仏性あらんは、さらに衆生あらず。すでに衆生あらんは、つひに仏性にあらず。 このゆゑに百丈いはく、衆生に仏性有りと説くもまた仏法僧を謗ず。衆生に仏性無しと説くもまた仏法僧を謗ずるなり。しかあればすなはち、有仏性といひ無仏性といふ、ともに謗となる。謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず。 且問你、大潙、百丈しばらくきくべし。謗はすなはちなきにあらず、仏性は説得すやいまだしや。たとひ説得せば、説著を罣礙せん。説著あらば聞著と同参なるべし。また、大潙にむかひていふべし。一切衆生無仏性はたとひ道得すといふとも、一切仏性無衆生といはず、一切仏性無仏性といはず、いはんや一切諸仏無仏性は夢にもまた未だ見ざること在るなり。試みに挙げて看よ。 百丈山大智禅師、衆に示して云く、仏は是れ最上乗なり、是れ上上智なり。是れ仏道立此人なり、是れ仏有仏性なり、是れ導師なり。是れ使得無所礙風なり、是れ無礙慧なり。於後能く因果を使得す、福智自由なり。是れ車となして因果を運載す。生に処して生に留められず、死に処して死に礙へられず、五陰に処して門の開るが如し。五陰に礙へられず、去住自由にして、出入無難なり。若し能く恁麼なれば、階梯勝劣を論ぜず、乃至蟻子之身も、但能く恁麼ならば、尽く是れ浄妙国土、不可思議なり。 これすなはち百丈の道処なり。いはゆる五蘊は、いまの不壊身なり。いまの造次は門開なり、不被五陰礙なり。生を使得するに生にとどめられず、死を使得するに死にさへられず。いたづらに生を愛することなかれ、みだりに死を恐怖することなかれ。すでに仏性の処在なり、動著し厭却するは外道なり。現前の衆縁と認ずるは使得無礙風なり。これ最上乗なる是仏なり。この是仏の処在、すなはち浄妙国土なり。 黄檗南泉の茶堂の内に在つて坐す。南泉、黄檗に問ふ、定慧等学、明見仏性。此の理如何。 黄檗云、十二時中一物にも依倚せずして始得ならん。 南泉云く、便ち是れ長老の見処なることなきや。 黄檗曰く、不敢。 南泉云、醤水銭は且く致く、草鞋銭は什麼人をしてか還さしめん。 黄檗便ち休す。 いはゆる定慧等学の宗旨は、定学の慧学をさへざれば、等学するところに明見仏性のあるにはあらず、明見仏性のところに、定慧等学の学あるなり。此理如何と道取するなり。たとへば、明見仏性はたれか所作なるぞと道取せんもおなじかるべし。仏性等学、明見仏性、此理如何と道取せんも道得なり。 黄檗いはく、十二時中不依倚一物といふ宗旨は、十二時中たとひ十二時中に処在せりとも、不依倚なり。不依倚一物、これ十二時なるがゆゑに仏性明見なり。この十二時中、いづれの時節到来なりとかせん、いづれの国土なりとかせん。いまいふ十二時は、人間の十二時なるべきか、他那裏に十二時のあるか、白銀世界の十二時のしばらくきたれるか。たとひ此土なりとも、たとひ他界なりとも、不依倚なり。すでに十二時中なり、不依倚なるべし。 莫便是長老見処麼といふは、これを見処とはいふまじやといふがごとし。長老見処麼と道取すとも、自己なるべしと囘頭すべからず。自己に的当なりとも、黄檗にあらず。黄檗かならずしも自己のみにあらず、長老見処は露廻廻なるがゆゑに。 黄檗いはく、不敢。 この言は、宋土に、おのれにある能を問取せらるるには、能を能といはんとても、不敢といふなり。しかあれば、不敢の道は不敢にあらず。この道得はこの道取なること、はかるべきにあらず。長老見処たとひ長老なりとも、長老見処たとひ黄檗なりとも、道取するには不敢なるべし。一頭の水牯牛出で来りて吽吽と道ふなるべし。かくのごとく道取するは、道取なり。道取する宗旨さらに又道取なる道取、こころみて道取してみるべし。 南泉いはく、醤水銭且致、草鞋銭教什麼人還。 いはゆるは、こんづのあたひはしばらくおく、草鞋のあたひはたれをしてかかへさしめんとなり。 この道取の意旨、ひさしく生生をつくして参究すべし。醤水銭いかなればかしばらく不管なる、留心勤学すべし。草鞋銭なにとしてか管得する。行脚の年月にいくばくの草鞋をか踏破しきたれるとなり。いまいふべし、若し銭を還さずは、未だ草鞋を著かじ。またいふべし、両三輪。この道得なるべし、この宗旨なるべし。 黄檗便休。これは休するなり。不肯せられて休し、不肯にて休するにあらず。本色衲子しかあらず。しるべし休裏有道は、笑裏有刀のごとくなり。これ仏性明見の粥足飯足なり。 この因縁を挙して、潙山、仰山にとうていはく、是れ黄檗他の南泉を搆すること得ざるにあらずや。 仰山いはく、然らず。須く知るべし、黄檗陷虎之機有ることを。 潙山いはく、子見処、子が見処、恁麼に長ずること得たり。 大潙の道は、そのかみ黄檗は南泉を搆不得なりやといふ。 仰山いはく、黄檗は陷虎の機あり。すでに陷虎することあらば、捋虎頭なるべし。 虎を陷れ虎を捋る。異類中に行く。仏性を明見しては一隻眼を開き、仏性明見すれば一隻眼を失す。速やかに道へ、速やかに道へ。仏性の見処、恁麼に長ずることを得たりなり。 このゆゑに、半物全物、これ不依倚なり。百千物、不依倚なり、百千時、不依倚なり。このゆゑにいはく、籮籠は一枚、時中は十二、依倚も不依倚も、葛藤の樹に依が如し。天中と全天と、後頭未だ語あらずなり。 趙州真際大師にある僧とふ、狗子還有仏性也無。 この問の意趣あきらむべし。狗子とはいぬなり。かれに仏性あるべしと問取せず、なかるべしと問取するにあらず。これは、鉄漢また学道するかと問取するなり。あやまりて毒手にあふ、うらみふかしといへども、三十年よりこのかた、さらに半箇の聖人をみる風流なり。 趙州いはく、無。 この道をききて、習学すべき方路あり。仏性の自称する無も恁麼なるべし、狗子の自称する無も恁麼道なるべし、傍観者の喚作の無も恁麼道なるべし。その無わづかに消石の日あるべし。 僧いはく、一切衆生皆仏性有り、狗子甚麼としてか無き。 いはゆる宗旨は、一切衆生無ならば、仏性も無なるべし、狗子も無なるべしといふ、その宗旨作麼生、となり。狗子仏性、なにとして無をまつことあらん。 趙州いはく、他に業識在ること有るが為なり。 この道旨は、為他有は業識なり。業識有、為他有なりとも、狗子無、仏性無なり。業識いまだ狗子を会せず、狗子いかでか仏性にあはん。たとひ雙放雙収すとも、なほこれ業識の始終なり。 趙州有僧問、狗子にまた仏性有りや無や。 この問取は、この僧、搆得趙州の道理なるべし。しかあれば、仏性の道取問取は、仏祖の家常茶飯なり。 趙州いはく、有。 この有の様子は、教家の論師等の有にあらず、有部の論有にあらざるなり。すすみて仏有を学すべし。仏有は趙州有なり、趙州有は狗子有なり、狗子有は仏性有なり。 僧いはく、既に有ならば、甚麼としてか却この皮袋に撞入する。 この僧の道得は、今有なるか、古有なるか、既有なるかと問取するに、既有は諸有に相似せりといふとも、既有は孤明なり。既有は撞入すべきか、撞入すべからざるか。撞入這皮袋の行履、いたづらに蹉過の功夫あらず。 趙州いはく、他、知りて故に犯すが為なり。 この語は、世俗の言語としてひさしく途中に流布せりといへども、いまは趙州の道得なり。いふところは、しりてことさらをかす、となり。この道得は、疑著せざらん、すくなかるべし。いま一字の入あきらめがたしといへども、入之一字も不用得なり。いはんや庵中不死の人を識らんと欲はば、豈只今のこの皮袋を離れんやなり。不死人はたとひ阿誰なりとも、いづれのときか皮袋に莫離なる。故犯はかならずしも入皮袋にあらず、撞入這皮袋かならずしも知而故犯にあらず。知而のゆゑに故犯あるべきなり。しるべし、この故犯すなはち脱体の行履を覆蔵せるならん。これ撞入と説著するなり。説体の行履、その正当覆蔵のとき、自己にも覆蔵し、他人にも覆蔵す。しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢。いはんや、雲居高祖いはく、たとひ仏法辺事を学得する、はやくこれ錯用心了也。 しかあれば、半枚学仏法辺事ひさしくあやまりきたること日深月深なりといへども、これ這皮袋に撞入する狗子なるべし。知而故犯なりとも有仏性なるべし。 長沙景岑和尚の会に、竺尚書とふ、蚯蚓斬れて両段と為る、両頭倶に動く。未審、仏性阿那 箇頭にか在る。 師云く、莫妄想。 書曰く、争奈動何。 師云く、只是風火未散。 いま尚書いはくの蚯蚓斬為両段は、未斬時は一段なりと決定するか。仏祖の家常に不恁麼なり。蚯蚓もとより一段にあらず、蚯蚓きれて両段にあらず。一両の道取、まさに功夫参学すべし。 両頭倶動といふ両頭は、未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか。両頭の語、たとひ尚書の会不会にかかはるべからず、語話をすつることなかれ。きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。その動といふに倶動といふ、定動智拔ともに動なるべきなり。 未審、仏性在阿那箇頭。仏性斬為両段、未審、蚯蚓在阿那箇頭といふべし。この道得は審細にすべし。両頭倶動、仏性在阿那箇頭といふは、倶動ならば仏性の所在に不堪なりといふか。倶動なれば、動はともに動ずといふとも、仏性の所在は、そのなかにいづれなるべきぞといふか。 師いはく、莫妄想。この宗旨は、作麼生なるべきぞ。妄想することなかれ、といふなり。しかあれば、両頭倶動するに、妄想なし、妄想にあらずといふか、ただ仏性は妄想なしといふか。仏性の論におよばず、両頭の論におよばず、ただ妄想なしと道取するか、とも参究すべし。 動ずるはいかがせんといふは、動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと道取するか、動ずれば仏性にあらざらんと道著するか。 風火未散といふは、仏性を出現せしむるなるべし。仏性なりとやせん、風火なりとやせん。仏性と風火と、倶出すといふべからず、一出一不出といふべからず、風火すなはち仏性といふべからず。ゆゑに長沙は蚯蚓有仏性といはず、蚯蚓無仏性といはず。ただ莫妄想と道取す、風火未散と道取す。仏性の活計は、長沙の道を卜度すべし。風火未散といふ言語、しづかに功夫すべし。未散といふは、いかなる道理かある。風火のあつまれりけるが、散ずべき期いまだしきと道取するに、未散といふか。しかあるべからざるなり。風火未散はほとけ法をとく、未散風火は法ほとけをとく。たとへば一音の法をとく時節到来なり。説法の一音なる、到来の時節なり。法は一音なり、一音の法なるゆゑに。 又、仏性は生のときのみにありて、死のときはなかるべしとおもふ、もとも少聞薄解なり。生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり。風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。たとひ散のときも仏性有なるべし、仏性無なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。しかあるを、仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは、外道なり。 無始劫来は、癡人おほく識神を認じて仏性とせり、本来人とせる、笑殺人なり。さらに仏性を道取するに、拕泥滞水なるべきにあらざれども、牆壁瓦礫なり。向上に道取するとき、作麼生ならんかこれ仏性。還委悉麼。 三頭八臂。 正法眼蔵仏性第三 同四年癸卯正月十九日書寫之 懐弉 爾時仁治二年辛丑十月十四日在雍州観音導利興聖悪林寺示衆 再治御本之奥書也 正嘉二年戊午四月二十五日以再治御本交合了 |