<ウィキペディアより抜粋>

法華経

『法華経』(ほけきょう、ほっけきょう)は、初期大乗仏教経典の1つである『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』(梵: सद्धर्मपुण्डरीक सूत्र, Saddharma Puṇḍarīka Sūtra 、「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意)の漢訳での総称。「正法白蓮花経」

 梵語(サンスクリット)原題の意味は、「サッ」(sad)が「正しい」「不思議な」「優れた」、「ダルマ」(dharma)が「法」、「プンダリーカ」(puṇḍarīka)が「清浄な白い蓮華」、「スートラ」(sūtra)が「たて糸:経」であるが、漢訳に当たってこのうちの「白」だけが省略されて、例えば鳩摩羅什訳では『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」、「蓮」が省略された表記が、『法華経』である。「法華経」が「妙法蓮華経」の略称として用いられる場合が多い。
 原題については以上のように説明されてきたが、「プンダリーカ」が複合語の後半にきて、前半の語を譬喩的に修飾するというサンスクリット文法に照らしても、欧米語の訳し方からしても「白蓮華のように〔最も勝れた〕正しい教え」と訳すべきで、白蓮華が象徴する「最も勝れた」と「正しい」という意味を「妙」にこめて鳩摩羅什が「妙法蓮華」と漢訳したということが植木雅俊によって詳細に論じられている。

 漢訳は、部分訳・異本を含めて16種が現在まで伝わっているが、完訳で残存するのは
•『正法華経』10巻26品(竺法護訳、286年、大正蔵263)
•『妙法蓮華経』8巻28品(鳩摩羅什訳、400年、大正蔵262)
•『添品妙法蓮華経』7巻27品(闍那崛多・達磨笈多共訳、601年、大正蔵264) の3種で、漢訳三本と称されている。
 漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が、「最も優れた翻訳」として流行し、天台教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられている。 天台宗、日蓮宗系の宗派には、『法華経』に対し『無量義経』を開経、『観普賢菩薩行法経』を結経とする見方があり、「法華三部経」と呼ばれている。日本ではまた護国の経典とされ、『金光明経』『仁王経』と併せ「護国三部経」の一つとされた。

 鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』は28品の章節で構成されている。
 現在、日本で広く用いられている智顗(天台大師)の教説によると、前半14品を迹門(しゃくもん)、後半14品を本門(ほんもん)と分科する。迹門とは、出世した仏が衆生を化導するために本地より迹(あと)を垂れたとする部分であり、本門とは釈尊が菩提樹下ではなく久遠の昔にすでに仏と成っていたという本地を明かした部分である。迹門を水中に映る月とし、本門を天に浮かぶ月に譬えている。
 また、三分(さんぶん)の観点から法華経を分類すると、大きく分けて(一経三段)、序品を序分、方便品から分別品の前半までを正宗分、分別品から勧発品までを流通分と分科する。また細かく分けると(二経六段)、前半の迹・本の二門にもそれぞれ序・正宗・流通の三分があるとする。
前半部を迹門(しゃくもん)と呼び、般若経で説かれる大乗を主題に、二乗作仏(二乗も成仏が可能であるということ)を説くが、二乗は衆生から供養を受ける生活に余裕のある立場であり、また裕福な菩薩が諸々の眷属を連れて仏の前の参詣する様子も経典に説かれており、説法を受けるそれぞれの立場が、仏を中心とした法華経そのものを荘厳に飾り立てる役割を担っている。
 さらに提婆達多の未来成仏(悪人成仏)等、”一切の衆生が、いつかは必ず「仏」に成り得る”という平等主義の教えを当時の価値観なりに示し、経の正しさを証明する多宝如来が出現する宝塔出現、虚空会、二仏並座などの演出によってこれを強調している。そして、この教えを信じ弘める行者は必ず世間から迫害されると予言するキリスト教やユダヤ教等とも共通する「受難劇」の視点も見られる。
 後半部を本門(ほんもん)と呼び、久遠実成(くおんじつじょう。釈迦牟尼仏は今生で初めて悟りを得たのではなく、実は久遠の五百塵点劫の過去世において既に成仏していた存在である、という主張)の宣言が中心テーマとなる。これは、後に本仏論問題を惹起する。
本門ではすなわちここに至って仏とはもはや歴史上の釈迦一個人のことではない。ひとたび法華経に縁を結んだひとつの命は流転苦難を経ながらも、やがて信の道に入り、自己の無限の可能性を開いてゆく。その生のありかたそのものを指して仏であると説く。したがってその寿命は、見かけの生死を超えた、無限の未来へと続いていく久遠のものとして理解される。そしてこの世(娑婆世界)は久遠の寿命を持つ仏が常住して永遠に衆生を救済へと導き続けている場所である。それにより”一切の衆生が、いつかは必ず仏に成り得る”という教えも、単なる理屈や理想ではなく、確かな保証を伴った事実であると説く。そして仏とは久遠の寿命を持つ存在である、というこの奥義を聞いた者は、一念信解・初随喜するだけでも大功徳を得ると説かれる。
 説法の対象は、菩薩をはじめとするあらゆる境涯に渡る。末法愚人を導く法として上行菩薩等の地湧(じゆ)の菩薩たちに対する末法弘教の付嘱、観世音菩薩等のはたらきによる法華経信仰者への守護と莫大な現世利益などを説く。

妙法蓮華経二十八品一覧
前半14品(迹門)
第1:序品(じょほん)、第2:方便品(ほうべんぼん)、第3:譬喩品(ひゆほん)、第4:信解品(しんげほん)、第5:薬草喩品(やくそうゆほん)、第6:授記品(じゅきほん)、第7:化城喩品(けじょうゆほん)、第8:五百弟子受記品(ごひゃくでしじゅきほん)、第9:授学無学人記品(じゅがくむがくにんきほん)、第10:法師品(ほっしほん)、第11:見宝塔品(けんほうとうほん)、第12:提婆達多品(だいばだったほん)、第13:勧持品(かんじほん)、第14:安楽行品(あんらくぎょうほん)

後半14品(本門)
第15:従地湧出品(じゅうじゆじゅつほん)、第16:如来寿量品(にょらいじゅうりょうほん)、第17:分別功徳品(ふんべつくどくほん)、第18:随喜功徳品(ずいきくどくほん)、第19:法師功徳品(ほっしくどくほん)、第20:常不軽菩薩品(じょうふきょうぼさつほん)、第21:如来神力品(にょらいじんりきほん)、第22:嘱累品(ぞくるいほん)、第23:薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)、第24:妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)、第25:観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんほん)(観音経)、第26:陀羅尼品(だらにほん)、第27:妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)、第28:普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼつほん)

その他の追加部分 第29:廣量天地品(こうりょうてんちぼん)、第30:馬明菩薩品(めみょうぼさつぼん) 28品のほか、以上の追加部分も成立しているが、偽経扱いとなり普及しなかった。「度量天地品第二十九」は冒頭部分のみを除いて失われている。『妙法蓮華経』28品と同じくネット上でも大正新脩大蔵経データベースで閲覧できる。

法華七喩(ほっけしちゆ)
 法華経では、7つのたとえ話として物語が説かれている。これは釈迦仏がたとえ話を用いてわかりやすく衆生を教化した様子に則しており、法華経の各品でもこの様式を用いてわかりやすく教えを説いたものである。これを法華七喩、あるいは七譬(しちひ)ともいう。
1.三車火宅(さんしゃかたく、譬喩品)
2.長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品)
3.三草二木(さんそうにもく、薬草喩品)
4.化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品)
5.衣裏繋珠(えりけいしゅ、五百弟子受記品)
6.髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)
7.良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)

成立年代
 『法華経』の成立時期については諸説ある。
 代表的な説として布施浩岳が『法華経成立史』(1934)で述べた説がある。これは段階的成立説で、法華経全体としては3類、4記で段階的に成立した、とするものである。第一類(序品~授学無学人記品および随喜功徳品の計10品)に含まれる韻文は紀元前1世紀ころに思想が形成され、紀元前後に文章化され、長行(じょうごう)と呼ばれる散文は紀元後1世紀に成立したとし、第二類(法師品~如来神力品の計10品)は紀元100年ごろ、第三類(7品)は150年前後に成立した、とした。
 その後の多くの研究者たちは、この説に大きな影響を受けつつ、修正を加えて改良してきた。だが、近年になって苅谷定彦によって、「序品~如来如来神力品が同時成立した」とする説が唱えられたり、勝呂信静によって27品同時成立説が唱えられたことによって、成立年代特定の問題は「振り出しにもどった」というのが現今の研究の状況だ、と管野博史は1998年刊行の事典において解説した。
 中村元は、(法華経に含まれる)《長者窮子の譬喩》に見られる、金融を行って利息を取っていた長者の臨終の様子から、「貨幣経済の非常に発達した時代でなければ、このような一人富豪であるに留まらず国王等を畏怖駆使せしめるような資本家はでてこないので、法華経が成立した年代の上限は西暦40年である」と推察した。また、渡辺照宏も、「50年間流浪した後に20年間掃除夫だった男が実は長者の後継者であると宣言される様子から、古来インド社会はバラモンを中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケースは現実味が乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響が少ない社会環境でなければならない」と述べた。

流布
 ユーラシア大陸での法華経の流布
 この経は日本に伝わる前、ユーラシア大陸東部で広く流布した。先ず、インドに於いて広範に流布していたためか、サンスクリット本の編修が多い。羅什の訳では真言・印を省略する。添品法華経ではこれらを追加している。
 またチベット語訳、ウイグル語訳、西夏語訳、モンゴル語訳、満洲語訳、朝鮮語(諺文)訳などがある。これらの翻訳の存在によって、この経典が広い地域にわたって読誦されていたことが理解できる。チベット仏教ゲルク派開祖ツォンカパは主著『菩提道次第大論』で、滅罪する方便として法華経を読謡することを勧めている。
 ネパールでは九法宝典(Nine Dharma Jewels)の一つとされている。
 中国天台宗では、『法華経』を最重要経典として採用した。中国浙江省に有る天台山国清寺の智顗(天台大師)は、鳩摩羅什の『妙法蓮華経』を所依の経典とした。

日本での法華経の流布
 『法華義疏』『平家納経』観普賢経見返し 長寛2年(1164年)
 日本では正倉院に法華経の断簡が存在し、日本人にとっても古くからなじみのあった経典であったことが伺える。 606年(推古14年)に聖徳太子が法華経を講じたとの記事が日本書紀にある。 「皇太子、亦法華経を岡本宮に講じたまふ。天皇、大きに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ。」(巻第22、推古天皇14年条) 615年には聖徳太子は法華経の注釈書『法華義疏』を著した (「三経義疏」参照)。
 聖徳太子以来、法華経は仏教の重要な経典のひとつであると同時に、鎮護国家の観点から、特に日本国には縁の深い経典として一般に考えられてきた。聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。最澄によって日本に伝えられた天台宗は、明治維新までは皇室の厚い尊崇を受けた。また最澄は、自らの宗派を「天台法華宗」と名づけて「法華経」を至上の教えとした。

鎌倉時代
 鎌倉新仏教においても法華経は重要な役割を果たした。 大念仏を唱え融通念仏宗の祖となる良忍は後の浄土系仏教の先駆として称名念仏を主張したが、華厳経と法華経を正依とし、浄土三部経を傍依とした。 一方で浄土宗の祖である法然や浄土真宗を開いた親鸞などは、比叡山で万人成仏を説く法華経を学んだのちに、持戒や難行を必要としない称名念仏を万人成仏の具体的な手段として見出し、専修念仏を説いた。 曹洞宗の祖師である道元は、「只管打坐」の坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも法華経の教えの中に探し求めていこうとし続けた。臨終の時に彼が読んだ経文は、法華経の如来神力品であった。
 日蓮は、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え(唱題行)、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも仏性が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来る、という教えを説き、法華宗各派の祖となった。それまでも祈祷や懺悔滅罪のために法華経の読誦や写経は盛んに行われていたが、日蓮教学の法華宗は、この経の題目(題名)の「妙法蓮華経」(鳩摩羅什漢訳本の正式名)の五字を重んじ、南無妙法蓮華経(五字七字の題目)と唱えることを正行(しょうぎょう)とした所に特色がある。

 近代 近代においても法華経は、おもに日蓮を通じて多くの作家・思想家に影響を与えた教典である。島地大等編訳の『漢和対照妙法蓮華経』に衝撃を受け、のち田中智学の国柱会に入会した宮沢賢治(詩人・童話作家)や、高山樗牛(思想家)、妹尾義郎(宗教思想家)、北一輝、石原莞爾らがよく知られている。
 1945年太平洋戦争での敗戦後、法華経は女人成仏は可か否かなど一部の文言については進駐軍の意向もあり教学上、解釈の変更も一部の宗派では余儀なくされた。
 経本としても流通しているが、『妙法蓮華経』全体では分量が大きいこともあり、いくつかの品を抜粋した『妙法蓮華経要品』(ようぼん)も刊行されている。

経典としての位置づけ
法華経を所依の経典とする派の立場
 法華経を所依の経典として重視する諸派は、法華経を、釈迦が晩年に説いたとする釈迦の法(教え)の極意{正法(妙法)}と位置づける智顗の教説を継承している。

文献学的研究者の立場
 一方、文献学的研究では、法華経が、西暦紀元前後、部派仏教と呼ばれる専従僧侶独占に反発する教団によって編纂されたと推測する説もある。 また、文献学といっても、たとえば、サンスクリット重視の立場で研究しても、そのサンスクリット原典そのものが、原典ではなく、写本であり、その成立年代も漢訳の仏典より、さらに新しいという例も多々あり、文献学もいまだ発展途上である。

文献学的研究に対する反応
 法華経の成立が、釈迦存命時より数世紀後だという文献学の成果に対し、日本と他の大乗仏教圏諸国では受容の仕方が異なる。日本の伝統教団では、師の教義を弟子が継承し発展させることは、生きた教団である以上あり得ることから、法華経をはじめ般若経、大般涅槃経など後世の成立とされる大乗経典は根無し草の如き存在ではない。釈迦の直説を長い時を経て弟子から弟子へと継承される課程で発展していったものとして、後世の経典もまた「釈迦の教義」として認める、という類の折衷的解釈を打ち出す傾向がみられるのに対し、中国・台湾、インド・ネパール、チベット・ブータン、モンゴル・ブリヤート・トゥバ・カルムイク等、他の大乗仏教圏諸国における諸教団・信者の間ではまったく釈尊の真説と認識され、このような文献学の営為を信者ではないものによる誹謗とみなしてほぼ黙殺、信仰を揺るがす問題には全くなっていない。



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